第9章 帰らぬもの
9-1
マツバ姫が行方をくらましている間に、盆地を取り巻く情勢は刻々と移り変わる。
たとえば、
もっとも、以前からすでに萌芽は始まっていた。
そもそも北湖の人々は、力尽きるまで戦って敗れたわけではない。美浜軍は美しき鏡の都を徹底的に破壊したが、そのほかの町や村には見向きもしなかった。王家一党は捕らえられたが、降伏した将兵や役人の大半は属領を統治するための人員として再利用された。ムカワ・フモンが効率的と評した公子クドオの戦略のおかげで、彼らは戦意こそ奪われたものの、戦力は温存していたわけだ。
新たな上役として本国から派遣されてきた領事の命令に、北湖の将兵は従うことをやめる。領事は彼らを罰しようとし、それが蜂起の契機となる。
公子クドオは、征討軍を送らない。属領を放棄するなどと明言はしないが、実質的に擾乱を捨て置いた。何しろ大軍をもって攻め上るには、まず山崩れや地割れなどで荒れた道を整備する必要があるし、何より今はまだ、地震によって物心ともに揺らいだ国内を立て直すほうを優先すべきだ。それが暗黙のうちに示された答えだった。
要するに彼にとっては、その程度の問題なのだ。天災のもたらした悲劇に立ち向かうという目標が臣民の間に共有されているうちは、外敵との戦は必要ない。やがてまた国外に目を向けさせるべき日がやってきたら、今日の非を問えばよい──したたかな男の算段を、アモイも多少は見抜けるようになってきた。
「しかし公子には……」
床の上に広げた地図を見下ろしながら、アモイは眉根を寄せる。
「どうも、始めから見誤りがあったような気がする」
「見誤り?」
顔を上げて訊き返したのはタカスだ。
「北湖の民が最初に蜂起したのは、このあたりだと聞く」
アモイは地図の一角を指さした。湖からはやや離れた、山峡との国境にそびえる山々の麓だった。
「その後の乱の広まりかたを見ても、都から遠く離れた田舎町ほど勢いがある。このような辺境に住む者たちのほとんどは、
「そうだな。噂に聞いて、想像を膨らませるばかりだったろう」
「現実の都に暮らし、その都の焼け落ちるさまを直に見せつけられた者たちは、確かに拠りどころを失ったかもしれない。王族や貴族や、その下に付き従う将兵たちはな。しかし片田舎に住む民衆にとって鏡の都は、各々の心の中に描かれた虚像、美しい幻だ。幻を打ち砕くのは、そう簡単なことではない。だからこそ、端から屈服などしていなかった」
「なるほど……。皮肉なものだな。虚実に長けた公子が、虚像の根強さを甘く見て、しっぺ返しを喰らったというわけか」
心ならずも美浜軍に連行されてきた──近いうちに帰郷の手筈を整えるつもりだが──北湖の職人たちとも面識のあるタカスには、アモイの指摘が思い当たるようだ。腕組みをして軽く唸ると、虚像、ともう一度つぶやいた。「我が国も、似たようなものかもしれんな」
タカスの言わんとする意味を、アモイも即座に理解する。しかし応答はせず、小さく頷くだけにとどめた。
マツバ姫の実体は、ここにはない。しかし彼女の虚像はイセホという
もちろん真相を知っている者は、とても安んじてなどいられない。姫が消息を絶ってからまもなく一年になろうとしているのに、相変わらず有力な情報はつかめていなかった。ただ一つ救いと言えば、彼女が落命したという確かな証左も出てきていないということだ。
あの男がいればな、と時々アモイは思う。マツバ姫が人目を忍んで市へ繰り出しては訪ねていた情報屋、もとい貝殻屋。あの耳聡い行商人ならば、何かしらの手がかりを持っているのではないか。しかし名も知らない、顔立ちもおぼろげな男の所在を調べようとすれば、それもまた容易ではなさそうだった。
「東方の様子はどうだ。何か変わったことは?」
地図に落とした視線の先を盆地の内側へ移して、アモイは話を変えた。
タカスの騎馬隊は戦の後も
父の墓を守りながら暮らす老母も、同居する妹夫婦も──妹はいつかの宣言どおり、二年ほど前に地元の若者を婿に取った──町が住みやすくなったと喜んでいる。医者の多い都に家を建てて母を呼び寄せようという長男の目論見は、もはや果たされる見込みがなさそうだった。
「取り立てて変わりはないな。強いて言うならば、ムカワ将軍が元気を持て余して、厳しい調練に音を上げる者が出てきている」
「あの大怪我から回復したと思ったら、もうそんな調子か。将軍もいい歳だというのに、尋常の生命力ではないな」
「まったくだ。最近では、敵軍が置いていった砲台を使いこなしたいなどと言って、城外に持ち出しては試し撃ちをされているとも聞く。うっかり巻きこまれてはかなわんから、用のないときは四関には寄りつかないことにした」
「賢明だな」
「近ごろは専ら、バンケイと交代で北東の山際一帯を見廻っている」
「山際を?」
思わず過敏に反応してしまうのは、マツバ姫の足取りと関わる動きなのではないかという期待からだ。一年前、奇襲隊は北東と南東の山越えをして
もっとも、何かしら手がかりでも見つかったならば、タカスがここまで黙っているはずもない。案の定、朋友は日焼けした顔を申し訳なさそうに歪めて補足した。
「ただの山賊の取り締まりだ」
「ああ、山賊か」
アモイは苦笑で落胆をごまかす。
