第3話 五月一日 皐月

―――神に救いを求めなさい。

―――さすれば貴女を神は救うでしょう。




「最悪だ・・・・・・」

目覚まし時計のアラームを叩き、不機嫌そうにそう呟いた私を咎める者はいない。

夢の中でまで家の外に出られない、そんな夢を見たのだから仕方がない。

しかもご丁寧にも天使とやらが現れて、御大層な文句を垂れていた。

「いつからそんな趣味持ったのよ、私」

これが並の女子ならば「今日は天使が夢に現れたの、ラッキー」くらいに思うのかもしれないが、私はそうは思えないタイプの人間だ。

「神様なんて、いやしないのよ・・・・・・」

そう、私はリアリストだ。

神などいない。

そう、信じている。

「いないものに助けを求めろだなんて、矛盾もいいところだわ」

よいしょっ、と掛け声をかけてベッドから立ち上がるとそのまま窓に近寄り、カーテンを開いた。

五月一日。五月晴れ。

昨日は結局仕事を休むことになってしまったが、運のいいことに世はゴールデンウィークに突入した。

自動車業界は工場を止める都合もあり、大型連休が超大型連休になるのが当たり前で、本来だったら昨日も休みのはずだった。いわゆる有休推奨日というやつだ。

つい、いつもの癖で出勤しようとしてしまったが、よくよく考えれば休んだ方がいい日であり、肉体的にも休むべきだった。

結局、昨日は一歩も家の外へは出られなかったのだから。

幸い、パニック発作はまだ起きていない。

けれど、外に行こうとするだけで身体が震え、不安でたまらなくなるのだ。

病院に訪ねたくてもこれでは行けない。

ゴミ捨てにさえ、行けないのだから。

「さて、どうしたものかなー」

今日は少しだけ身体が軽い気がする。

やる気のあるうちにやれることをやろうと、私は顔を洗うためにそのまま脱衣所へと向かう。

顔を洗い、洗濯機を回し、換気扇を付ける。

窓を開け、換気をし、キッチンでお湯を沸かす。

何気ない日常の動作。

問題無く出来るのに。

何故外に出られないのだろう。

私はお湯が沸くまでの間、スマホでパニック障害について調べることにした。

「えーっと、なになに・・・・・・広場恐怖・・・・・・?」

そこの記事にはこう書かれていた。

発作を怖がるあまり、外出が出来なくなる広場恐怖という症状があると。

特に人混みを避ける傾向になる、とあるが私の場合それ以前に部屋から出られない。

「じゃあ外出できないのも、発作の不安が根っこにあるからってこと?」

不安は確かにある。

医師も言っていたからだ、発作は何度も起きると。

あの苦痛を、恐怖を、何度も味わうのかと思えば不安にだってなる。

けれど、はいそうですか、とはいかない。

ゴミを捨てられなければ汚部屋街道まっしぐらだし、食料だって買いに行かなければならない。通販で買えるものもあるが、ネットスーパーは近場の店舗がなくて利用出来ない。

そもそも、通販が来たとして、ドアを開けられるんだろうか。

「うーん・・・・・・」

キッチンからケトルのお湯が沸いた音がして、私は慌てて火を止めに行く。

大好きなインスタントのカフェオレを入れて一口含む。

「あー・・・・・・ホッとするわー」

一人暮らしをしていると、自然と独り言が多くなる、と私は思っている。

テレビに向かってツッコミを入れたり、今みたいに思わず呟いてしまったり。

まあそれも、ツイッターに書き込む呟きに比べれば少ないものだが。

フッと、突如アイディアが沸いた。

のぞき窓からドアの外を見れば、少しは恐怖心が薄れるのではないか、と。

いそいそと玄関に向かい、のぞき窓から外を眺めてみることにした。

そこで私は変なものを見つけてしまう。

「―――猫?」

そう、猫。

真っ黒な艶々とした毛並みの猫。

首元に蒼い蝶ネクタイをした!

そんな猫がこちらを向いて綺麗にお座りしていたのだ。

「飼い猫なんだろうけど、蝶ネクタイって・・・・・・似合わないなぁっ」

ふふっと笑ってしまった私の声が聞こえたのか、黒猫はプイッとそっぽを向くとスタスタとどこかへ行ってしまった。

のぞき窓から離れた私は、まだ口元に笑みを湛えていて、あの黒猫のことが気になって仕方がない。

「どこの猫なんだろう。綺麗な毛並みだったな~」

射干玉の髪、そう呼ぶにふさわしい色。

それなのにアンバランスな蝶ネクタイをしているのがまた可愛らしかった。

―――ポトン。

「え?」

音はドアに設置された新聞受けからだ。

思わずのぞき窓をもう一度見るが、そこには誰もいない。

「―――どういうこと?」

取り合えず新聞受けを開けてみると、そこには一通の封書が入れられていた。

白地にシルバーの箔押しで薔薇が描かれた、上品な封筒。

あて名は書いてないものの、差出人のところには「カフェ・セラピスト」とある。

古風にも封蝋が施されたその封書に、私は何故か惹きつけられた。

「カフェ・・・・・・セラピスト?」

リビングに戻り、カッターで丁寧に封を破ると、そこにはコーヒーの香りがする便箋が入っていた。

「わぁ・・・・・・いい匂い」

挽きたての豆の香りのような香しい薫りに、私は感嘆の声を上げる。

そして便箋の内容へと目を通してみた。

「身体の不調、心身の不調、癒します。今ならコーヒー一杯無料券付き。どうぞお越しを。―――カフェ・セラピスト。・・・・・・なにこれ」

カフェのオープン記念なのだろうか?

それにしては随分と凝ったチラシ・・・・・・もとい、手紙である。

それにしても気になるのはこのワードだ。

「不調、癒します・・・・・・ってカフェでしょ??」

封筒の中には黒地に金の文字で「コーヒー無料券」なるものが入っている。

しかも有効期限が五月五日。

あと一週間もない。

しかし、便箋から香るコーヒーの香りは魅惑的で、不調癒しますという文言も今の私には気になりすぎた。

「よし、このカフェに行けるようになろう」

そう、真っ白な上質の手紙は、まるで外へと私を誘う招待状のようだった。




「ねえねえ、彼女来るかな?」

「さあな」

「来てくれるといいわよね」

「相当天使臭かったよ。可哀想だよねぇ」

クスクスと笑うように、そしてはしゃぐように語り合う者達。

「お前、どう思う?」

そう振られた男は、口の端を軽く上げて笑う。

「さあ?」




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