第4話

授業中は上の空だった。

身の危険や明日をどう生きるかという問題が迫っている中、勉強どころではない。授業内容はまったく頭に入ってこず、何を教えられたのか記憶もない。


次の時間は体育。

こんな状況でも、センセイに会えるというのは嬉しかった。心の拠り所となっているのだろう。センセイと出会わなかったら、私はもう死んでいる。


「あっついねえ、プールって来月からだっけ」

隣の席に座るサキがそういってきた


「たしかそうだったかなあ。でも、去年より暑いよね、絶対」

「そうそう、思ったー。その辺、TPOをわきまえろってのー」


こんなに追い詰められていても、こうして平然を装うことができる。


こういった何でもない会話をしてるとき、特に何も考えずに話をしている。端から順番に点呼が始まって、「4」のつぎだから自分は「5」だ、なんて考えなくても答えられるぐらい、無意識にできることだった。


文字通り右から左へ流れるだけの生き方なんだろう。

「へっ? なんで?」

サキが私に目を向けて言った。私は急いで長ジャージを履ききる。彼女はさらにつづけて、


「暑くない? ありえないんだけど」

見れば彼女は、体操着の半袖短パンという出で立ち。対する私はスカートのまま長ジャージを身につけていた。


「なんかさ、急に女を意識し始めたっていうかさ。短パン恥ずくない?」

私の問いにサキは、

「いや、そっちの方が恥ずくない? みんな水着の中、自分だけ体操着着てるみたいなカンジ」

どうやらその感じ方はサキだけではなく、クラス中の注目となっていた。


そして。

「日村、おまえ暑くないのか?」

センセイまでもがそう言った。


「いや、ちょっとね。ま、気にしないで」

しばらくセンセイは訝しい表情をしている。だがすぐに、「時間がなくなるから」という理由で授業を始めた。


授業中は何事もなく進み、普通に終わった。相変わらず一部の女子が「女子に筋トレなんてさせるなって」とか「児童虐待、女性蔑視」だとか言っている。


いちいちイラつかせる考え方だ。筋トレさせるのが女性蔑視になると思っているらしい。ホントにうんざりする。


体育の時間が終わったときのこと。

「日村、ちょっと準備室にこい」


準備室とは体育準備室のことで、センセイのような体育教師が詰めている職員室みたいなものだった。体育で使われる道具も収納されていて、運動会とかで使う大がかりなものは隣の倉庫に保管されていた。


