7-3

 隠れろ、というマツバ姫の鋭いささやきに続いて、勢いよく土を蹴り上げる馬蹄の音が聞こえてきた。

 音はどんどん大きくなる。その鼓動と、自らの脈動との区別がつかない。少女は歪んだ窓枠の下に屈みこんで板壁にぴったりと身を寄せ、息を止めて恐怖に耐えた。

 長い時間に思われたが、実際はほんの一瞬だ。薄べったい板のすぐ向こう側を、蹄の音は疾風のように通り過ぎ、遠のいていった。

「ユウ。大丈夫だ」

 横からマツバ姫に声をかけられ、ようやく呼吸を取り戻す。酸欠のせいか、頭がくらくらした。

「身を潜めるときに、息は止めるな。体がこわばり、動きが鈍る」

「はい……気をつけます」

「それはそうと、一騎だけであったな」

 硝子も格子もない素通しの窓から顔を出し、姫は騎馬の駆け去った方角を見やった。

 東の空は白み始めている。美浜みはまの都から北東へ向かう街道を、ほとんど夜通し駆け続けてきた二人は、荒れ地に打ち捨てられた古い百姓小屋で束の間の休息をとっていたところだった。

 暗闇の道中も、地震の爪痕はそこかしこに見受けられた。土砂崩れや倒木や地割れの痕跡に幾度も足止めを喰い、回り道を探したこともたびたびだった。街道はいくつかの集落を通過したが、倒壊した民家やその外で身を寄せ合う人々の姿も目にした。誰もが混乱のさなかにあり、二人を乗せた馬が近くを行き過ぎても、かまう者などなかった。

 してみればあの地震は、逃避行にむしろ好都合だったと言えるかもしれない。追っ手の影を間近に見ることもなく夜明けを迎え、ユウの心には少々の油断が生じた。きっとこのまま逃げきれるに違いない、そう思うと、急に耐えがたい空腹感に襲われた。

 そこでようやく、ルウランに持たされた茶菓子が懐に入れっ放しだったことを思い出した。紙包みを開くと、甘い香りが食欲をそそる。すっかり潰れて固くなってしまっていたが、この際、食感など問題ではない。姫と半分に分け合って、いざ口に入れようとした矢先、例の馬蹄の音に邪魔をされたのだった。

「追っ手じゃなかったみたいですね」

 足音の主の姿は見えなかったが、追っ手なら一騎だけということはないはずだ。ユウは自分を安心させたくて、同意を求めるように主人を見上げた。

 姫は行く先に目を向けたまま、黙って頷いた。しかしその横顔に、安堵の色はない。

「追っ手よりも厄介かもしれぬ」

 その独り言の真意を訊き返すのは、何となくはばかられた。ユウは足元に放り出された菓子を拾い、埃を払って口に入れる。甘味と共に、砂利の感触が舌の根に残った。

 その後、日が高く昇るころには、主人が何を懸念していたのかを少女も思い知る羽目になった。街道を塞ぐように駐屯する、一軍の兵士たち。近くの集落にも、見張りの隊が配備されて人の出入りに厳しく目を光らせている。あの早馬は、逃亡者を待ち伏せて捕らえるよう、街道の先にある支城に指示する都からの使者だったのだ。

 偵察を終えて姫のもとへ戻りながら、ユウは暗澹たる気持ちに襲われた。昼日中に、あの厳重な警備をすり抜けるのはとても無理だろう。と言って、いつ背後から追っ手が迫ってくるかわからないのに、ここで足止めを喰っているわけにもいかない。

 北湖きたうみに続いているという川まで、あと少しのところまで来ているはずなのに。この先へ進めば辺境の警備を担う支城があり、その城下を通り過ぎてまもなくすると、北西から南東方向へ流れる大河に突き当たる──ルウランが見せてくれた地図には、迂回路の情報は記されていなかった。

「道なき道を行くよりほかにないようだな」

 ユウの報告を聞いたマツバ姫は、街道を左に逸れ、原野を突っ切って川を目指すことを決断した。

 だがそれは、想像以上に困難な道のりだった。茂みの中へ分け入るにつれ次第に足元がぬかるんできて、どうやらこの一帯には大きな湿原が広がっていることがわかった。見た目は草地のように見えても、その下が深い泥沼になっているところがあり、ともすれば馬の蹄がはまって抜けなくなる。二人はやむなく途中で馬を捨て、足元を探りながら徒歩で進まざるを得なくなった。

