第7章 片割れ

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 呼び止める声が何と言ったのか、ユウには聞き取れなかった。ともかく、人の足音が近づいてくる。篝火の揺れる明かりが、葛籠つづらの編み目を通してぼんやりと見えた。

 足音が止まる。やってきた男たちの気配が、やたらと近く感じられる。心臓の鼓動が漏れ聞こえるのではないかと、少女は荷駄の中で身を縮めた。

「将軍でしたか。これは、ご無礼つかまつりました」

 知らない男の声がそう詫びてきた。

「ご苦労。異状はないか」

 応じるヒダカの声に、似つかわしくない威厳が漂っている。それがヒヤマ・ゼン将軍の口調なのだろう、相手はまったく疑う様子もない。

「はっ。霧が濃く見通しが悪いため、今宵は特に注意深く見廻りに当たっております」

「うむ。よい心がけだ」

「ありがたきお言葉。時に将軍は、この夜分に何処いずこへおわしますか」

「我が君よりご下命あって、さる処へ遣いに参る」

「行軍を終えたばかりのところ、ご苦労さまでございます。ところで、この夜霧の中、伴が一人だけというのはご不便では? よろしければ、幾人か随伴させますが」

「それには及ばぬ。遣いの向きは伏せられたいと、我が君のご意向だ。ゆえに、ここで私に会ったことも他言無用。よいな」

「はっ、承知いたしました。では、お気をつけて」

 鐙が馬の腹を蹴り、蹄が動きだした。篝火の明かりがゆっくりと遠ざかっていき、葛籠の中はまた完全な闇に戻った。

 ユウは密かに溜め息をついた。これで何度目だろうか。警備兵と思しき男たちに呼び止められるたびに、ヒダカは同じ口上を述べ、拍子抜けするほど簡単に信用された。ヒヤマ将軍と同じ顔、同じ声。左頬の古傷は湿布で覆われ、青く染めていない髪の毛は兜で隠されている。加えて今はヒヤマ本人の鎧を着こんでいるのだから、見分けられないのも当然だ。

 強いて言うなら、ヒダカは兄よりもやや痩身だ──と、ルウランは言っていた──が、宵闇と霧のおかげでそれも目立たなかった。

「苦しくないか、ユウ」

 葛籠の外から、マツバ姫がささやきかけてきた。

「大丈夫です」

 本当は体を伸ばしたくてしかたがないが、平気なふりをして答える。

 ヒダカがヒヤマ将軍を演じている後ろで、マツバ姫は彼の従者を装っている。ルウランの用意した男物の装束をまとい、髪を結い上げて頭巾をかぶった姿は、さすがというべきか、どう見ても凛々しい青年そのものだった。

 そしてユウは何に化けているかと言えば、従者と共に馬の背に揺られる大荷物。将軍が密命を帯びて誰かに会いに行く、その手土産という体であった。

「あと少しだ。関所を抜けたら、蓋を開けてやるからな。辛抱しろよ」

 ヒダカも馬を寄せて、そっと声をかけてくれた。

「わかった」

 それからまた、しばらくは固い籠の中で、丸くなって揺られていった。

 甘い香りが鼻腔をくすぐる。葛籠の中には、茶菓子の入った包みが一緒に入れられている。冷めた茶を詰めた水筒もある。どこか安全な場所まで行ったら食べてと、ルウランが持たせてくれたのだ。

 つくづく不思議な女性だった。両目の色が薄くて、蝋燭の明かりの中では赤く光っているように見えた。そんな色の目をした人には、三年前に橋場はしば市街いちまちにいた占い師の老人のほかには会ったことがない。