「ちょっと、なんで私だけー」

なんか手伝いでもさせられるのだろう。


「ユウカー頑張ってねー」

とサキに見送られて、ブツブツ文句を言いながら、センセイの後をついて行った。


準備室には他に二人の先生が詰めていた。センセイは隣の倉庫に私を呼ぶ。倉庫の扉を開いて私を先に入れたあと、後ろ手で引き戸を閉めた。


窓から入る光が、倉庫内の空気中に舞うホコリを照らしていた。私は思わず袖で口元を覆うようにする。

途端、バッと近寄ってきたセンセイは、私の足下にしゃがみ込んだ。


「えっ、センセイ、なに?」

長ジャージの両サイドを掴むようにして持ち、一気にずり下げる。

「わっ、きゃっ」


声を出しそうになる私を、センセイが口元に人差し指を立てて静止した。

昨日のことで火がついちゃって。

と思った私は、やはりまだまだ子供だった。


「やっぱりな」

センセイは私の太ももを注視して言った。

「えっ、あー……」


太ももには、大きなアザが残っている。長ジャージを履いたのはこれを隠すためだった。だけど、センセイと接している間は有頂天だったわけで。


「お母さんか?」

「……」

違うと言うべきだった。


だけど、オオゴトにしたくない、嘘をつきたくない、でもセンセイに気がついて欲しい、守って欲しい、という感情がごちゃごちゃに絡みあって言葉が出てこなかった。


「今朝か?」

私はセンセイに小さく頷いた。その拍子に、いつの間にか溜まっていた涙がこぼれ落ち、センセイの頬を濡らした。


「ごめんな。もっと早く対処するべきだった」

「いやだよお、離れたくない」


私はセンセイに抱きついて泣いていた。

センセイも私を抱きしめてくれていた。

隣には他の教師もいるのに。私たちは倉庫でキスをした。


「ちょっと待ってろ」

そう言って、センセイは倉庫から出て行った。私はその間に涙を拭いてなんとか通常モードに戻そうとする。


「日村、こっちに来い」

隣の部屋からセンセイにそう呼ばれる。おそるおそると準備室を覗いた。


「あれ? 他の先生は?」

「ちょっとの間、出て行ってもらった。生徒のプライバシーを守るためにな」


「あ、ああ。そっか。ありがと」

察した私は、借りてきた猫のように準備室に入る。センセイに促されるように椅子へと腰を掛けた。


「次の授業は出られないと言っておいたから、心配しなくていい」

「うん、わかった」

センセイは冷たいお茶を出してくれた。体育の後だったので身体中に染み渡る。


「なんか食うか?」

私が首を縦に振ると、高そうなチョコレートクッキーを箱ごと置いてくれる。

お腹が空いていた私は、1つ、また1つと袋をあけて食べ始めた。


数分だけ間をとって、センセイが話し始めた。

「キッカケは?」


なるべく平静を装って、何事でもない感じでこう答える。

「お金」

「金?」


センセイがわからないといった顔をする。

「んと、私がお金持っていること言わなかったから、それがバレて」

「取り上げられたか?」


「うん、そう。ご飯どうしよ」

「そこは心配せんでいい。俺がなんとかする。それで?」

ぽんぽんと頭を撫でてくれる。


「うん、隠してたのが気にくわなかったみたいで」

「手を出されたと」

私はうつむいたまま黙っていた。


「今までもよくあったのか?」

「あんな強いのは初めてかな。軽くベッドから蹴り落とされるぐらいは何度か」

「軽く、ねぇ……」


しばらくセンセイは目を瞑ったまま、考え込んでいる様子だった。私はその間も出されたお菓子に手を伸ばしパクパクと食べつづける。


これまでも、これぐらいお腹が空いたことはあった。だけど、あまりにも直接的に絶望を目の当たりにしたせいか、身体が余分に栄養を溜め込もうとしているような気がする。それぐらいに、食べても食べても満腹を感じなくて不思議だった。


「ねぇ、私、これからどうなるの?」

お菓子を食べる手を止めて、センセイにきいた。

「おまえはどうしたい?」


どうって言われてもなあ。私は今と変わらない生活をつづけたかった。家のこと以外は。いまの人生から、お母さんだけいなくなれば、それでよかった。だけど、そんなことはセンセイには、好きな人のまえでは言えない。センセイにだけはすこしでも大人に見られたかったから。


しかし、こんな決定的な虐待の傷跡を見せられては、教師としては放置できない問題なんだろう。もし今回これを見逃して、この先もっとひどい目に遭った場合、センセイが責任をとらされるかもしれない。このまま何事もなく穏便に、ということは望めそうになかった。


「おまえさえよければ、養女に引き取ってもいい」

「へ?」


想定していなかったことなので、思わずセンセイの顔を食い入るようにみてしまった。頭の中に広がっていく思考の波は、すぐに壁へとぶち当たる。


センセイの保護下に入るということは、センセイと結ばれることをあきらめるということだ。昨日の待つ待たないの話が無効になってしまう。社会的に「子供のために」と制定されてるルールは、こんなときでも私の邪魔をするのか。


「それは……やだよ。だって」

センセイは小さく頷いている。言わなくてもわかるといった風だった。


「じゃあ、施設や自治体に頼ることになるが」

「学校変わらずに済む?」


「いまは色々厳しくなっていてな。子供を守るために定まった場所で、決められた教育を行なう地区もあるんだ。施設から通うことが周囲にバレて、イジメにつながる可能性もあるしな」


