一春の記憶
紗麗
第1話 出逢い
爽やかな風が桃の香りを運んでくる。
イチイの蕾たちが芽吹き、花を咲かせる。
若人達が希望に胸を膨らませ、桜に祝福され、新たな一歩を踏み出す。
春とは、出会いと決別の季節。
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白地に染まった建物。周りは木々に囲まれ、緩やかな坂を下った先に、僕の目的地があった。
時は4月。少しずつ桜が綻び始める時期。
さくらピンクで塗られた風景と言う名のキャンバス。少し緑と空色が混じった風景が、僕の瞳には美しく映った。
僕は生まれつき身体が弱い。
だから、みんなと同じように遊ぶことや運動することは出来なかった。
クラスのみんなが昼休みになるとボール片手に飛び出していくのを羨ましいと思いながらも。ずっと室内で過ごしていた。
その代わり、絵を描くことが好きだった。
空の絵、雲の絵、道端の木、自由に飛ぶ鳥…目の前に映る景色を描くことが好きだった。
今日は、定期検診の日。
この病院には小さい頃から定期検診を受けるため、毎週通っている。
病院の自動ドアを潜り、真っ先に窓口へと向かう。顔馴染みの受付のお姉さんは、僕の顔を見るなり、いつものように対応してくれた。
財布から保険証を出して、受付のお姉さんに「お願いします」と渡して、僕は小さな本棚が隣にある椅子に腰掛ける。
スクールバッグからキャンバスと鉛筆を取り出し、今日は何を描こうかと景色を思い出し、先程見たさくらピンクの絵でも…と考えたところで、やっぱり教室から見た校庭で遊ぶクラスのみんなの様子を描こうと思った。
桜は僕にとっては特別な花だからだ。
「芽吹様、芽吹様。診察室へお入りください」
待合室に響く柔らかな、温かみ溢れるアナウンス。先程の受付のお姉さんが、僕の名前を呼んでいた。
待合室に入ると、これまた顔馴染みの看護師のお姉さんがいた。バイタルチェックから始まり、最近の体調の様子や質問に答えていく。そのことを僕のカルテに細かく記載していく作業の繰り返しだ。
「よし、異常なし、と。うん、前よりは身体も丈夫になってきたみたいだね。でも無理はしないようにね」
「分かりました」
「またおいで」
僕のカルテを見ながら、担当医から今日の診断結果が伝えられる。小さい頃からお世話になっている、少しふくよかな男性医師。
その優しい声のトーンが幼い頃から僕は好きだった。安心出来るからこそ、僕が定期検診をめげずに続けている理由のひとつだったりもする。
診断が終わると、待合室で今日の会計を待つ。再びバッグからキャンバスを取り出し、描きかけの絵にさらに手を加えていく。
今日中に完成しそうだな、と手応えを感じていたところで、再び僕の名前が呼ばれた。
受付のお姉さんに今日の診察代を渡す。「お大事に」と言う声に後押しされ、僕は入口…ではなく、別の場所に向かって歩き出した。
病院の入口とは別の、中庭へと続くドアを開けた。途端に入り込む春の風、新鮮な空気が鼻腔をくすぐる。
「やっぱり外はいいな」
口から零れる春の木漏れ日。
病院の中庭には桜の木が何故かポツリと1本だけ植えられている。
僕はその桜の木が好きだった。
理由は分からない。でも不思議とその桜の木の傍にいると心が落ち着いた。
嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと…どんな気持ちもこの桜の木は受け入れてくれるように思えた。
僕はいつも定期検診が終わると、真っ直ぐにこの桜の木へと向かう。
そして描くのだ。
たくさんの人の希望や思い、願いが詰まったこの桜の木を。
『この桜の木に願うと、不思議なことが起こる』
そんな誰が捏造したのか、それとも本当の話なのか分からない言い伝えがある。
この病院に長く通っているある老人に聞いたお話だ。
その影響があるのか否か、僕は何度もこの桜の木を描いている。
同じようで少しずつ、ほんの少しずつ移り変わっていく桜の木を…キャンパスへと描く。まるで、僕の願いを込めるかのように──。
「ん?誰かいるのか?」
この時間帯、いつもは誰もいない中庭に人影が見えた。
その人は桜の木を見上げていた。
怪訝な顔をしつつ近づいてみると女の子だった。
僕と同じくらいの身長で、とても痩せ細っていて、触れてしまったら壊れそうで…そう、例えるならヒヤシンスだと思う。
そんなことを考えていると、少女がこちらを向いて、目が合った。
その少女は、にこりと笑うと、僕と1メートルの距離へと入り込んできた。
「あなたもこの桜の木が好きなの?」
そう話しかけられて、僕はドキリとした。
人と話すことが苦手で、特に女の子とはあまり話さない僕にとって、面と向かって女の子と、しかもこの距離で話すのは初めてだった。
心臓が速く脈打っているのが、他人事のように思えた。
「は、はい…その何故だか分からないけれど、この桜の木にいると、不思議と心が落ち着くんです」
心臓が口から飛び出そうになるのを抑え、僕は上擦った声で返答する。
『も』と彼女は言った。彼女も桜の木が好きなのだろうか?
「その気持ち分かるよ!私もね、悩み事とかある時に、ここに来るとね、この桜の木に『頑張れ』って励まされてる気がするんだ」
そう言って彼女は笑った。まるで芽吹き始めたばかりのような小さな花のような笑顔だ。
でも、僕にはその笑顔がどこか曇っているように見えた。
まるで桜の花びらのように散ってしまうのではないか───。
僕はそう感じた。
「いきなり話しかけてしまって、ごめんなさい。私は、桜蘭桃香。15歳です。あなたは?」
「僕は、芽吹春希。あなたと同じ15歳です」
それが僕、
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