 マツバ姫の言うとおり、本当にルウランは、あの占い師の孫なのだろうか。だとすれば彼女にも、普通の人に見えないものが視えるのだろうか。

 たとえば、自分たちが無事に山峡国やまかいのくにに帰れるかどうかを……。

 闇の中で、ユウは独り首を振る。信じるとすれば占いより、マツバ姫だ。主人が生きて帰ると決めたのなら、きっと帰れるに違いないのだ。

 実際に、事は予想よりずっとうまく運んでいる。今ついに、偽ヒヤマと従者の駒は都外れの関まで到達し、お決まりの口上で関守たちを丸めこんだところだった。

「どうぞお気をつけて。お戻りをお待ちしております」

 若そうな関守たちの声に送られて、二騎は関門を通り抜ける。葛籠の中で、ユウがこっそりと安堵の息を漏らした。

 そのときだった。

「将軍! しばしお待ちを」

 背後から、大声で追いすがる声がある。馬は足を止め、後ろを振り返った。

 関守たちとは別の者たちのようだった。いくつもの蹄の音が、駆け足で迫ってくる。武具を身につけているのか、金属音もいくらか交じっていた。

 待ち受ける偽将軍の主従と、手綱を引いた騎兵の一団は、関門を挟んで向かい合う。

「何事だ」

 ヒダカの声が威圧するように響いた。

 騎兵たちは、いざ近くまでやってくると、すぐには話しかけてこない。こちらの出かたをうかがっているような、心地の悪い間があった。

 ユウは耐えきれなくなって、息を止めて頭をもたげ、片目をつぶって葛籠の編み目をのぞいてみた。しかし穴は小さすぎて、外の様子はほとんど見えない。篝火のある方向だけが、ほんのりとした明るみで知れるだけだ。

「ヒヤマ将軍。恐れながら、我々とともに、今すぐお戻りいただけませんか」

 ややあって、壮年らしき声が言った。慇懃ではあったが、毅然とした口調だった。

「わけを訊こうか」

 ヒダカは動じることなく応じる。

「夕刻にお話しした件で、ご相談があります」

「何?」

「お忘れですか。戦功者の報奨の件でございます」

「いや。しかし、今日でなくてはならぬのか」

「火急の案件が出て参りまして」

「ならば、こちらの用をすみやかに済ませて戻る。それまで待て」

「いいえ」

 有無を言わさぬ口調に、編み目越しにも、場の空気が凍りつくのがわかった。ユウは葛籠の中で生唾を飲み下す。

 彼らは、今までやり過ごした者たちとは違う。

「恐れながら、どうかこのまま、我らと共にお戻りくだされたい」

「私は公子きみの遣いを仰せつかっている。それと知って申しているのか」

「是非にと言われるのであれば、そのお遣い、我らもお供いたします」

「とすれば──」

 張りのある声に微かな笑みを含ませ、ヒダカはゆっくりと間をもたせて言う。

「おまえの用件は、どうやら報奨の相談ではないようだ」

「将軍。先刻お会いしたときから、兜の色が違っておられますな。御馬も。いつ、お召し替えになられました?」

 ず、ず、ず、ず。ヒダカの返答は、虫の這いずるような雑音にかき消された。

 葛籠の蓋を結び留めている麻紐を、誰かが引いている。マツバ姫が騎兵たちに隠れて、密かに封を解こうとしているのだとわかった。

 その意味を悟って、少女の強張った肢体に戦慄が走る。

「お戻りいただけますな」

 壮年の騎兵の声が、念を押した。

「やむを得んな」

 これは、ヒダカがマツバ姫を振り返りながら言ったようだった。

「その前に、一つ訊いておこうか」

「何でしょう」

「おまえたちをここへ差し向けたのは、?」

 返事は聞こえなかった。その前に何か乾いた音が爆ぜて、同時に、葛籠の蓋がいきなり全開になった。

 痺れた体を励まし、大急ぎで起き上がる。暗闇から解き放たれた目に見えたのは、ただ白一色の世界だった。濃霧、だけではない。火薬の臭いがする。

 横からマツバ姫の手が伸びてきて、少女の腕をつかんだ。次の刹那には、小柄な体は姫のまたがる鞍の前部へうつ伏せに押しつけられ、馬は一目散に煙幕の外へ向かって駆けだしている。

 白い闇の向こうで咳きこむ男たちの声は、あっという間に遠ざかっていった。 

 マツバ姫は黙ったまま、ひたすらに馬を駆った。都から北東へ向かう街道の先のほうは、やはり霧が淀んでいる。それでも街中にいるときよりは、風が吹き抜けるせいか、いくらか見通しはよくなった。

