9-2

「どうかなさいましたの」

 アモイの顔を見るなり、イセホが尋ねてきた。横たわっていると苦しいのか、寝台の上に大きな枕を重ねて上半身を預けている。

「その髪……まだ見慣れないな」

 答えでもなく、嘘でもない言葉でごまかした。臨月を迎えた彼女の黒髪は、肩口で切りそろえられている。

「もしかして、マツバさまの消息について、何か手がかりでも?」

 さすがにイセホの直感は鋭い。いや、自分の隠しごとが下手なだけなのか。実際、西陵せいりょうからその情報を受け取ったときの昂揚は、まだ完全に冷めきっていない。

 テシカガの家に、形見の鞘が戻ってきた──。遺族から城へ上がってきた知らせを、ムカワ・フモンは事細かに書き送ってくれた。

 思いがけない来客があったのは、数日前の午後のこと。春に生まれたばかりの赤子が昼寝から目を覚まし、盛大に泣き声をあげている最中で、テシカガの妻は手が放せなかった。玄関へ出て客の対応をしたのは、九つと七つになる娘たちだ。

 客は二人連れで、一人は行商人ふうの身なりをした若者。もう一人は背が低く、自分たちよりはいくつか年上の少女と見えた。

 どちらさまですか、と上の娘は尋ねた。見慣れない人が訪ねてきたらそう訊くようにと、日ごろから教えられている。以前に父上から命を救われた者だと、若者は答えた。

──この鞘を、お返しに参った。お父上の霊前にお供えくだされたい。

 そう言って、手入れの行き届いた鉄納戸色の鞘を差し出したのだった。

 幼い姉妹はびっくりして、事情を問うどころではない。妹のほうは、その鞘に施された細工を見た途端に父の記憶がよみがえり、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。鞘を受け取った姉も、しばらくは茫然として言葉が出なかった。ようやくにして、母さまを呼んできます、と言ったが、若者は首を横に振った。

 どうやら彼は、家の中から聞こえてくる赤子の声を気にかけているようだった。母上はお忙しかろう、煩わすに及ばぬ、と言う。それからまた、あの泣き声は弟か妹かと尋ねてきた。弟だと答えると、

──そうか。男子おのこであったか。

 感慨深げにつぶやいた。そして娘たちに一つずつ美しい貝殻を渡すと、折り目正しく礼をして、連れの少女と共に去っていってしまった。

 娘たちの話を聞いた母親は、急いで外へ出て後を追ってみたが、すでに客人の姿はどこにも見当たらなかったという。

 テシカガの妻は夫の実家にも相談し、この出来事を城へ知らせることにした。できることなら客人と直に会って、形見を届けてくれた礼を伝えたい。夫とどういう関係だったのか、どういう経緯で鞘を預かったのか、生前の夫について知っていることは何でも聞いてみたい。そのためにも、お上の力で行方を探してもらえないかと考えたのだ。

 やがて報告を受けた城代のムカワ・フモンから、詳しく話を聴きたいと召し出しがあった。テシカガの妻は、赤子を義母に預けて娘二人と共に登城した。

──この色味も細工も、夫に喜んでもらうために、わたくしのなじみの職人に頼んで特別にあつらえたものです。見間違えようがございません。

 証拠の剣を差し出して、彼女はそう訴えた。

──刀身がぴたりと鞘に納まったときは、まるで夫の魂が帰ってきたかのようで……。

 涙ながらに語る言葉の一字一句を、ムカワは几帳面に写し取り、アモイへの報告書に転記した。それから、すぐに城下をくまなく探索するよう指示を出したことを末尾に書き添え、使者に持たせて寄越したのだった。

 文面はあくまで起こった出来事を時系列に沿って羅列しただけで、それに対する意見も解釈も書かれてはいない。だがアモイは、ムカワが自分と同じ希望的観測を抱いているのを確信した。

