7-5
薄暗い板の間に、アモイは独り、目を閉じて正座している。
燭台の明かりは宵の口に尽きたが、そのまま深夜になり、明け方になっても、彼は石仏のように動かなかった。
もっともそれは外見だけの話で、内面はさながら嵐の渦中だった。考えようとすれば感情が沸騰し、心を鎮めようにも思考がまとまらない。出口のない迷路を闇雲に走り回っているかのように呼吸は乱れ、額に汗を浮かべながら、まんじりともせずに夜を明かした。
密偵からの知らせによれば、マツバ姫は
公子クドオは当初、その真偽を明らかにしなかった。ただ、彼女を招いて催すはずだった晩餐会や式典の類は震災を理由にすべて中止され、いよいよ噂は真実味を帯びていった。
人質ウリュウ・マツバは
地震から数日を経て、ついに公子は彼女の事故死を認めた。公衆の面前で深い哀悼を捧げ、冥福を祈ってみせたのだった。
一方で、避けようのない災害だったとして、ヒヤマ将軍を厳しく罰することはしなかったようだ。今は地震の被害から民衆を救うことに専念すべきだと、この件についての調査や責任の追及等々は一切、打ち切られることになった。
美浜の人々は、これであっさりと納得した。大きな災害に見舞われた直後で、よその国から連れてこられた捕虜などにかまっている場合ではないのだろう。
だが
──マツバさまが亡くなった。
爪が手のひらに喰いこみ、噛みしめた唇から血がにじんでも、痛みは感じない。脳も神経も麻痺してしまっているようだ。
心は千々に乱れても、アモイの採るべき道ははっきりしている。命を懸けて守ると決めた主君が落命したならば、潔くそれに殉ずるのみだ。今この場で、自らの喉笛を掻き切ることも厭いはしない。
ただその前に、やらなければならないことがある。弔い合戦だ。人質の身を案じる必要がなくなった以上、もはや気兼ねは要らない。たとえ刺し違えてでも、公子クドオを、姫の仇を討つ。
──誰が何を言おうと、知ったことか。
アモイはついに、薄闇の中で目を開いた。こわばった足をゆっくりと伸ばして立ち上がり、静かに戸口へ向かって歩きだす。
顔を洗って儀礼用の装束へ着替え、控えの間をのぞいてみると、すでにタカスが身なりを整えて待機していた。盛装してはいるが、やはり彼も充分には眠れなかったのだろう、せっかくの男ぶりが霞むようなひどい顔色だ。
「アモイ……」
「タカス。兵たちは集まっているか」
「ああ、もう整列の刻限は過ぎているからな」
窓の外を見ると、もう随分と日が高い。戦功者を称える式典のために召集された将兵は、閲兵場で待ちくたびれているだろう。
「そうか。では行こう」
アモイはすぐに部屋を出て、足早に歩を進める。半歩遅れて、タカスが後ろに付き従った。
「皆に話すのか」
「話すとも」
「どこまで話す」
「すべてをだ」
「それはあまりに、性急ではないか」
タカスが気遣わしげに声を潜める。
「黙っていても、じきに噂は広まる。そう言っていたのはおまえだろう」
「昨日とは状況が違う。美浜から正式に何か言ってくるまで待ってはどうだ」
「そんなもの、いつになるかわからん。待っていられるか」
「ならばせめて一晩でも、まともに寝てからにしろ。おまえは今、冷静な判断ができる状態じゃない」
「冷静な判断は、後の者に任せる」
「後の者?」
アモイは立ち止まり、朋友を振り返って正面から視線を交えた。
「今日の式典が、嶺としての最後の仕事だ」
「何……」
「そもそも私がこの肩書を背負ったのは、ひとえにマツバさまの御為。あのかたがお帰りにならないなら、続ける意味はない」
「おまえ」
長い付き合いだけに、皆まで語らずとも伝わったようだ。タカスは嘆息して天を仰ぐ。
「館さまの仇を討って、死ぬつもりだな」
「止めるか、タカス」
「止めても無駄だろう。ならば、私も運命を共にするまでだ」
「何を言う。おまえまでいなくなっては、私は誰に後を託せばよいのだ……と、言ったところで」
「……」
「無駄だろうな」
「そういうことだ」
二人は頷き合って、再び歩きだした。
ところが外へ出る前に、思いがけない場面に遭遇した。表玄関の手前に一組の男女が立って、何やら押し問答をしている。近づいてみると、城主のハルが妻のウララの手を取って、どこかへ引っ張っていこうとしているのだった。
「すごいんだよ。たくさん、たくさん、へいたいさんがいるんだよ。きれいにならんでて、かっこいいよ。いっしょにみようよ」
「殿、これから御嶺さまが、大事な式典を開くのですよ。お邪魔をしてはいけません」
「じゃまなんてしないよ、ただみるだけだよ」
「あっ、御嶺さま……」
ウララが二人に気づいて、気まずそうに会釈をする。身重だと聞いていたが、まだ体型にあまり変化はないようだ。しかし顔色が優れないところを見ると、
「殿、
「うん。にいさま、おはようございます」
「おはようございます、若君。どうかなさいましたか」
「これから、しきてんをやるのでしょう。わたしとウララも、みせてもらっていいですか」
