8-6

「本当に、申し訳ない」

 リシリが深々と頭を下げる。その両手に捧げ持ったものを見て、ユウは唖然とした。鮮やかだった紅の色は褪せているが、間違いない。柄も鍔も鞘のこしらえも、記憶にあるマツバ姫の愛剣そのままだった。

「サンルのやつが隠し持っていました。問いただしたら、あの黒い鞘が見つかったの同じ岩浜で拾ったと……。どうも、これを渡したら貴女たちが山峡くにへ帰ってしまうと思って、黙っていたらしいんです」

 当の本人の姿は、どこにも見当たらなかった。砂浜を見渡せば、共に武術の稽古をした子どもたちも、診療所で顔見知りになった大人たちも、島長しまおさ夫婦までが出向いている。しかしあの少年だけは、見送りに来るのを頑なに拒否したという。

「一晩かけて、できるかぎり磨いてみたんだけれど……。こういうのは弟のほうが得意なので、仕上げはあいつに任せます」

 砂はきれいに除かれているものの、まだ錆が多分に残ったその剣を、リシリはいかにも慣れない手つきで差し出す。

 マツバ姫は右手を伸ばし、鞘の中央をつかんで受け取る。それを手慣れた様子で腰に差すと、柄を右手で握り、ゆっくりと抜いた。

 白刃が朝日にきらめき、姫は眩しそうに目を細める。そして次の瞬間、素早く刀身を背中に回し、自らのうなじにあてがった。

 あっ、と人々が驚く間に、彼女は束ねられた後ろ髪を一息に切り落としていた。

「世話になった礼になるようなものを、今のわたしは持ち合わせておらぬ。せめて感謝のしるしに、これを」

 黒髪の束をリシリに手渡して、姫は言った。

「ご恩は忘れぬ」

 リシリは言葉もなく、それを受け取る。ユウよりも短い髪になったマツバ姫は、彼と彼の後ろにいる見送りの一同へ向かって、静かに頭を垂れた。

「さぁて、そろそろ行きやすかぁ」

 舟に荷物を積み終えた貝殻屋が歩み寄ってきた。旅立つ三人はいずれも、似たような行商人ふうの姿に身をやつしている。

「オクシリ。その前に、海神アンジンに捧げ物を忘れてはいかんぞ」

 たしなめたのは島長だ。見覚えのある顔だと思ったら、診療所の待合室でたびたび夏蜜柑をくれた老人ではないか。今日ばかりは派手な刺繍の入った儀礼用の羽織を身につけているが、普段は他の島民と同じような簡素な身なりだったので、まったく気づかなかった。

「わかってるさ、毎度のことだから。リシリ、頼む」

「ああ、いいとも」

 リシリはマツバ姫の髪束を手ぬぐいに包み、大事そうに懐へしまうと、弟と共に酒を海に注いで祝詞らしきものを唱えた。こうして舟出する者と見送る者が一緒に海神を祭るのが、この島の習わしなのだそうだ。

 父親は満足そうに兄弟の儀式を見届けると、島長らしい威厳をもってマツバ姫とユウの航海の無事を祈ってくれた。他の島民たちも口々にはなむけの言葉をかけ、別れを惜しんでくれた。たまさかに漂着したこの島に愛着などなかったはずなのに、少女の目にはどんどん涙があふれてきて、「ありがとう」と答えるのが精いっぱいだった。

 サンルが来ていなくてよかった、とユウは心の中で思った。泣き顔を見られたら、また大げさに騒ぎたてるに違いないから。

 舟は三人の乗員と貝殻屋の商売道具、島民が持たせてくれた食糧、それに箱いっぱいの夏蜜柑を載せて出航した。貝殻屋が棹を持って舳先へさきに立ち、皆のいる砂浜に向かって大きく手を振る。ユウはマツバ姫と一緒に舟の中ほどに座っていたが、また転覆したらと思うと恐ろしく、後ろを振り返ることができなかった。

