第5話
視界の先は白い世界が広がっている。
それが天井だと気がつくまで、数秒のときを要した。
壁、カーテン、ベッドのパイプ、布団、シーツ。すべてが白で統一されている。
自分が思っていた以上に、「白」が気持ちを落ち着かせる色なんだと実感した。
すぐそばで、椅子に座ったまま、眠っているセンセイがいた。開かれた窓の外は暗く、生ぬるい風が入り込んできている。丸い月が神々しく光を放っていた。
「センセイ……」
思った以上に声がでない。かすれた小さな声になった。
「ん……気がついたか」
ハッとしてセンセイが起きる。自分でも届いたか自信がなかったけど、センセイの耳にはちゃんと届いているようで安心した。
「いまって」
私がそう言うと、センセイはすぐに腕にはめている時計に目を落とした。
「深夜2時だ。ずいぶん寝てたな」
体育が2限目だったから、12時間以上は寝ていたことになる。
「傷は深くない。体力が落ちてるから安静にする必要はあるが、心配するな」
「うん、わかった」
そう答えただけで、どっと疲れがのし掛かる。意識が朦朧としていく。
「ただ、な……」
センセイはなにやら切り出しにくそうだ。
「いいよ。言って。私は大丈夫だから」
「そうか? それじゃ、順を追って説明するぞ」
センセイが話し出した内容はこうだった。
まず、モリカナに関しては、私の希望どおり「事故だった」ということを説明してくれたらしい。モリカナ本人にも口裏を合わせるように言ってあるらしく、あとは私が状況を説明すればいいだけとのことだった。
なんとなく、センセイにウソをつかせてしまったことへの罪悪感が募る。
しかし、あれは私も悪い。彼女の方法が正しいとは言わないけど、もっと早く、私がセンセイに好意を抱いていると伝えればよかったのだ。たぶん。
それを、「ライバルってことはない」と彼女に断言してしまった故に、モリカナは必要以上に、高くから突き落とされてしまった気持ちになったんじゃないかと思った。
あの子が日常的に刃傷沙汰を起こすなら別だけど、今回のことは発作的だったということを信じて、私の胸に納める形で済ませたかった。
もちろん、そうすることで私にもメリットがある。
もし私がここで、感情的になって彼女を責めると、彼女は動機を説明しなければならなくなる。それは私とセンセイのことが、世に露見してしまうことを意味する。私やセンセイは自業自得だとしても、アヤちゃんに迷惑をかけることだけはしたくなかった。
彼女はただ、日々を一生懸命に生きている。
お菓子も我慢して、真面目に毎日を過ごしているだけなのだ。
そんな彼女を、父親が懲戒処分を受けたなどという現実に巻き込みたくなかった。
100%何の罪もない少女が被害が被るなんて、絶対に嫌だ。
それこそ、私のすべてを犠牲にしてでも止めなければいけないと思っていた。
「本当にこれでよかったのか?」
センセイが私の手を握りながら言った。
「もちろん。私なりに色々考えてんだよ」
「ああ。だから、おまえの気持ち的にってことだ」
モリカナは過ちを犯した。だから社会のルールに従って制裁を受けるべきなんだろう。だけど、この国は、一度レールを踏み外した者に冷たいようにできている。一度でも踏み外してしまえば、真っ当に生きるためのハードルが何段階もあがる。
ここで彼女に傷害の罪を被せてしまえば、もしかするとモリカナは将来、新たな「私のお母さん」になるかもしれない。心に傷を負ったまま、生まれてくる子供に接して欲しくなかった。
「わかった。それで、もう1点あるんだが」
なんとなく普通ではないことはわかっていた。
いまこの場にいるのが、保護者であるお母さんではなく、いち教師であるセンセイだということが、ある意味物語っている気がしたのだ。
「おまえの手術中に」
「うん」
「虐待の痕が見つかってな」
「……」
「それも太ももの一カ所だけじゃなくって、背中や腹にも」
何も言えなくなった。
「お母さんは、児童虐待で事情聴取された」
「そっか」
「それでな」
まだ終わりではないらしい。一番恐るべきことを想像してしまった。
「取り調べをすすめていくうちに、お母さんの言動に不審な点があったらしい」
本当にあの人は、迷惑ばかりかけてくれる。
「精密検査の結果」
娘が刺されて入院してるってときに、何やってんだか。
「薬物の反応がみつかった」
とりあえず、瞳を閉じて深呼吸をした。なんて返すのが最適かを考える。いつもみたいにおどけた感じがいいのか、神妙な顔つきで力なく答えるか、それとも何も返さない方がいいのか。
「おまえ、知ってたんじゃないのか?」
思わず大きく反応してしまった。
「告げ口したりしないから、言ってみろ」
私は、力なく首を縦に振った。