「ここはどうなの?」

「調べてみてるんだけどな……」

ないのか。


「子供を守るため」という余計なお世話が、再び私を邪魔をしているようだ。つまりセンセイを保護者として暮らしていくか、センセイと離れて暮らしていくかを選べということ。


力を込めてセンセイの手を握る。

友達が見ればみんな首を傾げるだろう。いくらなんでもこの恋はないんじゃないって思われるかもしれない。

でも、私はこの人が好きだった。


父の面影も見ていると思う。センセイとしても好きだ。しかし、ちゃんと男性として、この人と添い遂げたいと思ってしまう。この人と家族になって、これからも笑って暮らしたかった。単にそれだけなんだよ。


意を決した私は、センセイを一直線に見てこう言った。

「わかったよ」

「ん?」

「私、施設に入る」


準備室が静まりかえった。外では体育をやっているらしく、かけ声が聞こえてきた。

「いいのか?」


「仕方ないもん」

「わかった。じゃあ、先生の方で必要な手続きをしておく」

「でも」


「なんだ?」

「私は、絶対に帰ってくるから。センセイの元に必ず」


そういってセンセイの首に腕を回して抱きつく。座っている先生の膝に腰を掛ける。顔をゆっくり近づけて目をつむる。キスをかわす。積極的に舌を絡める。センセイも私の腰元に手を当てて、しっかり抱き留めてくれた。


誰かに見られたら懲戒処分ものだろう。しかし、外れてしまったタガを収めるには、しばらくの時間を要した。


「そういえば昨日な」

我に返った風にセンセイが唇を離す。身体を引いて言葉をつづけた。


「森に、告白されたんだ」

ああ、あの子言ったんだ。


思ったよりも度胸のある彼女の行動に驚いてしまう。そんな積極性があるなら、今までのイジメもはね返せたのではなかろうか。


「だから、様子がおかしかったんだね」

女子高生のお嫁さんの話をしていたときの、センセイの慌て方の違和感はこれだったのか。1日に2人も生徒に迫られれば、そりゃあ驚くってもんだ。


「キス、したの?」

センセイは、一瞬言葉が聞こえていないような表情をした。

「はぁ?」


「いや、私とはしたじゃん」

「あれはおまえが――いや、してないよ。ちゃんと断った」

「ふーん」


再びセンセイに近寄り、首の後ろに手を回す。耳元に口を近づけて、

「じゃあ、ゴホウビあげよっか?」

と言ってみた。するとセンセイは、


「ばっ、バカ! いくらなんでもココじゃあ」

「じょーだんだヨ。インコーで捕まりたくないっしょ」

センセイの膝からピョンと飛び降りた。


腰から崩れ落ちたセンセイは、近くにあった椅子に倒れ込むように座る。安心したような、残念そうな顔が可愛かった。


「あのな、日村。おまえは自分で思っているより、女として成長してるんだ。冗談であんまりやたらめったにくっつくんじゃない」

「はあい」


「じゃあ、教室に戻ろうか。送ってやるよ」

「いいよ、別に。子供……だけど、そこまで子供じゃないんだし」


「色々と説明しなければならんからな。ついでだ」

「あ、そっか」

といって、センセイと一緒に準備室を出た。


準備室を出てすぐのことだった。

「げっ」


色気の欠片もないようなこのセリフは私のものだ。そんな雰囲気に構っていられないぐらい、切羽詰まっていることを意味している。


「森……」

センセイが言った。私が先を歩き、センセイが後ろをついてくるように歩いていた。後ろから声が聞こえるが、私は目の前にたたずんでいるモリカナから目を離す気にはなれなかった。


「いや、これはさ」

と何から、いやどこから言い訳しようか迷ってしまい、口をつぐんでしまう。


「なんとなくわかってたけどね。日村さんが、笹岡先生と付き合ってるのは」

真相が飛躍しているのだが、それを正す気にはなれないほどの感情なのは事実だ。そして彼女の右手にはカッターナイフが握られている。それから目を離さないようにして、慎重に言葉を選ぶ。