 鞘を届けた若者というのは、男装したマツバ姫ではないか。その隣にいた少女というのは、西陵城から知らぬ間に姿を消した、ユウではないのか。二人は無事にどこかで落ち合い、すでに帰国を果たしているのではないか──。

 しかし、もしも姫が西府さいふにいるなら、なぜ真っ先に城へ出向かないのか。そもそも美浜みはまから帰ってきたなら、東南の四関しのせき付近を通るはず。北湖きたうみを経由してくるとしても、北東の山越えをしなければならない。タカスやバンケイが頻繁に見廻りをしている東方をやり過ごし、都も通り過ぎ、いきなり西側に姿を現すというのも奇妙な話だった。

 だからまだ、イセホには話してやれない。何しろこの一年、アモイは何度も誤報に踊らされてきたのだ。常の身ならともかく、初産を間近に控えた妻をぬか喜びさせるのは忍びなかった。

襲堰かさねぜきからタカスさまがいらしていると、女官たちが噂をしておりましたけれど」

 黙りこんでしまった夫に気を遣ってか、イセホは自分から話題を変えた。アモイは心中で密かにほっとしながら、

「ああ。さっきまでいたのだが、急用ができたもので、もう帰ってしまった」

「例のお話は、できたのですか」

「いや、話すつもりだったが、機を逸してしまった。近いうちに、また機会を作ろうと思う」

 タカスを呼び出した本来の目的とは、ほかでもないキサラの件だった。北部の町に幽閉されたままの一の若君・シュトクの妃で、今は都の実家に戻っている、声を失った哀れな娘。その身辺に、ある動きがあったのだ。

 発端は、二月ほど前のことだ。珍しくもテイネの御方おんかたから、アモイへ便りが届いた。シュトクが病に倒れ、余命幾ばくもないと聞いている。せめて最期ぐらいは、母として看取ってやりたいとの願い出だった。

 義弟の発病については報告を受けていた。もともと丈夫な体ではなかったようだが、四関で暮らしている間の不摂生、失脚後の鬱々とした幽閉生活もたたったのだろう。病状は亡父に似て、床に伏したまま痩せ細り、最近では食事もろくに取っていないという。

 そんな息子を今さら焚きつけるつもりもあるまいと、アモイは義母の願いを聞き入れることにした。御方はわずかな供を連れて東原とうげんの城を出、シュトクの看病に向かった。

 しばらくして、また手紙が来た。内容は息子の病状の報告──冬まで長らえるのは難しかろうという──と、さらに一枚の別紙が添えられていた。それはシュトク自身の署名が記された、キサラへの離縁状だった。

──あの娘はまだ若く、寡婦やもめとするには忍びぬ。よしなに取り計ろうてたもれ。

 離縁はあくまで息子の意思とのことだったが、そもそも彼女を嫁に選んだのはテイネの御方だ。緘黙に至った経緯にも、深く関与していると見られている。だとすればこれは、御方なりの罪滅ぼしのつもりなのかもしれないとアモイは思った。

 いずれにせよ、四年前から都の実家に戻っているキサラは、これで正式に悪縁から解放される。問題はその後だ。流産を経験し、口を利けなくなって出戻った箱入り娘に、当然ながら両親は今度こそ良縁を切に願う。

 そこでタカスの出番というわけだ。

「男女の仲立ちなど、私に向いているとはとても思えないがな」

 アモイは自嘲気味に笑った。

「しかも男のほうが、よりにもよってあのタカスときては」

「でも、キサラさまのお身内から、是非にとお願いされたのでしょう」

「そこが不思議なのだ。あの男の数々の浮き名を知っていて、それでも嫁がせたいというのは、どういう親心なのだろう。やはり、四関から救い出してくれた恩義があるからなのか」

 その後もタカスは折に触れ、見舞いの品物をキサラに贈り続けている。戦の間はしばらく途絶えたが、今はまた襲堰から月ごとに便りを出しているらしい。あるいはそれが、誠意として認められたのだろうか。