「そうか」
耳がキーンとなって、ただでさえ朦朧としている意識がさらに遠のく。これからのことを考えると不安だったり、うんざりしたり、悲しかったり、いろいろ考えてしまう。
「どうして言わなかった?」
「言わなかった?」
「あ……すまん」
「誰に何を言えるっていうのよ。そんなこと。何やっても私の環境が変わるわけだし、せっかく幸せだったのに、それも失っちゃう。お母さんが真人間に戻るのはもうあきらめてた。これからもあの人を背負って生きていくんだろうなってことは、ぼんやりわかってた。だけど、私は私なんだよ。あの人の娘だけど、私なんだよ。なんであの人に振り回されて一生終えなくちゃいけないの? 母親って、そこまで子供を縛りつける権限があるの? 子供だって好きで生まれてきたわけじゃない。好きであの人の子供として生まれてきたわけじゃない。そんな中でやっと、幸せだなって思い始めてた頃に、またあの人が原因で……もう疲れちゃった」
涙は出なかった。
代わりに、途方もない脱力感に駆られていた。
いまベッドを降りて、自分の足で立てるとは思えなかった。
それぐらい全身に力が入らなかった。
センセイはしばらくの間、何も言わなかった。
私が止めどなく吐き捨てる言葉を、静かに聞いてくれていた。
反論するわけでもなく、同調するわけでもない。だけど、目はしっかり開けて、時折頷いて、私の手をしっかり握ってくれていた。
「ごめん。センセイに当たっても仕方ないのに」
「構わないさ。俺は教師だからな。生徒の言いたいことを受け入れるのも仕事のうちだ」
至って真面目な顔つきで、設定されたセリフを話すよう流暢に話すセンセイを見て、思わず笑いが零れた。
「ヘンなの。他人なのに、そんなに思い入れしてたら身が持たなくなっちゃうよ」
「他人とは思ってないからな。おまえがイヤと言おうが関係ない」
「イヤなわけないし」
センセイの手を握り締める。するとセンセイも両手で包むように握りかえしてくれた。センセイの手は大きくて、温かくて、頼もしかった。
心の底から、この人が親だったらこんな想いはしなかったんだろうなと思った。アヤちゃんみたいに真っ当に生きていたんだろうなって思った。
アヤちゃんがうらやましくなる反面、親族でなくてよかったという想いもあった。ただ、この人のことを深く愛しているんだという気持ちが強くなった
だからこそ。
「私、どうなるのかな」
「うん、児童養護施設に入ることになる」
「そっか。場所は?」
「俺が探してるんだが、より良いところをとなると、すくなくとも近くでは……」
それはそうか。ましてや親が薬物依存で逮捕されたとあっちゃ、「子供を守るために」この界隈から離れて暮らさせる必要があるんだろう。
「ただ、責任を持っておまえに一番の場所を探してやるから」
だから? 早く一人前になって帰ってこいって? 待っててやるって?
ふんっ、そんなキレイごとだけで恋する乙女が収まるわけないでしょうに。
指先だけでおいでおいでをする。センセイの顔を近づさせて、キスを交わした。
想いが先行して身体が追いついてこないような、激しいやつだ。
とてもじゃないが、何年間も離れて待てるわけがない。高校生の性欲ナメんな。
そうして、しばらくの日が過ぎ去った後、私たちは結ばれた。
私がどうしても我慢できないと押し切ったような形だ。
退院したあと。
センセイが施設を探していれている間、しばらくは家で生活することになった。
学校には無理に来なくて良いと言ってくれた。別に行ってもいいんだけど、別れがつらくなるだけだから、行く気が起きない。
自宅へ戻ってみるが、部屋は散らかったままで誰もいなかった。
ひとりは散々経験したはずだ。だけど、退院しても迎えてくれる人がいないというのも、なかなかに寂しい気持ちだということを私は学習した。
センセイの家に行きたかったけど、いきなり押しかけるのも気が引ける。そもそも平日の午前中だから、センセイはおろか、アヤちゃんすら家にいないだろう。
どうしたものかと途方に暮れていると、家のチャイムが鳴る。
私の知り合いで、この時間に尋ねてくる人は皆無のはずだ。
とすると……。
扉を開けないままに訪問者に声をかける。
「どちらさまでしょうか」
「あ、えーっと、お母さんの知り合いの者だけど」
男性の声だった。とりあえず言葉遣いは丁寧にしているが、抑えつけているような、無理やり取り繕っているような印象だ。
私の第六感が、扉を開けるなと言っている。
お母さんの知り合いで家まで尋ねてくるって……それだけでロクなイメージが沸かない。
「どういったご用件でしょう? いま母は留守にしているんですが」
「知ってるよ。俺たちはキミに用があるんだから」
私に?
