養老センセイと”まる” その2

 さて、番組のことをもっと書かないとタイトル詐欺だと怒られそうだ。今回はまずは、見どころというか、見てほしいポイントを紹介する。


 ひとつめは、もちろん、まるである。しぐさや、愛くるしい表情で癒されるし、あの独特のどすこい座りも個性的だ。先生がエッセイのどれかで関節がおかしいという話を書いているし、あの座り方はほぼ、まるの特権と言える。先生の机をのしのし歩き、原稿か何かなのか、仕事の書類をふんずけて行く王道の猫あるあるも、自分じゃなくて他人がくらっているとこんなに和む。朝にえさくえ攻勢を受ける話とか、私なんかより猫を飼っているみなさんには本当に味わいぶかいのではないか。

 ウッドデッキやベンチで、ごろごろ遊んでいたり、寝転んでいる。何かの鳥が鳴き声を上げて通りかかったときだけ、ワンテンポ遅れてぱっとそっちを見る。最高である。音楽まで、鳥が通ってからまるが動くまで、止まってくれる。最高である。こういうのを語彙がしんでるというのにつっこんだ状態である。普通の文章で、連続して「最高である」なんて書いたら、どっちかはミスだろうから削れということになるはずだ。うむ、こうかいておけばこれはミスではないと伝わるに違いない。


 ふたつめは、鎌倉の風景である。先生のお宅の、ちょっと昔の家のいいところを醸し出したようなお庭や、通路のたたずまい。道の両側に広がる植物の暗めの緑と曇りの雰囲気、白く彩る雪。あるいは木漏れ日のつくる柔らかな影。自然が見せる素晴らしい古都らしい風景、だが田舎というか辺鄙すぎず、ほどよい交通の便をうかがわせる先生の移動の様子。まるや先生を柔らかな風景の一部として包み込み、美しい。


 みっつめは、養老センセイである。落ち着いた色のジャケットとスラックス、それに合う濃い色のベスト。近所のおしゃれおじいちゃまである。服に合わせた帽子をかぶせたら、そのままご旅行に出かけてしまわれるのではないかと思ってしまう。講演に行く黒でまとめた上下だとすっきりしていて、講演会で話すセンセイらしい。近所のおじいちゃまではない。

 書斎の本の山。とくに、机の上のちょっと無造作気味な山にふふっと笑ってしまう。なぜかああなるよね。私の実際の先生(大学でのゼミの教授)も、机の上にあれ以上に本を積み上げていて、年に何回か、ばーっと要らない本を放り出す。

 養老先生の本は、世間ではたぶん、『バカの壁』と『唯脳論』が双璧なのだろう。売上的にも知名度的にも。しかし私がおすすめするのは『解剖学教室へようこそ』である。あとのエッセイで書いているネタのほとんどのフックが、既にある。得した気分になるし、内容を表したような、表紙のガイコツ(西洋の昔の解剖図)がオシャレとかっこよさと生死感を出しているのもよい。

 それはさておき、書類ケースの上でまるちゃんが寝ていて、スタッフの人が、先生に、まるはどれくらい先生の言うことをわかっているのかという質問をする。先生はわかってないでしょう、と笑う。当たり前である。猫の言葉を人間は話さないし、猫の感情を細かく読み解くことが人間にはできていないからである。猫がそんな人間ほど細分化された感情や思考のめぐらしをしている気もしない。


 養老先生は多くの著書で文明批判的なものを書いている。番組でも少し先生が話をするが、先生にとっては、現代の人間が都市を作ったり何かを作ったり、画一化を進めたりするのは、人間の理屈で動く世界で人間は暮らしたいから、なのだろうか。

 確かに、人間のルールに従ってくれない町とか、困る。道路を敷くときは乗り物が走ったり人間が行き来しやすいように平らに作る。道路の凹凸のまま大きくでこぼこしていたり、山道でもないのにぐねぐね曲がっていたら、そこを使う人間は文句を言うだろうし、最初からそんな道を作ろうとする会社もなかろう。


 犬や猫は、飼い主やそのほかの人を見分けるために、臭いの情報に重点を置いていて、嗅覚が発達しているのだろう。人間はそうした感覚がなくても視覚だとか、声の違いとか、会社や学校なら名札が付いているとか、そもそも個人はどうでもよくて、そういう学校や会社のような所属あるいは、性別や年齢、母親であるとか妻であるとかどういう人間関係があるとかいう属性を重要視する生き物なのか。

 見ていて、聞いていて、思ったのは、人間は同じ部分を探して分類したり、同じという感覚で物事を仕分けていき、猫のような動物は、違いを探し、その違いに重点を置いて、かぎ分けていく生き物なのだろうかということである。


 先生のたとえ話のように、チェーン店の例えばコーヒーは、どこで買っても同じである。同じになるようにするのが、都市化とかグローバリゼーションとかそういうものなんだろうと先生は考えているようだ。


 私は賛成か反対かとか別にして、なるほどと思っている。違いを認識しなくなっていく世界なのだ。スターバックスはどうか知らないし、今はどうか分からないが、昔見たテレビ番組で、日本でも元祖であるアメリカでもない国のマクドナルドのメニューの話をしていたことがある。例えば、イスラム圏やヒンズー圏では、宗教的な食生活に配慮したメニューが強化されている。あとは独自のメニューがある。同じメニューでも、なんだか忘れてしまったが日本では他の国と味付けが異なるメニューがあると流していた。同様にメニューによって特定の店舗だけ味が異なるメニューがいくつかあるらしかった。


 厳密にいえばそういう味付けやメニューの差異があるが、そういう、よその国のハンバーガーを考えながら近所のスーパーのフードコートやマックの店舗で並ぶ人は、いないだろう。自分の食べなれた、自分のなかにある「マックのハンバーガー」が食べたくて並ぶわけである。そしておそらく、いつもの店以外で買うときも、自分のなかにあるそれを、買いたいのだ。


 そういう画一化につかれた人の中から、ミニマリストは現れたのかもしれない、と私は思った。嫌になったとか、疑問をもったとか、問題定義したいとか。とくに日本では、この時にはこれを持っていないといけないとか、そういう宣伝が多いかもしれない。本屋に立ち寄ってファッション誌や主婦雑誌を読むと、だいたい、何かを買わせようとする。

 本当はマストアイテム(必要不可欠なもの)は人によって違うと、読む人も分かっているとは思う。子どものころに玩具や服を「みんな持ってるから買ってー」とねだっては、「みんなって誰なの?具体的に言いなさい」などと叱られるのだし。


 窮屈なモノサシをいくつも器用に(?)使い分けるニンゲンのなかで生きていくであろう私には、養老先生とまるの距離感は、こっそり隠し持っておきたい尺度である。


 なおこの文章の一部は、放送直後に手書きで素早く書きとめた文章群が含まれている。


 しかし、7キロってまるちゃんお前……なんつー重さなのよ……むしろ先生の膝に乗っちゃダメだよ(笑)。




 とにかくこの番組はオススメである。養老先生か、先生の主張が嫌いな人以外なら、再放送を発見し次第どんどん見て、まるちゃんにめろめろになるとよい。

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