7-4

 扇がゆったりと揺れるたびに、芳香がふわりと鼻腔をくすぐる。その微風に運ばれるようにして、穏やかな女の声がアモイの耳に届いた。

かんばせのお色が優れぬようじゃの。勝ち戦と聞き及んでおるが、何ぞお気がかりでもおありかえ」

「お心遣い、恐れ入ります」

 アモイは床に拳を突いて、うやうやしく頭を垂れる。

「先ごろの地震のことで、少々。しかしこの城は特段の被害もなかったとのこと、何よりでございました」

襲堰かさねぜきは、石垣が破れたらしいの」

「急ごしらえゆえ、致しかたありません。堰堤が無事だっただけでも幸いでした」

 努めて明るくそう答えると、テイネの御方おんかたは何と思ったか、手元の扇を静かに閉じた。

 隣国の中心部を震源とする大地震の影響は、山峡国やまかいのくににも及んでいた。揺れそのものは激甚というほどでもなかったが、所々で土砂崩れや地盤沈下があり、町では古い家屋が傾いたりもした。未完成のまま軍を駐屯させていた襲堰の砦も強度に不安があり、アモイは一旦、本隊を東原とうげんの府まで後退させたのだった。

 しばらく東原城に滞在することになったアモイは、城主のハルに挨拶に来たのだったが、どこへ遊びに行ったのか見当たらない。妻のウララは体調が優れないとのことで、代わりに面会することになったのは因縁の義母だった。

 三年前の先王の葬祭で起こった騒動を機に奥御殿を離れ、息子のもとに身を寄せて以降は、顔を見るのも初めてだ。長男のシュトクに斬られた怪我からは回復したものの、随分と心境に変化があったと見え、服装も化粧も質素になった。白髪も増え、目尻の皺も目立つ。

 かつて王宮で初対面したときの、あの圧倒的な婀娜あだを思い返すと、別人のようだ。しかしアモイにとっては、年齢相応に落ち着いた彼女のほうがむしろ好ましい印象を覚える。

「さても、恐ろしき夫婦めおとじゃの」

「は……、恐ろしい?」

 予想外の発言に、思わず訊き返す。

「大水を防ぐための堤じゃと言うて、三年をかけて水攻めの膳立てをなす周到。そうかと思えば、寡兵をもって美浜みはまの若殿が首を狙わせるとは、豪胆にして非情。かように無謀な策を現実に成し遂げるなど、並の者には叶うまい」

「……」

「見事な采配であったと、感心しておる」

「は、恐悦至極に存じます」

 今ひとつ褒められている気がしないのは、かつての政敵という意識が心のどこかにあるためか。どんな言葉にも裏があるように思えて、つい勘ぐってしまう。

 すると御方はアモイの警戒心を察したか、扇の先を口元に当てて苦笑した。

「押しも押されぬ御嶺ごりょうの君にして総大将たるそなたが、何を今さら恐るることあろう。これがもしも我が子の采配であったならば、海の国と真っ向から渡り合うなど及びもつくまい」

 我が子とは、二人の息子のいずれのことを指すのだろう。そんな疑問が湧いたが、口にしなかった。

「否、他の誰であっても無理であろうの……。そなたと、そなたの奥方を除いては」

「……」

 マツバ姫の話になると、背中に冷や汗が流れる。奇襲作戦の件はすでに国中に伝わっているが、その中に彼女が含まれていたことは未だ伏せられたままだ。

 テイネの御方は手元に目を落としていて、アモイの複雑な表情には気づかない様子だった。ぽつりと一言、

「これでよかったのであろう」

 とつぶやいて、物思いに沈むような間が訪れた。

「ところで、ウララどののお具合がよろしくないとお聞きしましたが」

 沈黙に耐えられず、アモイはあえて話題を転じてみた。

「よろしくないどころか。戦が終わり次第、祝いの宴を張らねばと思うておったところじゃ」

「祝い、とおっしゃいますと」

「わらわにも、まもなく孫を抱く日が来る。その祝いじゃ」

 御方の顔に、穏やかな笑みが宿る。彼女の雰囲気ががらりと変わった一番の理由が、ようやくアモイにもわかった気がした。

 四関しのせきからタカスが到着したとの報告を潮に退室し、執務室として借りている離れの客間へ戻る。角ごとに秋桜の生けられた廊下を歩きながら、意識はもはや東原城主夫妻の慶事ではなく、より深刻な問題に向けられていた。

