第2話

あれから私の生活はすこし変わった。


夜の繁華街を出歩く代わりに、学校が終わるとセンセイの家に寄る。そして家事をやったり、アヤちゃんの遊び相手になって留守番する。掃除や洗濯だけでは暇すぎて、ご飯を作るために料理本を読み込んだりもした。


甲斐あって、日に日にレパートリーが増えていった。お金よりも、アヤちゃんがご飯を食べて「美味しい」と笑ってくれるのが、今まで感じたことがないぐらいに嬉しかった。


時折センセイの家に、「職員」の人が尋ねてくる。なんの職員かは知らないけど、普通のおばさんで毎回同じ人だった。そして家のこととか、センセイのこととか、普段なにをして過ごしているとかを聞かれる。


センセイにクギを刺されていたのもあって、私は普通以上に「優等生」を演じることになった。空いた時間は勉強していることになったので、成績がどれくらい上がったかを見せなくてはいけない。空気を読んで勉強に力を入れることになった。


ある日、言葉の弾みで料理のシェフになりたいと口走ってしまった。それまで将来の夢なんて考えてなかったので、少なからずセンセイの家での経験も影響しているだろう。


おかげで、料理の勉強をするならこの学校が良いだとか提案をされる。どんどん進路まで決まっていく始末だ。職員側も会話のネタがなくなってきたのだろうと推測した。


なんだかベルトコンベア式の如く、自動的に自分の人生が見えてきた。ただ、これまで漠然と日々を過ごしていただけだったので、これはこれでなかなか悪くない気分だった。


そうして私は高校二年になった。


すっかり優等生と変貌した私は、クラス替えにちょっとホッとする。友人たちに「アンタどうしちゃったの?」なんて言われ始めて、やりにくくて仕方なかったからだ。


こうでもしないと、わたしゃ生きていけないんだよ。

そういえば、どういう運命の巡り合わせか、森加奈とも同じクラスになった。


そして一年のときは、クラスからはみ出る程度だった彼女の立ち位置が急転する。

新しいクラスが始動して間もない頃。私の席の右斜め前でそれは起こった。


「アンタさ、なんで私らと口聞かないの?」

「なーんか、バカにしてる感あるよね」


一年のとき別のクラスだったリカとマキコが、森加奈の席の前に立っていた。話しているというよりは、一方的に騒いでいると言った感じだった。


「わかるー。ほら、なんか言ってみなよ」

「マジぶっさー」


リカが透明な下敷きを、正面から森加奈の顔面に押し当てた。森加奈が嫌そうに顔を背ける。唾液が横線を描くように伸びて、下敷きについた。


「きたねー。どーしてくれんのよ?」

「べんしょーしろ、べんしょー」

「この下敷き、5万したんだけど?」


安易なカツアゲにイラッとした。お金の貴重さをわかっていない。5万あれば何ができるかをわかっていない。5万を稼ぐための労力や、捨てなければいけないプライドがどれくらいなのかをわかっていない。


中学のセンセイの顔を思い出し、彼女を守らなければいけない使命義務感に背中を押させる。同時に牙を剥かない性分が必死に抵抗する。


それらとは別に対立に慣れていない私の心は、どっくんどっくんと高鳴る。座っていても足が震えていた。森加奈はうつむいて机の上をじっと見つめ、頑なに何も発しようとはしない。


彼女はどうして何も言わないのだろうか。

そう考えたときハッとした。


どうして私はお母さんに、何も言わないのだろうか。


そっか。我慢してるんだね。この子も争いごとがイヤなんだ。できることなら、穏便に済ませて生きたいだけなんだ。


椅子から立ち上がった私は、ツカツカと森加奈の席の前まで歩いて行った。


「あのさ、そういうのダサいからやめたら?」

かなりチャラい感じのふたりだったので、ハッキリ言ってビビっていた。奇跡的に声が上ずらなかったのが救いだ。


「はあ? あんた、なんなの?」

リカがこっちを見てイラついた様子で答える。同時に教室がシンと静まりかえった。クラスメイトが取り巻くように見ているのがわかる。


語彙力の低さにイライラする。彼女たちの頭の中には定型文しか用意されていない。口はその中からどれかを選んで、アウトプットするだけのプリンタみたいなものだ。考える頭や言葉を組み合わせる能力を持っていない。