 獣の足跡を頼りに、マツバ姫は慎重に歩を進める。ユウは姫の帯の先を握って、その後ろをついていく。ヒダカと共に山峡やまかいから美浜みはまへ向かったときも辛酸をなめたものだが、沼地の悪路には険しい山道とは別種の苦しみが待ち受けていた。

 とにもかくにも、進むのにやたらと時間がかかる。泥に足をつかまれて倒れこみ、起き上がろうにも手をつくところがなく、危うく沈みかけたところを姫に引き上げられ……そんなことをしているうちにどんどん体が重くなり、頭の中が朦朧としてくるのだった。

 山越えの疲れを癒やす間もなく、まともな睡眠も食事も取らずに逃げ続けてきた少女の体は、すっかり消耗しきっていた。それでも歯を食いしばり、泥で汚れた姫の背中だけを見つめて足を動かす。もちろんユウ自身も、頭頂から指の間まで真っ黒な泥人形だ。

 そんな状態で、どれほどの距離を歩いたものか。いつしか足元の沈みこみが浅くなり、生えている植物の種類も変わってきた。灌木の間を抜けて緩い傾斜を登っていくと、地面が固くなって危なげなく踏みしめられるようになった。ついに湿地帯を抜けた、と思った瞬間、視界を遮る土手の向こう側から、水の流れる音が聞こえてきた。

「マツバさま、あれ……川の音じゃ?」

 どうやら姫にも聞こえているようだ。ということは、気のせいではない。ユウの膝から力が抜けて、思わずその場に座りこみそうになる。

 だが、喜ぶのは早かった。今度は二人のはるか後方から、不穏に甲高い大音響が鳴り響いたのだ。鳥の声だ、と信じたかったが、それは明らかに何か道具を使った、人工的な音に違いなかった。

 長短を織り交ぜて数回、発せられた音響は、どうも周囲に合図を送っているように思えてならない。沼地で捨てた馬が、あるいは泥の中に残された二人の足跡が見廻りの兵に見咎められ、集合がかけられたのだろうか。

 もしそうなら、きっと敵は街道から馬で追ってくる。ほとんど引きずらんばかりのこの足で、果たして逃げきれるか。いや、逃げるしかない。力の続くかぎり、走り続けるよりほかは。

 焦燥のあまり、ユウは前を行く主人が急に立ち止まったのに気づかなかった。その背に顔面をぶつけて、

「あっ……ごめんなさい」

 と声をあげてから、慌てて口をつぐむ。

 マツバ姫の後ろ姿には、殺気のような緊張感が漂っていた。彼女の視界には、ユウの目の高さからは見えない何者かが映っているようだ。

 無言のまま泥だらけの腕を横にかざし、その場から動かないように少女へ指示する。それから腰を落とし、剣の柄に手を添え、堤の上へ向かって一歩ずつ近づいていく──。

 ところが、人影がはっきりと見える位置まで行くと、彼女は不意に警戒の姿勢を解いた。

「ひょっとして、ですかい?」

 相手がこちらに気づいて、頓狂な声で呼びかけてきた。

「おやまあ、どうしたってんです、そんななりをして」

 どこかで聞いたことのあるような声だ。ユウは遠巻きに、相手の姿が見える位置まで斜面を上がってみた。

 土手の向こうには、思っていたよりもずっと幅の広い大河が、濁った水を湛えて流れている。その川べりに、中肉中背の、若いのか年寄りなのかよくわからない風体の男が立っていた。

 身なりからして、兵士ではない。が、農民にも、川魚を捕る漁師にも見えなかった。みすぼらしい外套に身を包み、深く帽子をかぶって、背中には大きな荷を担いでいる。

「貝殻屋か。久しいな」

「妙なところでお会いするもんですなぁ」

 姫の許しが出たので、ユウも男のすぐ近くまで歩み寄った。それでようやく思い出す。三年前、お忍びで出かけた橋場はしば市街いちまちで、道端に貝殻を並べて売っていた行商人だ。