 マツバ姫が敵国に囚われている──。誰もが美浜との戦は勝利に終わったと信じきっている今、そのような話が広まれば、この国は大混乱に陥るだろう。アモイへの信頼は揺らぎ、政変が起こってもおかしくはない。

 もちろん、自分が死んで許されるものならば、すぐにでも自害する覚悟はできている。しかしその場合、肝心のマツバ姫を誰がいかにして助けるのか。それが定まらないうちは、死ぬわけにもいかない。

 本来であれば、都へ帰って重臣たちに諮るべき危機的状況ではある。だがこの件については、心から信じられる者でなければとても話す気にはなれなかった。

 客間の引き戸を開くと、中央にタカスの正座する姿が見えた。その膝頭の前には白布が広げられ、一振りの抜き身の剣が横たえられている。

「……もしやそれは、テシカガの」

 挨拶も忘れて足早に歩み寄り、膝をついて、ボロボロに刃こぼれした刀身を見る。柄頭の渋い色味は冗談を飛ばし合った懐かしい日を思い起こさせ、胸が詰まった。

「敵将ヒヤマとの一騎打ちで地に落ちたものを、そこにいるバンケイが拾ってきてくれた」

 タカスの後ろの壁際には、バンケイが控えている。珍しく仕立てのいい上衣うえぎぬと袴を着こんで窮屈そうに座っている姿は、いつもと違ってどこかしおらしい。

「テシカガの最期を看取ってくれたのも、バンケイ、おまえだったそうだな」

 アモイはそう声をかけた。磐割原いわりのはらの戦場での出来事は、タカスからすでに密書で報告を受けている。

「感謝する。彼は我々にとって大事な友だった」

「……」

「そしておまえも、よくぞ生きて戻ってくれた」

 バンケイは団栗眼で上目遣いにアモイを見る。どんな表情で返事をしてよいかわからない、そんな顔だった。

「明日、戦功者を称える式典があると聞いて、引っ張ってきたのだが」

 タカスが剣を白布に包みながら言う。

「その男、出たくないとわがままを申すのだ」

「そうなのか」

「当たり前だろ。俺が人前で褒められるような柄かよ」

 壁際の男が、ようやく声を発した。

 慣例により、明日は将兵を集めて戦の終結を宣言し、功労を表彰する場を設けなければならない。四関の奪還は、ムカワ・カウン将軍とタカスの手柄。彼らに協力して水浸しの砦を復旧させ、敵軍の残した陸橋を瞬く間に解体したのは北湖きたうみから来た職人たちの手柄。水攻めの後、泥の中から敵将オニビラの水死体を見つけ出したのは、アモイ配下の一兵卒の手柄。

 だが最大の功労者は、やはり奇襲隊だ。生還した隊士たちは、テシカガ隊・バンケイ隊を問わず、全員が壇上に招かれる。そうなれば当然、隊長も参列しなければ示しがつかないだろう。タカスはそう説得して、せいぜい小ぎれいな格好をさせて──むさ苦しい髭面だけは、どうにもならなかったようだが──強引に連れてきたのだという。

「もしも気が引けるというなら、テシカガの代わりだと思ってくれないか」

 アモイが言うと、バンケイは眉間に浅い皺を寄せる。

「おまえの名を呼びはするが、返事をしたくなければ、黙っていてもかまわん。この剣を携えて、将兵の前に立っていてほしい。その役目に最もふさわしいのは、おまえだと思う」