来年には父親になるはずの十九歳の城主は、にこにこと無邪気に微笑む。口の周りにはうっすらと髭も生え、ますます恰幅のよい体格になっていたが、中身は相変わらず幼児のままだ。
「ご覧になっても、面白いものではありません。おやめになったほうがよろしいでしょう」
「えー、でも、きょうはあえるかもしれないし」
「会える? 誰に」
「ねえさまも、みにくるかもしれないでしょう」
アモイは虚を突かれて、答えに窮した。
「御嶺さまがお越しになると決まってから、ずっとこの調子で」
ウララがそっと耳打ちをする。どうやら義弟は、アモイと共にマツバ姫もやってくるものと思いこんでいたらしい。戦の最中には
そう合点すると、なおさら式典に来させるわけにはいかなくなった。
「姉君は、この城にはいらっしゃいません」
自ら発する言葉が胸を刺す。タカスの視線を背中に感じる。ウララが何か察したように表情を曇らせる。しかし肝心の青年には、その痛みが伝わらない。
「じゃあ、どこにいらっしゃるのですか?」
「……」
アモイは唇を開き、息を吸ってから、しばし躊躇する。
ちょうどそこへ玄関の外から、「申し上げます」と注進する声が割りこんできた。やってきたのは城付きの兵士で、一応は主君であるハルの前にひざまずいたが、視線はアモイのほうを向いて報告する。
「たった今、西の城より、奥方さまが到着されました」
「何だと」
アモイは耳を疑った。
「それはどういうことだ」
「御嶺さまも、お聞きになっておられなかったのですか。将兵の慰労にいらしたとのことで、そのまま閲兵場のほうへ向かわれました。西陵城代のムカワ・フモンさまもご一緒ですが」
ハルが歓喜の声をあげ、引き留める間もなく駆けだしていった。アモイとタカスも、急いで式典の会場へと走る。
城門の手前にある閲兵場には、常にない多くの人がひしめいていた。アモイが率いてきた本隊、タカスの騎馬隊、
物々しい具足に槍先に旗印、黒い頭がずらりと並ぶその先、後ろのほうからもよく見えるよう高く設えられた壇の上の人影に、アモイは目を凝らした。
鮮やかな真紅の衣。一つに束ねられ、風になびく長い黒髪。女にしては並外れた長身の、姿勢のよい立ち姿。剣を帯びていない代わりに、両頬の横に小さな反射光が揺れているのが見て取れる。
彼女がおごそかに片手を挙げると、会場を埋め尽くす男たちの唸るような低いざわめきが、ぴたりと止まった。
「初めて我が面を見る者もあろう」
張りのある澄んだ声が、静まり返った一同の頭上を風のように渡る。
「
彼女は言葉を切り、立ち並ぶ男たちの顔をゆっくりと見渡す。全員と目を合わせることなどできるはずはないのだが、なぜか誰もが、その切れ長の眼に直視されたような心持ちになる。アモイの知るかぎり、そんな眼差しを放つ人物は主君以外にはいないはずだった。
「天晴れであった」
その一言に、会場は一気に沸き返る。西陵から配備された将兵は無論のこと、マツバ姫のことをよく知らないはずの北湖の職人たちですら昂奮して、威勢のよい歓声をあげた。
アモイとタカスは壇の下で立ち止まり、呆気にとられてその情景を眺めていた。そこへバンケイが近づいてきて、「何なんだよ、どうなってんだよ、これ」と二人に詰め寄る。髭をすっきりと剃り落とし髪も衣服も整え、テシカガの形見の銘剣を携えた姿は、別人のように立派な威丈夫だ。本来なら目を
「わたしは城主の座を退いてよりこのかた、表向きのことはすべて夫に任せ、差し出たことは為さぬよう自戒して参った。が、こたびばかりは居ても立ってもいられず、直にそなたたちをねぎらうため、こうしてまかり越した。ささやかではあるが、手土産に西陵の銘酒を用意している。式典が終わったら、存分に味わってほしい」
そう言って指し示す先を見れば、城門の前にいくつもの荷馬車が並び、おびただしい数の酒樽が積まれている。
その脇には、渋色の礼服を身につけ、細身の剣を腰に差した壮年の将の直立する姿。澄ました浅黒い顔は、見間違えようがない。ムカワ・フモンだ。
「さて、そろそろ式典が始まるようだ。この先は我が夫に譲り、わたしはまた日陰に戻るとしよう。したが、ゆめゆめ忘れてくれるな。ウリュウ・マツバは、何時もそなたたちと共にある」
地から湧き上がってくるような喝采の中で彼女は踵を返し、静かに階段を下り始めた。
アモイたちよりも先にその場に駆けつけていたハルは、階段の正面に突っ立ったまま、ぽかんと口を開けて壇上を見上げていた。が、彼女が自分のすぐ前まで下りてくると満面の笑みを浮かべて、こう言った。
「すごい。ねえさまにそっくりだね」
足元を見ながら慎重に段を踏んでいた彼女は、立ち止まって顔を上げ、目の前に立つ東原城主をまじまじと見つめ返す。
それから、おもむろにアモイのほうへ視線を向け、どこか儚げな微笑を頬ににじませる。赤く染まった両耳には、見覚えのある銀の環が音もなく揺れていた。
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