扉の向こうで、抑えた声で「ばかやろう」と聞こえた。それは私の問いかけに答えている人とは別の声だ。
「私にですか? どういったご用件でしょう」
「とりあえず、ココを開けてくれないかな?」
その言葉に、私は迷っていた。
迷うといっても、10対0で開けたくない。迷っていたのは、どうすれば開けずに帰ってもらえるのか、どうすればこの窮地を脱出できるのかということだった。
「来客にこのまま応対するなんて失礼じゃない? こっちはキミに話があるんだからさ」
だんだんと声の主がイライラしているのがわかる。静かに玄関から離れて、窓から外をこっそり見てみた。
黒いワンボックスカーと、ガラの悪そうな人たち数人が辺りを警戒していた。距離はそう遠くなく、その人たちの顔や車の様子までわかる近さだ。身を低くしてバレないように観察する。そもそも平日の真っ昼間からウロウロしている時点で相当怪しい。
私はその人たちに見つからないように窓際から離れると、スマホを取り出した。
いま電話してセンセイは出てくれるだろうか。いや、そもそもセンセイが駆けつけてくれるということは、センセイをこの騒動に巻き込んでしまうということ。そしてその背景にアヤちゃんの姿がチラついていた。
ダメだ。巻き込みたくない。
扉をドンドンと叩く音が激しくなる。私はほとんど無意識の状態で、スマホを触っていた。
仕方がない。
母の責任は私がとるしかないんだろう。退院したその日に押しかけてくる辺り、下調べは済んでいそうだ。下手に逃げ回っても振り切れない気がしていた。
「いま開けます」
そう伝えて、家の扉をゆっくり開けた。
玄関口に立っていたのは、ふたりの男性。
一人は黒いスーツで金髪の若い人、もう一人は白いスーツで黒髪をオールバックにしていた。ふたりともサングラスをしていたが、まあ、一般人ではないだろう。
「どうも」
そういって白いスーツの人がズカズカと玄関に入ってきた。家の玄関は非常に狭いので、私は家の中に押し込まれる形となる。それでも大柄な男性ふたりを収容することはできず、黒いスーツの方はドアを開けたまま廊下に立っていた。
「井川というもんですわ」
白いスーツの人がそう名乗った。
「はあ、それでどんなご用でしょう?」
あんまりビクビクしてても逆効果になる気がした。あくまで毅然とした態度で、弱みを見せないよう気構える。内心ビクビクしていて足が震えそうだけど、一生懸命に堪えながら会話をすすめる。
「ぼくらね、お母さんにお金を貸してるんだけどさ」
予想どおり。
「お母さんパクられちゃったでしょ?」
あなたたちが渡したクスリでね。
「それでキミに払ってもらおーかと」
あまりに古くさいやり方に笑ってしまう。この情報時代で、そんなやり口が通用するとでも思っているのだろうか。
「私が? どうしてです?」
「お母さんが、キミを連帯保証人にしていてね」
あの母なら考えそうなことだ。
「私、未成年ですけど?」
「知らないの? 未成年でも連帯保証人にはなれるんだよ」
「いや、なれることは知ってます。だけど、25才になるまで、いつでも契約を無効にすることができますよね。そんな不確かな契約でお金貸してて大丈夫なんですか?」
井川という人がやや驚いたような顔になり、黒いスーツの人と顔を合わせる。ふたりはにやりと笑って、再び私の方を見た。
「お嬢さん、よく勉強してるね。将来は弁護士か何か目指してるのかな」
やたらに余裕たっぷりな表情が気になった。
「おい」
井川がそう言いながら、黒スーツの人に視線を向ける。黒スーツの人は「へい」と言って、胸ポケットから取り出したスマホを操作し始めた。やがて、井川にスマホを手渡す。
「ほら、ごらん。これでも同じセリフが叩けるのかな」
そこに表示されていたのは、とある動画だった。
時間は夜だろう。真っ暗な中でとある建物が映し出されている。
中から明かりが漏れていて、窓は開いていて室内が丸見えの状態だった。
その建物は病院で、その窓は私がいた病室。そこにいるのは私とセンセイの姿。
私たちは服も着ずに、ふたりで抱き合っていた。
「この人、たしか学校の先生だよね。笹岡先生だっけ。小学校3年の一人娘がいて……」