彼女たちの言葉は、言われた側に理解させることを強いる傲慢なものだった。


一般的な「女子高生」とやらは、悲しいことに彼女たちのような少女を指す。それ以外の女子高生は、不運にも彼女たちと「十把一絡げ」にされてしまうのが世の常だった。


私はそれが嫌で嫌で仕方なかった。


女でもなく、男でもなく、「女子高生」という性別で見られている気がしたからだ。


「いま、そんな話してないよね。私はダサいから、やめたら? って言ったの」

「マジ意味わかんねーし」


「なにが? なにがどうわからないの? 私の言葉のどこがわからないのか、ちゃんと説明してくんない?」

「うぜー、なんなのこいつ?」


マキコに同意を求めるように顔を背けた。マキコは「わかんない。頭オカシーんじゃない?」と言っている。


「どうして次々と関係ない言葉で繋ごうとするの? まずは私の質問に答えてくれない? なにがどうわからないの?」

「あーもういいや。マジシラけた。いこっ」


リカはそう言って首をすくめて両手を開く。二人は背中を向けて教室の扉へ歩いて行った。途中、ゴミ箱に下敷きを強くたたき込み、キッとこっちを睨む。鼻で笑うような表情を残して教室から去っていった。


「あの……ありがとう」

か細くて、消え入りそうな声で森加奈が言った。あまりにブツブツ言っているので、シンと静まりかえっていた教室の中ですら、聞き逃しそうだった。


「森ちゃんさ、もうちょっと言いたいことをハッキリ――」

そこまで言いかけてやめてしまった。あまりにも自分のことを棚に上げてる気がしたからだ。


「ん、やっぱいいや。ごめん、なんでもない」

「うん、わかってる。私がなにも言わないから、余計に面倒になってるってこと」


素っ気ない返事か、何も言わないかと予想していたのでちょっと驚いた。あの森加奈が自分の言葉で話しているからだ。


「じゃあ、どうして」

「なんか、怖くって……言いたいのに言えないの。ごめんなさい」


「いや、うん。まあ、気持ちはわかるよ」

しばらく沈黙が訪れる。あまり親しくない人に話しかけてみたものの、話題が尽きてしまったときの居心地の悪さ。そして、その雰囲気を崩したのは、またしても彼女の方だった。


「日村さんは、どうして助けてくれたの?」

色々と心に突き刺さる言葉だった。


何故だろう。中学のセンセイに言われたから? 自分とお母さんの関係にダブって見えたから? 単純にリカたちが許せなかったから? 森加奈の中に共通項を感じたから?


ただ、いずれにしても「森加奈が可哀想だったから」という答えにはならなかった。どっちかと言うと、ダブって見えた自分が可哀想だったからという気がする。


同時に、彼女のセリフはもっと深い意味があるように思えた。


森加奈は、「何故、今になって助けてくれたの?」と言っているように聞こえた。何故、中学のときじゃなくって、今になって助けてくれたの?


そう言ってるように聞こえたんだ。


彼女のいじめが始まった一年の終わり頃。私は彼女を助けなかった。

迫り来る大波に対抗するには、私が乗っていた小舟はあまりにも小さすぎた。彼女を助けて舟に乗せると、共倒れになりそうなほどに。


だけど、彼女はそんなことを言いたいんじゃない。あのとき助けなかったことを責めているわけではない気がした。だから「困ってる人がいたから助けるのが当たり前」という、ありきたりな説明では理屈が通らない。


なぜ「いま」助けてくれたのか。昔と今、どう心境に変化があったのか。実際に実行に踏み切れたのはどうしてなのか。そういうことを聞いている気がした。


「なんかね、重ねっちゃってさ、自分と」

「重ねる? 日村さんが私と?」

「うん、そう」


彼女はわからないといった表情を浮かべている。考えているのか、何も言わなくなった。教室内はすでに喧噪が再開していて、もう私たちに注目している人はいない。


「でも、全然違う……」

「うん、違うね」

ほんとに私たちは似ても似つかない。だけどそれは、


「表面上はね。根っこの部分は結構変わらないのかもしんないよ。私たちだけじゃなくって、みんなね」

それがキッカケとなり、私たちは話をするような仲になった。そもそも性格が違うので大親友というわけにはいかないけど、以前に比べれば大きな進展だろう。


リカとマキコは、あれから私たちにちょっかいを出してくることはなくなった。だからといって仲良しになったわけじゃない。どうも、存在しないものとして扱うように決めたらしかった。たぶん、私を「めんどくさいヤツ」という位置づけにしたんだろう。


