9-3
そこにあると知らなければ、誰も気づかずに通り過ぎるだろう。わずかに盛り上がった土の上に短い木切れを立てただけの、ささやかな墓だった。墓標には名すらなく、ただ冥福を祈る
かつてこの丘の上で図らずも故人の最期を看取ることになったアモイが、有り合わせのもので作ったという墓。その中に横たわっているはずの小さな老人の身体を、ユウは想像してみる。
実際に顔を合わせたのは、マツバ姫と出かけた
「どうした、ユウ」
マツバ姫の問いかけで我に返り、慌てて手に持った野花の束を墓に供えた。それから主人に倣い、両手を合わせてまぶたを閉じる。身寄りのない少女にとって、誰かの墓に詣でるのはこれが初めての体験だった。
「ルウランのお祖父さん、だったんですよね」
黙祷が終わったところで、姫に尋ねてみた。
「レースイ、という名だったそうな。しかしルウランどのも、詳しくは聞かされておらぬようだった」
墓前にひざまずいていた姫が、答えながら立ち上がった。頭にかぶった笠を傾げて、重たげな雲に覆われた空を見る。今朝方から降り始めた雨は、しばらく止みそうにない。
天気さえよければ、この小高い丘の上からは
「そろそろ行くか。時が経てば、ますます道が悪くなる」
マツバ姫は、
「はい、でも、どこへ……」
「都に決まっているではないか」
城には寄らないのだな、とユウは少し落胆した。テシカガの家を訪ねた後、すぐに城下を離れてしまったので、何となくそんな気はしていた。今のマツバ姫にとって、帰るべき家はやはり王宮、アモイのいるところだということか。考えてみれば、当然かもしれない。
しかしユウが南の島で帰りたいと泣いたとき、思い出していたのは西の城での日々だった。その後、三年間を奥御殿で特に不自由もなく暮らしたものの、愛着という点ではとても及ばない。
マツバ姫が城主で、その傍らに親衛隊長のアモイがいて、テシカガもいて。何も知らない童女の自分が、生意気な口を利いて。そんな時間は、もう戻ってこないのだとしても……。
次第に雨足が強まる中、二人は山毛欅の丘を越え、
それにしてもマツバ姫は本当に、領内の地理をよく把握している。まるで生ける地図と歩いているかのようだ。先の見えている旅というのは、こんなにも楽なものかと、後ろに付き従いながらユウは思う。
ただし距離と時間が、あまりにも長い。舟旅は何日も続いたし、上陸してから盆地の内側へ至るまでにも、一月以上を歩き続ける羽目になった。
昨年、ヒダカと共に美浜へ渡ったときは、険峻な崖やら底なしの谷やらが続く命懸けの旅路だったが、日数は意外にかからなかった。一方、貝殻屋の案内する道筋はより平坦で安全で、ひたすら遠回りだった。おかげで旅立ちはまだ暑い盛りだったのに、いつの間にか肌寒さを覚える時節になってしまっている。
──そうさねえ、あっしの場合、一年のうちのほとんどは、歩いてるか舟の上にいるかですねえ。
と笑っていた貝殻屋ですら、この経路で
国土の西側にも国外と通じる道──人里離れた山奥の獣道だが──があることまではさすがのマツバ姫も知らなかったものの、ひとたび盆地の内側に入ってしまえば、もう案内は必要ない。そこからは、貝殻屋とは別行動になった。
──街へ行く前に、ちっと品物を仕入れておかないといけませんでね。
舟の中で姫に全商品を売り払ってしまった貝殻屋の引き出しは、どれも空っぽだった。
──掛け売りの代金は、次に
そう約束して、彼は谷川へ下りる細道へ分け入っていった。きっとまた
「今日も渡し舟、出ませんでしたね」
宿屋の窓から夕空を見上げて、少女は溜め息をつく。姫は部屋の真ん中で腕組みをして、うむ、と生返事をした。
二人は桑郷で、すでに三日も足止めを喰っている。降り続いた雨は朝方にようやく上がったのだが、行く手の川の水位はまだ高く、渡し守が渋っているのだ。
「あたし、ちょっと行って、明日の朝は出せそうかって訊いてきます」
「訊くまでもあるまい。出ることになれば、宿に知らせが来る」
「でも……」
「とは言え、こうしてただ座っているのも気詰まりであろうな。行くなら行ってもよいが、足元が明るいうちに戻れ。ゆめゆめ川には近づくでないぞ」
「わかりました、気をつけます。あと、貝殻も、もし売れそうな相手がいたら売ってきます」
姫が舟の中で買い占めた貝殻の束を懐に入れて、ユウは部屋を出た。
美浜国や
もっとも今日はもう陽も傾き、往来の人もまばらで、行商には不向きな案配だった。道沿いの家々から糸紡ぎや機織りの音が響いてくる中を、少女は特に急ぎもせずに歩く。
歩きながら、この旅ももうすぐ終わるのだな、と、独り思った。そして、終わった先に何があるのだろう、とも考えた。
帰国してからここに至るまで、城下町でも他の町村でも、出会う人々は誰もが同じ噂で盛り上がっていた。
──男だろうかね、それとも女かねえ。
──そりゃあ、男に決まってるさ。この国を背負って立つ、器量のある若君に違いない。
──いやいや、きっと強く賢く美しい姫君だろうよ。
──どっちにしても、めでたいこったねえ。
しかしその子を産む奥方というのは、皆が思っている人ではない。本物のウリュウ・マツバはこの小さな町の粗末な宿屋にいて、王宮の奥御殿にいるのは別人だ。そしてその別人が、姫の名を背負ったまま、もうすぐアモイの子の母親になろうとしている。
そうなったら、本物の奥方とは、どちらのことを指すのだろう。
往来の真ん中で、少女は足を止めた。考えごとを妨げるような大きな音が、向かう先から聞こえてきたのだ。
悲鳴と、怒号が。
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