「俺じゃねえだろ」

 ついに我慢できなくなったか、バンケイは足を前に投げ出し、背を丸めて後ろの壁に寄りかかった。途端にだらしなく襟が開き、袴の裾がまくれ上がる。

「オヤカタだろうよ。あの人が戻ってねえのに、手柄も何もあったもんじゃねえだろうが。どうするんだよ、そっちのことは。その話するために、集まったんじゃねえのかよ」

 核心を突かれて、今度はアモイとタカスのほうが口をつぐむ番だった。暗黙のうちに本題を避けていた二人だが、逃げていてもしかたがないことは痛いほどわかっている。

 貴殿の奥方を国賓としてお預かりしている──公子クドオからそんな内容の親書が届いたのは、昨日のことだ。

 国賓とは無論、人質の謂いに違いなかったが、解放の条件などは一切書かれていなかった。書かずとも悟れ、ということだろう。代わりにマツバ姫の武者ぶりを褒め称え、大胆な水攻めと奇襲作戦に感心してみせ、いつもの美辞麗句で文面は締めくくられていた。

 姫が生きて囚われているという事実そのものは、隣国に潜ませた密偵から知らせを受けていた。救出作戦についても、内々に計画を立てていた。だがこうして敵から公式な通知を突きつけられれば、それに対して何らかの反応を示さなければならない。国内の臣民にも、隠し続けるわけにはいかないだろう。

 アモイはその親書を懐から出して、床に置く。真っ二つに破られて皺だらけになったそれを、タカスは両手で均しながら読んだ。バンケイは文字を読むのが苦手なのか、ちらりとのぞきこんだだけですぐに顔を背けてしまった。

「私が迂闊だった。公子クドオの真の狙いを読みきれていれば、このようなことには……」

「真の狙い?」

「覚えているか。出陣前に甥御どのが、なぜ敵はこうも性急に戦を仕掛けるのかと疑惑を述べられたことを」

「ああ、そう言えば」

「以来、甥御どのは西府さいふにて、公子がこれまでにどのようなまつりごとや戦を行ってきたか、そして今、どのような国内の情勢にあるのかをつぶさに調べてくださっている」

「それで、何かわかったのか」

「まだ調べの途中で、結論は出ていないとのことだが……。甥御どのの見立てでは、政であれ戦であれ、公子の採る戦法は常に人心の掌握を旨とする。敵が心の拠りどころとするものを奪い、戦意を失わせるというやりかたで、政敵も謀反人も葬り去ってきたと。そして北湖との戦でも」

「なるほど、鏡の都か」

「最低限の時間と労力で敵に勝利するな戦いかただと、甥御どのは評していた」

「経済。甥御どのらしい言い草だな」

 少し気分を害した様子で、タカスは形のよい眉をひそめる。

「つまり、こういうことか。公子クドオの真の狙いは、領土を攻め取ることではなく、実は館さまだったと。あのかたの身柄さえ押さえれば戦に勝ったも同然、あとは我らが降伏するのを座して待てばよい。そう目論んで兵を退いたと?」

「それだけが理由かどうかはわからん。が、もしもその推測が当たっているとすれば、私は」

 言葉に詰まる。三年前、目の前の友と交わした約束が、不意に脳裏によみがえった。もしもマツバ姫を妻として幸福にできなかったときは、彼の槍に刺し貫かれても文句は言えない──。

