7-2

 空が崩れて落ちてきたかのような轟音が鳴り響き、他には何も聞こえない。目に見えるあらゆるものが震撼して、立つどころか座っていることもできない。

 机の前の椅子が倒れる。机自体も床の上を滑って、壁から離れる。書物や文箱が飛び散る。わたしはこけつ転びつしながら、どうにか机の下に潜りこんだ。それとほぼ同時に、窓硝子が割れ落ちる。

 いつものめまいではない。現実に、大地が揺らいでいる。生まれてからこれまでに経験したことのないほどの、激しい縦揺れだった。

 わたしは書斎で独りだった。マツバ姫主従とヒダカを送り出した後、手元に残された二つの赤珊瑚を握りしめ、彼らの道中の無事を天に祈っていた。しかし今は天も地も滅茶苦茶で、もはや何に向けて祈ってよいかすらわからない。

──大丈夫だ。じきに治まる。

 耳元で、ヒダカがささやいた気がした。しかし、彼がここにいるはずはない。

 わたしは目の前に組んだ掌をほどいて、中をのぞきこんだ。闇の中にほの浮かぶ一対の血色の塊は、まるでわたしに語りかけるかのように、鈍い光を湛えている。

「奥方さま! ご無事ですか、奥方さま!」

 どこからか女中たちの叫び声がして、はっと顔を上げる。いつしか物音は静まっている。まだわずかに揺れは残っているが、立てないほどではなさそうだ。

 その代わりに妙な臭いが周囲に漂い、喉にも異変を覚えて咳きこんだ。見回すと、真っ暗だったはずの視界がうっすらと白濁している。

「煙幕……?」

 なぜか最初、そんな言葉が出てきた。しかしもちろん、わたしの部屋にヒダカが火薬など放つはずはない。

 本当の原因はすぐにわかった。震動で燭台が倒れ、部屋中に散らばった紙類に火が燃え移っていたのだ。

 壁に貼られたいくつもの地図や覚え書き。書棚に入りきらず平積みにした書物や資料。過去に書きためた、あるいは書きかけの原稿。まだ何も書かれていない白紙。すべてが灰になっていく。

 すでに調度や壁の表面にも炎が這い上がり、もはやわたし一人の手に負える様子ではなかった。

「母上! 返事をしてください、母上ぇー!」

 今度は子どもたちの泣き声。外からだ。

 わたしは硝子の割れ落ちた硝子戸に駆け寄った。露台へ出て助けを呼ぼうと思ったが、戸の外に続いていたはずの板床がない。下を見ると、木材の残骸が庭に固まって落ちている。地震の衝撃で、崩壊してしまったようだ。

 窓から吹きこむ風を受けて、火はますます勢いを増す。振り返らなくても、背中に感じる熱でそれが知れた。

 わたしは死ぬのかもしれない。生まれて初めて、それを覚悟した。今までは何があっても、夫かヒダカか、どちらかが必ず助けてくれた。しかし今、二人は都の外にいて、ここには駆けつけられない。しかもその状況を作り出したのは、わたし自身なのだ。

 再び手のひらを開き、二つの珊瑚の断面を組み合わせてみた。火事の熱気を吸ったかのように、血色の石には妖気がみなぎっている。

──どうせ死ぬなら、その前に、見届けなければ。

 わたしは立ったまま目を閉じた。意識が急速に遠のいていく。

 背中をじりじりと照りつける熱が、不意に柔らかなぬくもりに変わった。まるで、誰かが後ろから抱き留めてくれているかのような。

 そう思ったときにはもう、わたしは冷ややかな秋風の吹く街道脇の草むらに伏せていた。

 いや、違う。これはわたしではない。わたしの幼いころに似た、あの少女だ。邸を出るときに持たせた水筒が、目の前の地面に転がっている。中身の液体がこぼれて、草の根を濡らしていた。

 ユウは土の上に手のひらをついて、蜥蜴とかげのように前へ這っていく。大地の揺れが収まっても、体はまだ恐怖に震えている。それでも、じっとしてはいられない。密集したすすきを掻き分けて、薄明かりの照らす夜道へ顔を出した。

 最初に見えたのは、白っぽい毛並みの馬が地面に腹をつけて座りこんでいる姿だった。ヒヤマの乗ってきた駒だ。マツバ姫の乗ってきたほうの馬は、どこかへ逃げていったのか、近くには見当たらない。

 そして馬の手前には、ひび割れた大地に倒れている二つの人影。

 どうやら二人とも落馬してしまったようだ。あれほどの激震が突然にやってきたら、無理もないだろう。それぞれ手に持っていたはずの得物も、路上に投げ出されてしまっている。