「あんたも、ああいう儀式みたいなの、やるんだね」

 ようやく涙も引いてきたところで、貝殻屋に声をかけてみる。

「迷信だって、言ってたのに」

「年寄りを安心させるためでさ。酒瓶一つで気休めになるんなら、お安いもんでございやしょ」

 島にいるときとは違って、すっかり行商人の顔だ。帽子を目深にかぶると、若いのか年寄りなのか、美形なのか不器量なのか、不思議と印象がぼやけてしまう。

 舟を操る手つきは、さすがのものだ。砂浜を離れるとすぐに海底は岩礁に変わり、海面のところどころに岩肌が顔を出して今にも衝突しそうに思えたが、器用に棹を突いて波間を縫っていく。

 天候や積み荷の重さも違うのだろうが、美浜みはまから逃れてきたときのようなひどい揺れはなく、今のところは舟酔いの不安も感じない。胸を撫で下ろしていると、貝殻屋がふと顔を上げて、「おや」と頓狂な声を出す。

「やれやれ、おいでなすった。嬢、ちょいと右のほう、振り向いてみてくんなせえ」

「え?」

「大丈夫、傾きゃしやせんから」

 そう言われて、恐る恐る顔を、次いで上半身を右にひねってみる。

 平らな海面の向こうに、島から大きく張り出した岩場が見えた。テシカガの鞘が見つかった、そしていつかユウが雨の中で帰りたいと泣き崩れた、あの岩浜だ。広い場所だと思っていたが、海から見ると意外に細長い。

 その突端に、小さな人影がぽつんと立っている。

「サンル……」

 少年は両腕を大きく振りながら、何か叫んでいる。波の音にかき消されそうなその声に、ユウは耳を澄ませた。

「ユーウ! ねえちゃーん! 待ってろよーぅ」

 待ってろ、と確かに聞こえた。

「いつか、おいらも、貝殻屋に、なるからなぁ! 自分の力で、島を出て、そんで、きっと、会いに行くからなぁー!」

 見えない手に心臓をつかまれたような感覚がして、ユウは何と返事をしてよいのかわからない。とにかく、力いっぱい手を振った。相手からも見えたのだろう、小刻みに飛び跳ねながらまだ何か言っていたが、もうその先は聞こえなかった。

「あいつにまで行商を始められたら、かなわないなあ。あっしがそそのかしたんだって、島で袋だたきにされちまいやすよ」

 貝殻屋はにやにや笑いつつ、しばらく止めていた棹を動かして、舟を再び流れに載せた。

「そなたが島を出るために舟を作り始めたのは、かれと同じぐらいの年頃であったそうだな」

 舟出からずっと黙っていたマツバ姫が、久しぶりに口を開いた。

「誰から聞いたんです、そんな古い話」

「いくつもの失敗作を経て、ようやく海を航るに足る舟が仕上がったのは十七の春。身内にも誰にも告げずに島を出ようとした朝、ただ一人、リシリだけが見送りに来たと」

「ああ、あのお医者がしゃべったんで……」

「そのときも、二人であの儀式を?」

「そう言われりゃあ、あんときが最初でしたねえ。あっしはやりたくないって言ったのに、向こうはやらなきゃ行かせないって頑張るんでさ。ああ見えて、なかなか面倒なところのある男でね」

「羨ましいものだ」

「羨ましいって?」

兄弟はらからというものは、生まれながらに相争う運命さだめにあるものとばかり思うていた。この世には、さように麗しき話もあるのだな」

 その言葉を聞いたユウの脳裏には、美浜で出会った双子のことが浮かんできた。あの後、ヒダカはどうなったのだろうか。兄と主君を裏切ったあの忍びが果たして無事でいるのかどうかと気にはなったが、今の少女には知る由もない。

 しかしマツバ姫が嘆息しながら思い出しているのは、別の兄弟の顔だろう。おそらくは遠い祖国にいる、腹違いの弟たちの。

「そんな美談でもありやせんよ。あっしらにゃ、奪い合うような富も位もないってだけの話でさ」

 貝殻屋は二人の物思いを知ってか知らずか、からからと笑いながら、水から棹を引き揚げた。それからボロ布を張った小さな帆柱を立てて、緩やかな追い風をはらませる。いつしか岩礁の多い海域を脱して、この先は潮の流れと風の力で進んでいく算段らしい。

 舟は大陸のある北へは向かっていない。陸地の影は右手に遠く霞み、舳先は西の方角を指している。手近で上陸できるようなところはすべて美浜の領内だから、当然と言えば当然かもしれない。