「しかし、今どき珍しいな」
「都や
「報告が来ていないな……」
「城主に話が上がる前に、役人どもが握りつぶしているのだろうよ。まあ、そこの対策は追い追い
「それで、賊は捕らえたのか」
「捕らえたと言うべきか……。バンケイが任せろと言うので、人を付けて送り出してやったら、倍の人数になって帰ってきた」
「どういうことだ?」
「あの男、山賊を一人残らず手下に引き入れてきたのだ」
ははあ、とアモイは視線を宙に投げ、バンケイのむさ苦しい髭面を思い起こす。もっとも最後に会ったのは一年近く前、戦功者の表彰式典を行った際で、そのときには髭をすっきりと剃り落としていたはずだ。が、浮かんでくる人を喰ったような表情は、やはりバンと名乗っていた無頼漢そのままの顔なのだった。
一方で、彼に対する世間の評価は、昔とはまるで異なっている。美浜との大戦で無謀とも思える奇襲を成功させ、敵の本隊を退却に追いこんで、見事に生還を果たした剛の者。その武名は、子どもにも知れわたっている。山賊たちが震え上がって、あっさりと降参したしても不思議はない。
「しかし手下と言っても、奴が自分で養うわけじゃない。襲堰の砦で雇わせようという腹なのだからな。せめて一言ぐらい相談しろと言うと、『人捜しをするなら人手は多いほうがいいだろ』と悪びれもしない。そんなことが二、三回あった」
「目に浮かぶようだな。ああ、そうか。それで先日、砦の予算を増やしてほしいと願い出をしてきたのか」
「すまんな。公の書面には新兵を登用した為と書いておいたが、実はそういう事情だ」
「かまうまい。賊が減って味方が増えるなら、歓迎するべきだろう。しかし、その新兵たち、大丈夫なのか。襲堰で、おまえの騎馬隊とうまくやっていけそうか」
「さて、そこが問題だ。今のところは私もバンケイも目を光らせているし、特に不穏な気配もないようだが。何しろこちらの隊は、育ちのいい者が多いのでな。賊上がりの連中と長く一つ所にいれば、そのうち揉めごとも出てくるかもしれん」
「それについては、考えていることがある」
まだ広げたままの地図の上に、アモイは指先を滑らせる。まずは、四関から東原を横切って、都へ。
「そろそろ、ムカワ将軍には都にお戻りいただこうと思うのだ。実力からしても功績からしても、いつまでも前線に立たせておいてよいお人ではない。国境が落ち着いた今、いよいよ宮軍総督の座にお迎えし、中央から国全体に睨みを利かせていただく。そうすれば役人どもの気の緩みも、自ずと引きしめられるだろう」
「うむ、誰からも異論はあるまい」
「となると、空いた四関に、代わりに誰を入れるか」
指先を襲堰から、再び四関へと戻す。
「その手下たちともども、バンケイを襲堰から移してやるというのはどうだろうか」
「バンケイを?」
「何か問題が?」
「問題があるとは言わないが……」
「なぜ自分じゃないのか、納得がいかないという顔だな」
「四関には思い入れがあるものでな。私が四関へ行って、バンケイを襲堰に残すのではまずいのか? そのほうが、奴の郷里の
「それも考えなかったわけではない。しかし、実は少し込み入った事情があってな」
「事情?」
「バンケイではなく、タカス、おまえのほうに。厳密に言うと、おまえの今後に関わる事情だ」
ようやく、本題に入る糸口をつかめた。タカスをわざわざ都まで呼び出したのは、この話をするためだったのだ。
整った眉を訝しげにひそめる朋友のほうへ身を乗り出して、アモイが口を開いたそのとき、廊下に人の近づく気配がした。
「申し上げます。西陵城代のムカワ・フモンさまより文が届きましてございます」
「ああ、いつもの報告書だな」
話が済むまで後回しにしようかとも考えたが、思い直して戸口を開き、書状を受け取る。タカスも西の城を離れて久しい。さわりだけでも、古巣の近況を聞かせてやりたい気がした。肝心の用件は、その後でも遅くない。
「まだ続いていたのか。甥御どのとの文通は」
「おかしな言いかたをするなよ」
笑いながら封を切り、整然と等間隔に並んだ文字にざっと目を通す。
しかし読み始めてまもなく、アモイの目はある一箇所に釘づけになった。おそらく顔色が変わったのだろう、タカスが異変を感じ取った様子で、
「どうした、アモイ。西府で何かあったのか」
「鞘が……」
アモイはほとんどうわ言のようにつぶやく。
「鞘? 鞘と言ったか」
「タカス……。テシカガの形見の剣を覚えているか」
「忘れるはずがないだろう」
「抜き身だけ、バンケイが戦場から拾ってきて、それは今、家族のもとにある。だが鞘は、いくら戦場を探しても見つからなかった。そうだな?」
「そうだ。それがどうしたというのだ」
アモイは頭を振った。ムカワの知らせてきた出来事が何を意味するのか、はっきりとはわからない。しかし、ただ事ではないという予感が身体の奥からせり上がってきて、書状を持つ手に震えが走った。
「その失われた鞘が、戻ってきたそうだ」
精いっぱいの抑えた声でそう伝え、タカスの顔を見る。彼もまた雷にでも打たれたような面持ちで、しばらく言葉を失った。
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