「私は、公子クドオの望みを叶えるために、マツバさまをわざわざ磐割原まで送ってしまったことになる」

 約束を守れなかった不甲斐ない自分を、朋友に裁いてほしい。それがアモイの正直な気持ちだった。しかしタカスは、

「おまえに止められなかったのなら、私でも同じだ。この国にいる誰であっても、結果は変わらない。自分を責めるな」

「あんたを慰めてやるつもりはねえけどな。あの奇襲は間違いじゃなかった、そこだけは勘違いするなよ」

 横からバンケイも口を挟む。

「オヤカタは、あと一歩で敵の大将を仕留めるところだったんだ。ヒヤマとかいう出しゃばり野郎が横槍を入れさえしなきゃ、こんなことにはなってなかっただろうさ。だけど、どっちにしたって、終わったことを今さらああだこうだ言ったって始まらねえだろ。どうすんだよ、これから」

「おまえの言うとおりだな」

 アモイは答え、一拍の間の後に、言葉を継いだ。

「敵との交渉には、応じられん」

「降伏はしないってことか」

「マツバさまのお心を思えば、できるわけがない。自らの命と引き換えに祖国を滅ぼすぐらいなら、迷わずに死を選ばれるだろう。そういうおかただ」

 姫の気性をよく知るバンケイもタカスも、これには黙って頷いた。

「ひとまず敵には応答に迷っているように見せかけておいて、その間に救出作戦を練り直す。しかる後に忍びを通じてマツバさまと連絡を取り、すみやかに作戦を実行に移す。それしかない」

「味方の兵たちには、この状況をどう伝える。黙っていても、じきに噂は広まるぞ」

「私から、直に話す。知るかぎりの事実を、ありのままに」

「いつ」

「明日だ」

 床に横たえられた白布の包みに目を落とし、アモイは腹を決めた。

 明日、広場に将兵を集めて、予定どおり戦功者の報奨式を催す。中でも最高の栄誉を、テシカガとバンケイ、そしてマツバ姫の率いた奇襲隊に与える。敵軍を退却に追いこみ、戦を勝利に導いた働きを、皆に知らしめなければならない。

 その上で、戦場で何があったのかを率直に打ち明ける。兵たちは動揺するだろうが、出陣を決めたマツバ姫の覚悟を理解すれば、きっと厳粛に受け止めてくれるはずだ。

 最後に、敗戦に紛れて姫をかどわかした卑怯な敵とのに向け、団結を呼びかける──。

「なるほど、勝ち戦は勝ち戦として一旦、決着をつけておくか。そのほうがよいだろうな。館さまの救出に全力を注ぐためにも、士気を高めておくに越したことはない」

「それも狙いの一つではあるが」

 腕を組んで賛意を示すタカスに、アモイは補足する。

「より重要なのは、あの戦は誤りではなかったと宣言することだ。すべての策が、我が国を美浜の脅威から守るために必要なものだった。でなければ、犠牲になった者たちが浮かばれん。それを言いたかったのだろう、バンケイ」

「ん……まあ、な」

「となれば、明日の式典、なおさらおまえには列席してもらわなければならん。協力してくれるな」

「ちっ、しかたねえ。その代わり、さっき言ってた救出作戦とやらで、俺にいい出番を寄越せよ」

「ああ、約束しよう」

「まあ、オヤカタのことだからな。案外、独りでさっさと脱走して、今ごろこっちに向かってるところかもしれねえけどよ」

 バンケイの軽口で、アモイは久しぶりに頬の筋肉が緩むのを感じた。前に笑ったのはいつだったか思い出せないが、マツバ姫の強くたくましい姿はありありと眼裏に思い描ける。

 そう、彼女は生きているのだ。だとすれば、希望が潰えることは決してない。

 三人の密議は、始まりのときよりはいくらか明るい雰囲気を取り戻したかに見えた。しかし解散の直前、廊下から聞こえてきた不穏な足音が、室内に再び緊張をもたらす。

 木戸の向こうから、将軍、とささやく切羽詰まった声。扉を開くと、タカス配下の騎馬隊の一人が、青ざめた顔でひざまずいていた。

 その唇が震えながら、敵国に忍びこませた密偵からの知らせを伝える──マツバ姫の訃報を。

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