 得物──。少女は目を見開いて立ち上がる。

 よろめく足をもどかしく思いながら、できるだけ音を殺して歩み寄る。姫とヒヤマのちょうど中間あたりに落ちている、一振りの剣に向かって。

 白刃がちらりと光って、少女を呼ぶ。泥で汚れた小さな手を、その柄に伸ばす。これはマツバ姫のものだ。取り返さなければならない。

 が、そのとき。

 そばで伏していた男が、うめき声と共に動きだした。兜が脱げ落ち、みどりに染めたこめかみが露わになっている。その頭部が、ゆっくりと持ち上がっていく。

 ユウは思わず凍りついた。まさに鬼のような形相。三年前に公子との密談を立ち聞きしてしまったときの恐怖が、たちどころによみがえってくる。

 体が動かない。

 しかし次の瞬間、ヒヤマの血走った眼差しは少女の視界から消え去った。

「ヒダカ……」

 彼は倒れている兄の前に、言葉もなく立ちはだかっていた。その背中で視界を遮ることで、ユウの金縛りを解いてくれたのだった。

 平静を取り戻した少女は急いで剣の柄をつかみ、やや離れたところに飛んでいた紅の鞘も拾い、マツバ姫のほうを振り返る。

 主人の姿は、落馬した場所にはすでになかった。すぐそばに落ちていたはずの、テシカガの鞘もない。いつの間にやら彼女は座りこんだ白馬の傍らに立ち、くつわを取って起き上がらせているところだった。

「マツバさま、これを」

 ユウは主人のもとへ駆け寄って、取り返した剣を差し出した。姫は頷いて受け取り、代わりに鉄納戸てつなんど色の空鞘を少女に渡すと、颯爽とした足取りで鞍にまたがった。

「ヒダカ、行こう!」

 ユウが振り返って叫ぶ。しかしヒダカは同じ場所に立ったまま、静かに首を振った。

「俺にできるのは、ここまでだ」

 具足を脱いで頬の湿布も剥がした彼は、もう偽将軍ではない。西陵せいりょう城下で少女に笛を教えてくれた、少し胡散臭いけれど気のいい男の、穏やかな顔つきをしていた。

「駄目だよ、残ったら殺される」

「心配するな。俺は生き物じゃない、ただの影だ。誰にも殺せやしないさ」

 冗談なのか本気なのかわからない口ぶりで答える。すると地面からにらみ上げていたヒヤマが、ふと眉をひそめて顔を伏せた。

「行けよ。この機を逃すと、次はないぞ」

「……」

 ユウは自分の腰に提げた革袋をもぎ取り、それをヒダカに向かって放り投げた。中には例の木笛が入っている。今の少女には、それぐらいしか彼に贈れるものがなかった。

 緩やかな放物線を描いて宙を渡った置き土産を、ヒダカの手がしかとつかみ取る。と同時にユウは主人の腕を借りて白馬の鞍によじ登り、もう彼のほうは見なかった。

 マツバ姫はヒダカと目礼を交わすと、手綱を引いて馬首を巡らせる。

「このまま逃げられると思うな」

 ひどく醒めた声が、その背に投げかけられた。地に手をついて上半身を起こした敵将は、先ほどまでのような憤怒の形相ではなく、乾いた冷笑を浮かべている。

 姫は切れ長の眼の端でそれを見て、少しの間の後、同じように皮肉めいた笑みを含んだ。

「追うのは勝手。されど真のウリュウ・マツバは、いつ何時も祖国・山峡やまかいにある。ここにいるわたしは、虚ろな幻に過ぎぬ」

 月に顔を向けて、ほとんど独り言のように語る。その声は低く澄み、宵闇へ染み入っていくようだ。

「その幻とて、二度とお目にかかる日はあるまいと──公子クドオに、お伝え願う」

 さらば、と最後に言い捨てて、姫は勢いよく馬腹を蹴る。二人の女を乗せた駿馬は、一陣の風となって夜霧の彼方へ消え去っていった。

 残されたのは、同じ顔をした男二人。笛の入った革袋を持った弟と、湿った小砂利を両手に握りしめた兄。

 と、もう一つ。地面に、藤蔓を柄に巻きしめた古い短剣が転がっている。ちょうど、兄弟の中間の位置に、抜き身のままで。

 重苦しい沈黙のさなか、先に動いたのはヒダカだった。革袋を小脇に挟んで軽く膝を屈め、まるで石ころでも拾うかのように、無造作に短剣へ手を伸ばす。

 ヒヤマはまだ起き上がりもせず、低い位置から弟の挙動をじっと見る。そしてヒダカが刃を指先で摘み上げたところで、おもむろに口を開いた。

「この機を逃すと、次はないぞ」

 先刻、ヒダカがユウに告げた言葉だ。

「私を殺して、ヒヤマ・ゼンに成り代わってみるか」

「真顔で冗談言うなよ。俺に鬼将軍なんて務まるわけがないだろ」

 ヒダカはさらに短剣の鞘も拾って、刃を元どおりに納めた。

「おまえのその傷は、じきにきれいさっぱり消えちまうさ。俺のと違ってな」

「……」

「いつまでそうしてるつもりだよ」

 促すような弟の言葉に、ヒヤマはそれまでの醜態が嘘のように敏捷な身のこなしで立ち上がった。具足についた土埃を払う動作も軽く、特に大きな怪我はしていないようだ。

 弟はその様子を黙って見守っている。

 乱れた青髪を整えて兜をかぶり直したヒヤマは、すぐに将軍らしき威容を取り戻した。ただし完全にとはいかない──左頬を覆う埃まみれの湿布と、腰に帯びるべき得物が欠落している点ばかりはどうしようもなかった。