「森、授業はどうした?」

センセイらしい言葉選びだったが、あまりに不健全な状態なので教育者としての立場は通りそうになかった。


「サボりました。日村さんと一緒ですね」

首をかしげてニッコリと笑う。ただ笑っているだけなのに、その姿が不気味で仕方ない。到底この世のものとは思えないぐらいだった。


「日村はちゃんとした正当な理由があったんだ。それにこれから教室に戻る」

「キスして抱き合うのが、授業をサボる正当な理由になるんですか?」


一瞬にして立場が逆転した。何を反論しても言い訳がましくなってしまい、相手をより増長させてしまう気がした。


「あのね、モリカナ。私もセンセイが好きだってことを、黙ってたのは謝る。ごめん。でも、まだ付き合ってないし、そこまでの関係じゃないの。センセイには家のことで相談にのってもらって」


「で、キスしたの?」

むぅ。これはいよいよ何も言い返せないぞ。何を言ってもそこに返ってくるような気がした。


「じゃあ、どうすればいいの? 私があきらめてセンセイをあんたに渡せばいいってこと?」

色々と考えが煮詰まった私は、思わずそんなことを口にしていた。


「言ったよね」

「何を?」

「殺すかもって」


モリカナの明確な殺意を感じた。カッターの刃をカチカチと引き出していく。陽光に照らされたそれは、鈍く光っていた。


「日村さん、私はね、あなたとセンセイが付き合っていることを怒ってるわけじゃないの」

だから、まだ付き合ってないってば。


「あなたが、私を騙してたことが許せないの」

「だから、騙してたわけじゃないってば。私が言ったのも昨日の晩のことだし、それもちゃんと断られたの!」


「なのにキスしてたの? 仲よさそうに抱き合ってたの?」

ああ、もうダメだこれは。


完全に論破されてしまい、頭の中が真っ白になっていた。

そのときだった。


「日村!」

センセイの声が聞こえた。


ハッとして意識を戻すと、正面にはカッターを構えたモリカナが迫ってきている。

押しのけるような強引な力が横から加わる。私はそれに突き飛ばされそうになった。


だけど。

横から加わる力に、足を踏ん張って懸命に堪えた。


押しのけるような力の正体はセンセイ。センセイが私を守るため、私を押しのけようとしたんだろう。突き飛ばしすぎないように加減してくれたのかもしれない。私なんかの力でセンセイの力に耐えられたのだから。


ふと気がついたとき、すぐそばにモリカナの気配を感じた。

「ぐぅっ」


右の脇腹が痛んだ。固い何かで肉を挟んだときのような強い痛み。そこを中心にじんわりと痛みが広がっていく。生暖かい何かで包まれているような気分だった。意識が途切れそうになっていく中で、私はセンセイに言った。


「お願い。オオゴトにしないで。躓いたところに私がいただけ。単なる事故だから」

一瞬だけ驚いたようなセンセイの顔。涙に濡れていて、必死な顔で、かわいくて、格好良かった。


意識が完全に途切れたわけではないけど、ボーッとしていてよくわからなかった。


なんか救急車がきて、タンカで運ばれて、マスクのようなものをつけられた。止血のためか何かを傷口に強く押し当てられていて痛かった。その激痛がさらに意識を遠のかせる。


その間もセンセイは必死で私に声をかけてくれていて、手を握ってくれていた。モリカナは救急車には乗っていなかったようだ。


ちょっと怪我をして保健室で手当をして、モリカナがゴメンって言って、仲直りするぐらいのことを想像していた。正直、予想以上にオオゴトになってしまっているようで、なんとも居心地が悪かった。


なによりも、このことが母に知られたとき、何を言われてどうなるかが一番怖かった。


弾みでモリカナが事情を説明することになって、私とセンセイのことが露見して、そうなるとセンセイはどうなるんだろう。アヤちゃんはどうなるんだろう。私はどうなるんだろう。


そんな先行き不安の中で、私の意識は完全に途切れてしまった。

次に目を覚ましたとき、何もかもが解決していればいいのに。


なんだったら全部夢だったらいいのに。

センセイのこと以外は。

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