そして森加奈は話してみてよくわかったけど、重度のコミュ力欠如だった。本人に悪気はないらしく、そのことも自覚しているようだ。ただ、決定的に気が利かない、相手の身になれない、そして話題性に欠けていた。


端的に言えば、彼女と話していて楽しくないのである。本人に相手を楽しませようという意欲がないという感じだ。


実際に「カナといてもつまんない」と言われたこともあるらしい。おそらくそれがトラウマとなって、彼女から周りを遠ざけるようになったのではないかと推測した。


同時にかなりの妄想好きのようで、よく「もしも」遊びをしていたそうだ。


ひとりぼっちになってしまいがちの、彼女なりの処世術なのかもしれない。周囲に止める人もいない彼女は、妄想を膨らませて自分を満足させることを止めなかった。


「もし、明日死んだらどうする?」

ある日、彼女が問いかけてきた。


「んー、いまはちょっとやだなあ」

「いまは?」


「うん、やりたいことが見つかったしね。私、今までで一番真っ当に生きてるって思う」

「そう。幸せなんだ」

「かもしんないね」


妄想遊びも嫌いではないが、あまり頻繁に没頭するのは気が引けた。


それでも沈黙よりは断然良い。他に話題を提供することもできないときは、自然の流れに身を任せるように彼女の話に付き合うことにした。


「いまは、ってことは前は違ったの?」

「そうだね。いつ死んでも悔いはなかったと思うよ」


意外そうな顔をする。もっと聞きたそうな表情をしているが、なんて言えばいいのかわからないらしい。さすがコミュ力欠女。


「別に大した話でもないよ? ウチ、家がうまくいってなくってね。ホームがそんなだと、何もかも楽しくないっていうか」

「そんな風に見えなかった」


「まあ、外でも暗くしてたら、気が滅入って、とっくに自殺してたかもね。一種の現実トーヒだよ」

「でも、日村さん、本当に明るいから」


「そうかね? 別に嫌な気はしないけど」

たぶんそれは、そうしないと生きていけなかったからだと思う。だけどそのことを彼女に言う気がなかった私は、会話の矛先を変えた。


「モリカナはどうなの?」

自分に振られると思ってなかったのか、ちょっと目を開いて彼女は驚いていた。


「私は……」

「うん」

「私も、いまはイヤだな」


意外だった。彼女が生に執着しているとは思えなかったのだ。でも、

「いまは?」

もしかして友達ができたから、とか? なんて自意識過剰な妄想をしてみた。


「うん。好きな人がいるの」

いろいろ意外だった。まあ、普通っちゃあ普通なんだけど。そんなことを私に話す勇気が彼女にあったことが一番意外だ。


「へえ。ウチのクラス?」

「ううん」

「ほう。同じ学年?」

「ううん」

「年上?」

「うん」


3年かあ。

まあ、この年齢は先輩に憧れることもままあることだ。でも私は3年の事情に詳しくないので、これ以上聞いても顔すら出てこないだろう。


「まあ、良いことじゃん。恋はポジティブにさせるところあるしさ」

失恋しない限りね。


「うん、そうだね。中学のときより視界が明るくなった気がする」

なんとか中学のセンセイから授かったミッションを達成した私は、とりあえず肩の荷が下りたような気がした。


そして彼女がつづけてこう言った。

「笹岡先生なの」


「おーっす! ササっちーっ!」

屈強なセンセイの背中に飛びついて挨拶をする。


「日村ぁ。だから、こんなところでくっつくなって」

廊下のど真ん中で、センセイに後ろから抱きついていた。


「あと笹岡先生って呼べ。周りに聞こえたら誤解されんぞ」

「私は別に良くってよ」

「俺が困るわ」


こんなやりとりも別に深い意味はない。以前に比べて一緒に過ごす時間が増えて、私たちの関係は急接近した。あと日頃からの感謝の気持ちとか色々含めて、女子高生の柔らかさで恩返しをしているにすぎない。


「あ、そーだ。アヤちゃんが、ご飯代なくなったって言ってたよ」

「おーそうか。思ったより早かったな。じゃあおまえから――」


「いや、まずいっしょ。それこそ見られたら」

「だな。帰ったら置いとくわ」


私とセンセイは、学校で隠しもせずこんな感じだった。何人かの生徒に見られているが、特に怪しい噂は立っていない。たぶん、日頃からの私の性格と、センセイの人望だと思う。