 もっとも、将来有望な若者であることは先の戦でも証明されているし、妾腹とは言え高官の家の出だ。娘の行く末を案じる親からすれば、浮気の心配など大きな問題ではないのかもしれない。

「しかし、本人の気持ちはどうなのだろうな」

「本人?」

「肝心のキサラどのは、果たしてこの縁談を望んでいるのだろうか」

「決まっているではありませんか。キサラさまご自身がお望みでないのに、御嶺ごりょうさまのお手を煩わせてまで、親御さまが話を進めようとなさるはずがありませんわ」

「贈り物にも便りにも、キサラどのからは何の返事もないと聞いているが……」

 疑問を呈すると、イセホはゆっくりと目を瞬かせて夫を見上げる。それから少し微笑んで、諭すような口ぶりで言った。

「アモイさま。自らの望みを言葉にして伝えるだなんて、常の女子おなごには思いもよらないものですわ。殊にキサラさまのように、高貴なお生まれのかたには」

「そういうものかな」

「もちろん、マツバさまは特別ですけれど」

 アモイは曖昧に頷いて、小さく咳払いをした。

 二人で話していると、どうしてもその名前が出てくるのを避けられない。というよりもむしろ、イセホにはどんな話題でもすぐに従妹のことに結びつけてしまう癖がついているらしい。まるで彼女の話をすることで、その不在を埋め合わせようとでもしているかのようだ。

 雲行きが怪しくなってきたところで、見舞いを切り上げて政務へ戻ることにした。イセホはほんの一瞬、心細そうな顔を見せたが、気丈に笑って床から見送った。

 奥御殿を出て廊下を歩いていると、後ろから御殿医が追いすがってきた。長らく王家に仕え、かつてはマツバ姫の亡母・ユリを看取ったという老人は、姫とイセホが入れ替わっていることを知る数少ない人員の一人だ。

「また少し、痩せたように見えたが」

 アモイは立ち止まり、小声で医者に問う。

「もともと頑健なかたではおられませぬ。御子に栄養を取られる分、やはりお体に無理がかかる」

「大丈夫なのか」

「元気な御子を産むためにと、食欲がなくても健気に口へお運びになっておられる。御子の育ちのほうは、心配は要りますまい。ただ……」

「ただ?」

「初産なれば、事によると産み落とすのに時間がかかるやもしれず。果たしてお体がもつか否か、油断はなりませぬ」

「そうか……。また折を見て顔を見せる。その間、妻をよろしく頼むぞ」

「御意」

 医者を残して再び歩きだしたアモイの脳裏に、ふとある光景が思い浮かんだ。あれは確か、春も終わりにさしかかったころだ。イセホが独りで縁側に座り、膨らみの目立ち始めた腹をなでながら、胎児に話しかけているのを見かけたことがあった。

──あなたは、アモイさまとマツバさまの和子なのですよ。お二方の名に恥じない、強い御子になるのですよ。

 何を思ってそんなことを我が子に言い聞かせていたのか、アモイにはわからない。

 わかっているのは、自分にとってイセホはもはやマツバ姫の代役などではなく、ただ一人の愛する妻なのだということだ。姫がかけがえのない特別な存在であるのと同じく、彼女と生まれくる子どももまた、命に代えても守り抜かねばならない大切な宝だった。

 姫さえ無事に帰ったら、イセホも彼女自身の暮らしを取り戻せる。もちろんそのときには、新たに考えねばならない事案も出てくるだろう。しかし、そんなことは大した問題ではない。後からいくらでも時間をかけて話し合えばよいのだ。

 そう、生きて会うことさえできれば……すべての鍵は、今もマツバ姫が握っている。

 渡り廊下の床板を踏みしめて、アモイは進む。いつしか外は秋雨が降り始め、軒先の落ち葉を音もなく濡らしていた。

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