第3話 崩壊
筆が走る。まるで何かに突き動かされたように、いくつもの曲線を描いては消し、重ねていく。
その重なりがやがて輪郭となって、彼女を形作っていく。
少しずつ、少しずつ──。
「春希くん、まだなの?」
「あと少しだから動かないで」
「むぅ…」
約束の日から2週間。
今日の天気は曇りだ。時々、雲の隙間から覗くようにして太陽が顔を出している。
まだ絵が完成してないのには理由がきちんとある。それはただ単に彼女と過ごす時間が少ないからだ。
患者服を着ていることから、彼女は入院していると分かった。
何の病気かは分からないが、決まった時間に薬を投与しているらしく、なかなか時間が合わなかった。
彼女と過ごしていくうちに、彼女と僕は似ている部分がいくつかあることに気づいた。
まず一つ目は、この桜の木が好きなこと。それは初めて出会った時にお互いに知った。
二つ目は、風景を見るのが好きなこと。特に星空を見るのが好きらしい。
そして三つ目は…どちらも頑固だということだ。こうと言ったら、お互いに意地を張って、言い合っては笑う。
彼女と過ごす時間は、あっという間に過ぎていった。
彼女は、入院する前は陸上部だったそうだ。
走るのが好きで、県でも上位の実力だったらしい。
その話をする時の彼女の表情はとても生き生きしていた。
でも、ふと目が曇る瞬間が度々あった。
それが何故なのか、僕には分からない。
いつか彼女が話してくれる日が訪れるのだろうか…。
そんな日が続き、そして今日…
「完成だ!!」
僕は嬉しさで勢いよく立ち上がった。
間違いない、今までで一番の絵だ。
胸を張って、自分の自信作だと言える。
キャンパスに描かれた彼女と桜の木の絵。
ひらひらと桜の花びらが舞い散る中で、佇んでいる彼女。
晴れやかな笑顔は、まるで花びら達と舞い踊る天女かのようにも見えた。
「ほんと!?見せて、見せて!」
「はい、どうぞ」
桜が舞い散る中を、彼女が小走りで近づいてきて、僕のキャンバスを覗き込んだ。その距離にドキマギしてしまう自分がいる。
「これが私…」
そんな僕の心境など知らないであろう彼女は、僕の絵を見て黙り込んでしまった。
俯いてしまい彼女の表情は僕には分からなかった。
もしかして気に入らなかったのだろうか…。
やっぱり僕の絵は…。
一気に不安が押し寄せてきた。
「…すごい。春希君、やっぱり君はすごいよ」
「えっ?」
彼女はそう呟いて顔を上げ、僕の方を向いて笑った。
とても幸せな顔をしていた。まるでもう満足だと言わんばかりに微笑んでいた。
「こんな絵を描いてくれるなんて…私、春希君と出会えて良かった。もうこれ以上の幸せなんてないよ。これで私、思い残すことなんてない」
「はは、桃香、自分が死んでしまうような言い方してるよ。世界の終わり…じゃ…」
ないんだから、と言おうとしたが、思わず言葉を失った。
なぜなら目の前で彼女が、ポロポロと涙を流していたからだ。
彼女の頬から落ちた涙が地面に吸い込まれ、小さな斑点を作っては消えていく。
気づけば太陽は雲に完全に隠れていた。遠くからは分厚い雲が押し寄せてきているのも見えた。
「も、桃香、ぼ、僕、へ、変なこと言ったかな?ご、ごめん…」
やばい。
彼女を泣かせてしまった。
笑顔が絶えなかった彼女の涙を、僕は初めて見た。僕はこれまで彼女が泣く姿を見たことがなかったために、どうすればいいのか分からなかった。
「ご、ごめん、春希君。なんでもないよ。絵を描いてくれてありがとう。じゃあ、またね」
早口に僕に言い残し、キャンバスを半ば押し付けるようにして彼女は立ち去ってしまった。
その時の彼女の横顔は、涙で溢れ、世界の終わりを迎えてしまった、ような顔をしていた。
まるで運命には抗えない…そんな表情だった。
引き止められなかった。
何も言えなかった。
何より彼女を泣かせてしまった。
彼女と出会ってから、僕の毎日は変わった。
僕の凍りついた心を溶かしてくれた。
引っ込み思案だった僕を、春色の世界へと連れて行ってくれた。
彼女は、とても明るくて、元気で、怒りっぽくて、不器用で、でも可愛くて。
本当に、何かの病気にかかっているのかと思うほど、彼女は元気だった。
そんな彼女が涙を流した。
彼女が背負っているものの重さを、僕は理解していなかった。
いや、1ミリも理解しようともしていなかったんだ。
もっと理解しようとしていれば、もしかしたら未来は変わったのかもしれない。
なら、僕はどうする?
起こしてしまったことを、このままにしておくのか?
本当に彼女とはこのままでよいのか?
僕は…僕は…
「彼女を支えたい」
確固たる意志が、言霊として外に零れた、
それに伴うようにして、僕の心の中では、控えめな愛らしさが芽生えていた。
彼女には笑っていて欲しい。
僕はそう願った。
きっと、明日もここで会える。
その時に聞こう、彼女が抱えている重荷を。
次の日、雨が降り出した。
傘を手に、僕はこの桜の木の元で彼女を待った。でもいつまで経っても彼女は来なかった。
その次の日も同じようにして待っていたが来なかった。
青いヒヤシンスが近くの花壇にぽつりと咲いていた。
気づかなかった。
僕と彼女の中の歯車が狂っていることに。
気づけば良かった。
僕と彼女の関係が崩壊していることに。
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