第2話 約束
桜が宙を舞う。
まるで、春が喜んでいるかのようだ。
その中で佇む彼女は…
「春希君、私のことは桃香って呼んでね!敬語は無しだよ?よろしく!!」
その明るい表情と同じトーンのボイスを響かせた。その声は一瞬天使の福音かと思ってしまうほどその声は透き通っていた。
ドキッ。
あれ、なんだこれは。
心臓がバクバクと言っている。
手汗も凄いのが分かる。
敬語無しと言われても、僕は苦手だ。
僕はその性格と行動故にあまり他人と打ち解けることは無かったから。
それに、女の子の名前を呼び捨てにしたことなんか今まで1度も…。
「おーい、春希君?聞こえてますかー?」
思考の池に浸っていると、天使の福音によって僕は現実へ引き戻された。
気づけば目の前に彼女の顔があった。
「わわっ!!きっ、聞こえてるよ、聞こえてる!こ、こちらこそ、よ、よろしく!も…桃香っ!」
突然の彼女の行動、慣れない敬語抜き、名前呼びにあたふたしつつも、僕は早口で答えた。
「うむ、よろしい。春希君は、どこの中学校に通っているの?」
「地元の──中学校だよ」
「あぁ、あそこかあ!私、その近くの──中学校なんだよ。意外と近くだね」
そう言って彼女は微笑んだ。
ドキッ。
あ、まただ。
彼女の笑顔を見ていると、胸が高鳴る。
「その手に持ってるのって、キャンバス?」
「そうだけど…」
「もしかして春希君、美術部か何かかな?絵が好きなの?」
「うん、僕美術部に所属しているんだ。小さい頃から絵を描くのが大好きなんだ」
彼女と話していると、何故か心が暖かくなる。
まるで春風に導かれ、桜の花の蕾が綻ぶように───。
次から次へと僕の閉じこもった蕾を開いてくれる。
彼女になら、何故か想いを素直に話せる。
「へぇー。ね、キャンバスに描いてある絵、見せて!」
「えっ、でも…」
「お願い?だ、ダメかな…?」
少し上目遣いをしたうるっとした瞳。
どこかほっそりとした顔つきに、漂う香り。
その表情にやられたのと、その鼻腔をくすぐる香りにドギマギしてしまう自分がいた。
そんな彼女の頼みを断れるはずがなく…
「う、うん、いいよ。同じ絵ばかりでも良ければ…」
「やったぁ!ありがとう」
ぱあーっと明るく笑顔になった彼女。
コロコロ変わる彼女の表情は、見ていてとても面白い。
そんな彼女の新たな一面を見れたからいいかと、自己完結する。
僕が今まで描いてきた中庭の桜の木のキャンバスを渡すと、途端に彼女の表情が変わる。
「これって、この桜の木の絵だよね?何度も描いているんだね。あ、でも少しずつ違うね…細かい部分まで描いているなんてすごい、まるで桜の成長記録を見ているみたい…」
うっとりとした彼女の声に導かれるように、そよ風が僕らの隙間を通り過ぎていく。
風が彼女の髪をさらって、首筋が見える。
細く、白い───。
またドキッと胸が高鳴る。
彼女は僕の方を見て言った。
「春希君が描く桜の木は、まるでキャンバス上で生きているみたい。眺めていると、まるでこの桜の木の下にいる気分になるね」
「そ、そんな、僕の絵なんて、ただ素直に描いているだけだよ」
そんな風に言われ、照れくさくなった僕は彼女から視線を外した。
そう、僕はただ描きたいだけだから。
自由に、描きたいものを描く。
それが僕の絵に対するポリシーのようなものだ。
「ね、私の絵を描いてくれないかな?この桜の木と一緒に!」
「えっ!?ぼ、僕が!?」
突然彼女はそんなことを言い出した。
不安よりも驚きが勝った。何故僕なんかに頼むのか。僕は彼女の真意が分からなかった。
初対面の相手で、お互いに何故この病院にいるのかも、中庭にいるのかも分からない。そんな出逢ったばかりの人に物事を頼む理由が僕には分からなかった。
「む、無理だよ…桃香のことを描くなんて。僕、あんまり上手くないし、他の人に頼んだ方が…」
「春希君がいいの。君に描いてもらいたい。君が描いた絵が見たい。だって、運命のように惹かれたから。初恋の人だから…それに、私が生きた証を残したいの…」
風で揺れた木の葉達のざわめきによって、絵が見たいのあと、彼女が何を言っているのか聞こえなかった。
理由は分からないけれど、こんなにも熱心に頼むからには、何かわけがあるのだと思った。
それなら…
「…分かった。桃香のことを描くよ。僕に絵を描いて欲しいなら、僕も全力で君の期待に答えるよ」
彼女の為なら描ける。
彼女の絵を描いたら、きっと今までで1番良い絵になる。
僕は何故かそう確信した。
「本当に?!ありがとう、春希君!約束だよ?」
彼女は小指を立てて、僕の前に差し出した。
白く、小さなその小指は、触れてしまえば消えてしまいそうに儚い…僕にはそう見えた。
僕はこの約束を必ず果たす。
「分かった、約束する」
そう決意して、差し出された彼女の小指に僕の小指を絡ませた。
彼女の手はほんのりと暖かかった。
「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます!指切った♪」」
決まり文句を唱え、僕らは示し合わせたかのよつうに互いに顔を見合わせた。
「「ふふっ、あはははははは」」
そして笑った。
こんなにも笑ったのは久しぶりだ。
なんて清々しいのだろう。
彼女と一緒にいると、どんな時でも笑っていられる。
もう1度桜の木を見上げる。
花びらが1枚、また1枚とひらひらと舞っていく。
それを見て願わずにはいられない。
まだ散らないでほしい。もっと長く生きてほしい。
僕と彼女がずっと一緒に笑っているのを見守っていてほしいと。
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