「先だって、北湖の山中に住まう猟師の小屋に、そなたが宿賃代わりに置いていった貝殻の飾られているのを見た」

「ああ、あの夫婦にお会いになられやしたか。ということは、例の抜け道をお通りになられたんで」

「虎岩の洞穴の話、あれは役に立った。礼を言うぞ」

「まあ、あっしは貝殻を売っただけでやすがね」

「このあたりでも商いをしているのか」

「いや、ちょいと売り物を仕入れに来やした。何となく、ここらで上物が取れそうな匂いがしたもんでね」

「鼻が利くことだな」

 へへ、とうつむき気味に笑う貝殻屋を、姫は真顔で見据える。

「今、この川岸で拾うた上物の貝殻。誰ぞに高く売りつける算段か」

「そりゃあ、商売でやすからねぇ、欲しがる客がいれば……なぁんて言ったら、その立派な剣で真っ二つにされちまいますかね?」

「いや。商人あきんどが商いするのを咎めだてるなど、愚かなことだ」

「ありがてえ。命拾いしやした」

「武人に武道があるように、商人には商道がある。その根本は、あたいある品をある場所から別の場所へ移すこと。そう、亡き友から聞いた」

「そりゃあ、きっといい商売人に違いない。そんなら、あっしの信条も一つご披露しやしょうか。『上物を売るは一時の得、上客を売るは一生の損』なんて言いやしてね」

「上客でありたいものだな。ところで今、わたしに売れる品はあるか?」

「さぁて、どうですかね。この川へおいでなすったってことは、旦那のお求めは、北の湖の貝でしょう」

 と言う間にも貝殻屋は素早く荷を下ろし、引き出しのついた木箱を取り出す。引き出しの中は細かく仕切られていて、区画ごとに色とりどりの貝殻がしまわれている。

 ただ、それらはどれも無残に潰れたり欠けたりして、原形を留めているものはほとんどなかった。

「昨夜の揺れで、このざまでさぁ。とても売り物になりゃしやせん。まあ、せいぜい、こいつぐらいでしょうかねえ」

 男は黒い小さな粒を一つ、手のひらに載せて見せる。真ん中にひびが走っているが、かろうじて巻き貝の形を保っていた。

「あの地震のおかげで、あっちこっち大変でさ。ちょうどこの先にある石切場のあたりでも、ひどい崖崩れがありやしてね。川を遡る道が塞がっちまって、どうにもなりやせん」

「北湖へは行けぬのか」

「あのありさまじゃ、無理でしょうねえ。完全に行き止まりでさぁ」

 ユウは息が詰まりそうになった。救いを求めるようにマツバ姫を見上げたが、彼女は川のほうへ顔を向け、何も言わなかった。

 川沿いを遡って北湖まで行けば何とかなると信じて、ここまで逃げてきた。その望みが絶たれたということだ。しかもいつ背後から追っ手が現れるかわからず、引き返すこともできない。

 生き延びる道は、もうどこにもないのか?

 ユウは泣きたい気持ちをこらえて、哀れに砕けた貝殻たちを見下ろした。陥没したもの、粉々になったもの、幾筋も亀裂の走ったもの。

 その中にふと、吸い寄せられるように目の留まったものがある。

「それっ……!」

 引き出しの一番奥の隅を指さして、少女は叫んだ。

「おや、こいつは」

 貝殻屋も初めて気づいた様子で、目を丸くする。そこには、青と白の綾目も鮮やかな大ぶりの巻き貝が、奇跡的に無傷のまま鎮座していた。

「坊は目敏いねぇ。旦那、ご覧なすって。いかがです、こいつはなかなかの縁起モンだと思いやすがね」

 マツバ姫は差し出された艶やかな貝殻を指先に摘み、物珍しそうに見あらためる。

何処いずこの産だ」

「こいつは、簡単には手に入りやせんよ。何せ、海の向こうで拾ってきたもんですからね」

「海の向こう?」

「あっしの故郷ふるさとでさ」

 貝殻屋は手早く荷をまとめて背負い直し、立ち上がる。

「お代は後で結構。邪魔が入るといけねえから、まずは急ぎやしょう」

 言うが早いか、川上へ向かってさっさと歩きだした。

 上流は行き止まりのはずでは、とユウは不審に思ったが、マツバ姫は迷わずに男の後に従った。姫が行くならば、もちろん少女に立ち止まっている理由はない。

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