「使うか」

 ヒダカは拾った短剣を、柄を相手のほうに向けて差し出す。

「おまえにとっても、またとない機会なんじゃないか。目障りな影を始末するのに」

 ふん、とヒヤマは鼻を鳴らしただけで、受け取りはしなかった。その顔には、もはや憤怒も冷笑もない。目の前にいるのは自分の影。感情をぶつけても自らに跳ね返ってくるだけだと、とうに悟っているようだった。

「ルウランに頼まれたか」

 淡々とした口調で、つぶやくように問う。

「それとも、あの小娘か。子どものころのあいつに、よく似た」

 ヒダカは答えない。何も聞こえなかったような顔をして、手元の革袋と短剣とを黙って見比べている。

 もっともヒヤマのほうも、特に返事を期待してはいないらしい。都の方角へ目を細め、霧の向こうの空がほのかに赤らんでいるのを認めて、眉根を寄せる。

「火事か、擾乱か。いずれにせよあの激しい揺れでは、都は混乱を免れまい」

 ヒヤマはそう言うと、マツバ姫が駆け去ったのとは反対の方向へ足を踏み出す。

「私は一度、城へ戻って我が君のご無事を確かめ、ご指示を仰がねばならん。おまえは、邸の様子を見に行ってくれ。妻や子どもらが怪我などしていないか、気にかかる」

「俺に任せていいのかね」

「おまえ以外に誰がいる」

 ヒヤマ・ゼンは背中越しに言い残し、そのまま足を速めて都への道を急いだ。

 その後ろ姿をしばし見送りながら、彼の影は、微かに笑みを浮かべたようだ。笛の入った革袋と短剣を懐へしまうと、音もなく闇に溶けていった。

──ヒダカが助けに来てくれる。

 そう思った瞬間に、我に返った。目を開くと、子どもたちと女中が頭を寄せ、仰向けに横たわるわたしをのぞきこんでいた。

「気がついた!」

 二番目の息子が叫ぶと、邸の使用人たちが集まってきて、口々によかったと言って肩をたたき合った。いずれも煤で汚れた顔ばかりだったが、家中の者は皆、命に別状はないようだ。

 女中に支えられて上半身を起こすと、目の前には恐ろしい光景が待っていた。わたしを含め皆が避難して集まっている庭の中央には、見たこともないような大きな亀裂が走っている。その向こう側には、土壁が所々崩れ、窓という窓から煙を吐いている我が家。つい先ほどまで自分が立っていた書斎のあたりは、早くも真っ黒に焼け焦げている。

 どうやらわたしはあの場所で、二つの珊瑚を握りしめたまま、気を失ってしまったらしい。果敢にも炎の中に飛びこみ、わたしを救い出してくれたのは、マツバ姫を見張るために配置されていた兵士のうちの一人だった。

 その若い兵士が駆け寄ってきてひざまずき、ご無事で何よりです、と頭を下げた。しかしその表情に安堵の色はなく、悲壮感さえ漂っている。

 わけを訊くと、彼は周りをはばかって声を低め、わたしに耳打ちをした。

「実はまだ、お客人の無事が確認されておりません……」

 他の兵士たちも、少し離れたところで深刻そうに何やら話し合っている。なるほど、見張りを命じられておきながら炎の中に置き去りにしたとなると、大問題だ。夫に知れれば、手討ちにされないとも限らない。

 だがもちろんわたしは、彼らに咎のないことを知っている。

「それよりも、市中の様子を見に行きなさい。我が家でさえこのありさまでは、きっとあちこちで大きな被害が出ているでしょう」

「そ、そういうわけには……」

「夫には、わたくしから話します」

 かしこまって駆け去っていく兵士の後ろ姿を眺めながら、わたしは笑いを噛み殺していた。

 彼女が、焼死などするはずがないではないか──。

 そのとき、庭に集まった人々の間に、どよめきが湧いた。その指差す先を見上げると、ちょうど邸を包む火炎が勢いよく空へ燃え盛って、まるで巨大な怪鳥が紅蓮の翼を広げて飛び立つかのように見えた。

「そう、籠には飼えぬ鳥よ」

 天が落ち、地が裂けようとも、その羽ばたきを止めることなどできない。

 ついにこらえきれなくなり、わたしは顔を覆って笑いだした。

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