「じゃあ、今日の買い物は私が立て替えておくね」

それなりにヒソヒソ声で伝える。


「おう、すまんな」

「じゃーねー」

と別れた。


あからさまにくっついたりしていると、意外とバレないもんだな。別にバレるもバレないもないんだけど。


「おー、サキ-!」

「ちょっ、優花あ、くっつくなって! 重いからー」


クラスメイトの女子に背中から抱きつく。


これは私なりのカムフラージュの意味もあって、別に誰かれ構わずスキンシップをはかりたいわけではない。その辺はワリと冷めてるところがあって、「女」自体があまり好きじゃないというのもあった。


そしてその日の放課後のことだ。

「日村さん」


モリカナが珍しく私の席までやってくる。大抵は私から声を掛けるので、よっぽど伝えたいことがあるのだと考えた。


「おう、珍しいね。すぐ準備するから、ちょっと待ってね」

手早く帰り支度を済ませ、一緒に教室を出た。


校門を出た辺りぐらいで、モリカナが本題に入る。

「笹岡先生と仲いい?」

おっと、それか。


以前、彼女に聞いたとき正直ショックだった。

なんだかよくわからないけど、胸をシャベルでザクっとえぐられたような感じ。


「ていうか、ササっちは誰とでも仲いいじゃん? 来る者拒まずって感じでさ」

「でも、笹岡先生と話しているときの日村さん、嬉しそう」


私、顔に出ちゃうのかな。それともモリカナが感付きやすい? どっちかわからないけど、なんとか取り繕わないといけない。


でもこれ、私は応援ポジションだよなあ。

正直、他人の色恋沙汰とかちょっとめんどくさい。普通の女子なら、わめいて喜ぶのかもしれないけど私は違った。


そもそも女があまり好きじゃないので、その延長となる恋なんて興味すらない。まあ、モリカナはあんまり女子ぽくないから、そこまでイヤでもないんだけど。口が裂けても色気が足んないなんて本人には言えない。


「ま、他の教師よりは断然信頼してるよね。優しいし」

「好き? 笹岡先生のこと」


「んー、好きっちゃあ好きだけどね」

「ライバル?」


「いーや、それはないよ。年の差もあるし」

もっともらしい言い訳だが、私にとって年の差は恋愛対象から外れる条件ではなかった。


「そっか。よかった」

「そだね」

「ライバルだったら」

「ん?」


「殺してたかも」


下校中の生徒のざわめき。自動車のエンジン音。鳥のさえずり。それらの音が私の耳に届かなくなった。代わりに脳内で反芻しているのはモリカナのセリフ。


「日村さん?」

数歩先から彼女の声が聞こえた。こちらを振り返っている。「どうしたの?」という表情。私の足はいつの間にか止まっていたようだ。


ていうか、その表情、おかしいでしょ。冗談にしては堂に入っていたし。

「モリカナ、怖すぎだよー」

明るく返してみる。


「でも、ライバルならそれぐらい許せなかったかも」

おーっと、メンヘラ妄想少女全開ですか。


言葉の弾みってわけでもなかったらしい。ちょっとでも、この子と自分を重ねてしまったことを後悔した。


「まあ、でも……ササっち、バツイチだよ?」

「好きになるのに、それって関係ある?」


そうだね。私も強くそう思うよ。なんでこんなこと言ったんだろ。その場しのぎとはいえ、「自意識過剰女子軍団」が言いそうなセリフを口にしてしまった。


「まあ、教師と生徒だからねえ。センセイの立場的にまずいんじゃない?」

「バレなければ大丈夫」


えらい強気だなあ。ちょっと前まで自分から話もできなかったクセに。

「なんか作戦でもあるの?」


モリカナがすこしだけ笑みを浮かべてこっちを見る。

ハッキリ言ってちょっと怖い。


「アヤちゃんって知ってる?」

「ん、まあ、うん。センセイの娘さんだよね」

この子、どうするつもりだろう。


「そう。彼女さえ手懐けちゃえば、こっちのものじゃない?」

そんな犬猫みたいに。


「どうせまだ子供だし、チョロイと思う」

その言葉にカチンときた。


なんだろう。たぶん、どっかで自分の娘のように思っていたところもあるようで。アヤちゃんを見下したような態度が許せなかった。


「悪いけど、私、それは賛成できないわ。子供をどうこうって、センセイもそんな人好きにならないよ、きっと」

モリカナは驚いたようで、目を丸くしている。


「ごめん、今日寄るところあるから、またね」

その場から逃げるように彼女と別れた。

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