 しかし進行方向には、延々と青海原が広がっているばかりだ。一体、どうやって山峡へ帰り着けるものなのか、見当もつかなかった。

 案内人を信用していないわけではないものの、やや心細くなって、少女はついに真後ろを振り返ってみた。群島国むらしまのくには、早くも豆粒のように小さく遠ざかっている。周囲が単調な景色なので気づかなかったが、舟は想像以上の速さで進んでいるのだった。

「しばらくは、ずっとこんな調子でございやすよ。たまに鯨が潮を噴くぐらいしか、見るものもありやせん。何なら、お昼寝でもなすってたらいかがです」

「そなたが共にあって、退屈するということもあるまい」

 マツバ姫ははるか前方の水平線を見たままで言う。

「もっとも今のわたしには、貝殻を買う持ち合わせもないが。そなた、掛け売りは受けておらぬのか」

「掛け売りでございやすか。明日も知れぬ行商ですからねえ、普段はご遠慮いただいてやすが、旦那が相手じゃ断りにくいなあ」

「代金三割増しならばよいか」

「ははあ、やっぱり旦那は気前がいいねえ。いや、二割増しで手を打ちやしょう。その代わり、何か質をお預かりできやすかね」

「それならば、これを」

 と差し出したのは、つい先ほど、リシリの手から返されたばかりの彼女の愛剣だった。

 ユウは驚いて、姫の横顔を見上げる。短い髪がふわりと海風になびき、肌はよく日に焼けて、並びのよい歯の白さが目立った。

 彼女は笑っていた。あの皮肉めいた笑みではないが、頭上に広がる青空のように、迷いなく澄みきった顔だった。

「こりゃあ申し分のない逸品だ。しかし、本当によろしいんで?」

「実を言えば、持ち歩くにいささか難がある。我らは美浜の追っ手のみならず、山峡くにに帰り着いた後も、身分を知られるわけには参らぬのでな。しばらく預かってもらうほうが、都合がよいのだ」

「なるほど、確かに、そんなのを腰に差してりゃ目立ちやすねえ。そんじゃ、まあ、お代を頂くまでお預かりしやしょう。だけど、旦那。いくら島武術を身につけたからって、まるっきりの丸腰じゃあ、さすがに」

 貝殻屋はそう言うと、懐の中を探って何かを取り出した。

「こいつをお持ちなせえ。代わりにはならないにしても、何もないよりはましでしょう」

「えっ、それ、もしかして……」

 思わず声をあげて、ユウは身を乗り出した。

「その合口あいくち、どうしたの?」

「これですか? もらったんですよ、常連のお客さんに。どっかの道で拾ったって言ってやしたがね」

 それはユウが出陣前のマツバ姫から下賜され、ヒヤマと共に美浜へ潜入する間、ずっと身につけていたものだ。追っ手から逃げる途中のどこかで失くしてしまったのだが、まさか今、この海の上で再び見ることになるとは。

 海に落ちたものを島へ運ぶのが海流の仕業だとするなら、陸で落としたものがこうして戻ってきたのは、どういう巡り合わせなのだろう。

 姫は手渡された短剣を、しげしげと眺める。貝殻屋は貝殻屋で、預かった剣の鍔やこじりにこびりついた錆をあらためながら、「リシリのやつ、手ぬるいねえ。もうちっときれいにして返しゃいいのに」と舌打ちをした。

「さて、そんじゃ、商いといきやすか。何しろ時が余ってやすからね、いくらでも好きなだけお売りしやしょう。どんな貝殻をご所望で?」

 剣を包んで行李の中にしまい、代わりにいそいそと例の引き出し付きの木箱を出しながら、貝殻屋が尋ねる。姫もまた短剣を懐中へ入れて、

「すべてだ」

「へえ?」

「我が祖国のもの、美浜のもの、北湖きたうみのもの、群島のもの、そのいずれにも属さぬ土地のもの。そなたが今持っている貝殻を、すべてあがなおう」

 うーんと芝居がかった唸り声をあげた貝殻屋は、引き出しを開けるのをやめて、反対側に置かれた別の箱へ手を伸ばした。島長が持たせてくれた、夏蜜柑が山積みの箱へ。

「そりゃあ参ったなあ。おかに上がった後に、売るもんが無くなっちまいやすよ」

 笑いながら橙色の果実を一つ手に取ると、少女の手元へ軽やかに放って寄越した。

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