そこまで聞いて、私はすべてをあきらめた。
「最低ですね」
「仕事なんでね」
「もう、それ以上話をしなくてもいいです。私はどうすればいいですか」
「頭が良いお嬢さんだ。お母さんとは大違いだね。あんたの母親サイテーだよ」
「はあ?」
「シャブが欲しくて、娘を売ったんだから」
私は、井川の左目を握り拳で殴りつけていた。
井川は左目を押さえながらその場でうずくまる。黒スーツが「アニキ!」と言いながら、しゃがみ込んだ井川に駆け寄った。井川は黒スーツの手をふりほどいて、右目で私を睨む。
「あんたに、お母さんの何がわかるっていうの? 大好きなお父さんに離婚されて、追い打ちのように先立たれて、潰されそうな悲しみの中でもお母さんは生きてたの」
「どうやら眠ってた獅子を起こしてしまったようだね」
井川がそんなことを呟くが、火がついた私の感情は止まらなかった。
「死を選ばずに自分の足で立って歩きつづけたんだよ。クスリを使ってでも生きようとしてくれたんだ。お母さんの気持ちが、あんたなんかにわかるもんか」
左目を押さえたまま右目だけで、井川はじっと私を見ていた。
お母さんは、お父さんを誰よりも頼りにしていただけだ。お父さんが大好きだっただけだ。自分の娘に嫉妬してしまうぐらいに。
「つれてけ」
井川がそう言うと、入り込んできた黒スーツが私を羽交い締めにする。
「触んないで! 強く抑えなくても、ついていくから!」
私の剣幕にひるんだのか、黒スーツの力が弱まった。
センセイは何があっても巻き込めない。親子ふたりで頑張って生きている中に、横やりをつつくようなことはしたくなかった。
私は手に持っていたスマホを、玄関脇の小さな靴入れの上にそっと置いた。
「ホントに頭の良い、肝が据わったお嬢さんだ。こんな関係だけど、正直尊敬するよ」
私が廊下に出たあと、井川のそんなセリフが背後から聞こえた。
その後の私の転落は、実に急速だった。
前日まで普通の生活をしていたことが、むしろ夢の中の出来事のように思えた。
初めて見る裏社会というのは、自分が思っていた以上に闇が深く、見る者すべてが気持ち悪い、魑魅魍魎が渦巻く世界だった。
私を指名した客の中には、財界のえらい人やテレビで見たことがある人。それこそ表向きは真っ白いイメージしかないような公職のえらい人。外国のお金持ちなど様々な人がいた。
たしかにファザコンの気がある私だが、これはさすがにいただけない。こんなパパ活は認められない。私的にも。社会的にも。
日々、男性客の相手をする。傷がつくと値段が下がってしまうため、痛いことはされなかった。それでも気が狂いそうなほど屈辱的で、自我を保つのすら大変な毎日だった。
私のような客をとる女は売子(うりこ)と呼ばれた。
私以外にも何人か売子はいた。私より年上の人もいたし、綺麗な人もいた。昔テレビで見た人もいたし、アヤちゃんと同い年ぐらいの子もいた。明らかに外人とわかる人もいたし、パッと見ても日本人かどうかわからない人もいた。
基本的にみんな無口で、話をしようとする人はいない。言葉を忘れたのか、初めから知らないのか。お互いにそんなことすら、わからないような関係だった。
おそらく誰かと世間話をするという現実が、返ってつらくなるだけなんだろう。どうせ明日も明後日も、その次の日もずっと非現実が待っている。
渇きの果てに一度でも喉を潤してしまうと、また渇きに慣れなければいけない。その地獄の苦しみを味わうのは、できることなら死ぬまでに1度だけにしたかった。
中には、ある日から姿を見せなくなる売子もいた。だけど、そのことを尋ねる人はいない。もちろん私も。完済し終わって解放されたのか、それとも――考えたくなかった。
井川に「嫌なことを忘れられるクスリ」を何度かもらったけど、私は使わなかった。
これに手を出すことが、センセイに対する1番の裏切りになると思ったからだ。
無口な売子たちは、みんな瞳に光がなく、吸い込まれるような黒だった。
きっと、彼女たちはココロも壊されてしまったのだろう。
彼女たちを見る度に、余計にソレを使う気が起きなくなった。
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