 しばらく走った後、後ろに追っ手が見えないのを確認すると、マツバ姫は馬を止めて少女に声をかけた。

「ユウ。起き上がれるか」

「はい、平気です……」

 鞍の上に身を起こした少女の顔は、涙と鼻水でひどいありさまだった。煙幕のおかげで、目鼻の粘膜を痛めてしまったのだ。

「……でも、ちょっと洗っていいですか」

 ルウランの用意してくれた水筒を、ユウはちゃっかりと葛籠の中から持ち出していた。ぬるい茶でうがいをし、目を洗うと、多少は痛みがやわらいだ気がした。

 改めて周りを見回してみると、道の片側には丈高い雑草が生い茂り、もう一方は林が続いているようだ。空には円い月がほの浮かび、冷たい夜風が草木をざわめかせていた。

 ヒダカの姿は、どこにも見えない。

「あの忍びの者なら、煙と共に姿を消した」

 マツバ姫が言った。

「大丈夫でしょうか。ヒヤマ将軍じゃないって、気づかれたみたいでしたけど」

「難儀をかけてしまったが、あれはなかなかの手練れだ。心配は要るまい。しかし、これ以上は頼るわけにはいかぬであろうな」

「そう、ですね」

 もうヒダカに会えないのだろうかと、ユウは内心ひどく動揺した。無理を言って山峡から連れてきてもらって、都を出るのにも協力してもらって、一言のお礼も伝えられないのか。

 どこからかひょいと顔を出して、できればそのまま、ずっと一緒についてきてくれたらいいのに。

 そう心の中で念じたとき、左手の木立の中から、馬のいななきが聞こえた。

 はっとして目を凝らすと、木々の合間に動く影は、一騎のみ。追っ手にしては不自然だ。

「ヒダカ!」

 林の中から街道へ出てきた騎士の左頬に白い湿布が貼られているのを見て、ユウは思わず喜びの声をあげた。

 しかし次の瞬間には、妙だ、と思った。身につけている武具が、どこか違う気がする。馬の毛色も、妙に白っぽい。兜の庇が男の顔に影を落とし、その影の奥から二人を見る両目に、冷たい光が宿っている。

 ヒダカと同じ顔。しかし、ヒダカではない。だとすれば――。

 馬同士の鼻面が触れ合わんばかりのところまで来て、相手は手綱を引いた。

「我が君は、落胆なさるでしょうな」

 ヒヤマ・ゼンの声質は、もちろん、弟のものとよく似ている。けれども、その響きはぞっとするほど冷酷で、優しさの欠片も感じさせない。

「無論、私も心から残念に思っている。本来ならば捕虜として扱うべきものを賓客として心からもてなした、その報いがこの始末とは。鍋底の流儀というものですかな」

 非難するような口ぶりとは裏腹に、ヒヤマの口元は、うっすらと笑みを浮かべているように見えた。

 マツバ姫は黙ったまま、ただ鞍の上に背筋を伸ばして、ヒヤマに相対している。

「さて、いかがなさるおつもりか? おとなしく下馬して許しを乞われるならば、私のほうにはすべてを不問に処する用意がある。何しろ、我が邸宅にお預かりした客人に逃げ出されたなどという話が広まっては、名誉に関わりますからな。賢明な姫君ならば、採るべき道は考えるまでもないことと思うが……」

 マツバ姫はやはり答えない。ただヒヤマの顔を鋭い眼差しで見据えたまま、「降りて、離れよ」とユウにささやいた。少女は急いで鞍から滑り降り、道端の草藪の中へ避難した。

「そうこなくては」

 ヒヤマは、今後こそはっきりと口元を歪めて笑った。

「君命に背くことにはなるが、致しかたあるまい。いずれ人質に情をかけるなど、禍根の源。ここで断ち切っておくにくはない」

 男の手が、腰の剣に伸びた。その鞘を殊更に見せびらかすように、柄を握って引き抜く。淡い月明かりの下に、白い刃が露わになった。

 その剣の長さ、柄の形、そして真紅の鞘のこしらえに、ユウはあっと声をあげる。

 見間違えるはずはない。姫が長年、愛用してきた名剣に相違なかった。それが今、敵の手にある。当のマツバ姫には、ユウが故国から持ってきた古い短剣と、テシカガの形見の空鞘だけしかないというのに。

──あの剣が、マツバさまの手にあれば……相手が誰でも、負けるはずはないのに!

 にらみ合いは、短かった。

 両者の馬が地を蹴り、ヒヤマが白刃を振りかぶる。

 その一撃に対して、マツバ姫は?

 ユウが目をみはったまさにそのとき、突如として、真っ黒な影が視界を横切った。さらにけたたましい騒音が鼓膜を支配して、剣戟の音も聞こえない。

 二人の殺気に驚いたのか、林の中に潜んでいたおびただしい数の鳥たちが、一斉に夜空へ飛び立ったのだった。盛んな鳴き声と羽音に度肝を抜かれて、少女の足はふらついた。まるで、大地が小刻みに揺れているかのような。

 いや、今はそれどころではない。ヒヤマとマツバ姫の対決はどうなったのか、見届けなければ。

 ユウが草の間から身を乗り出そうとした途端、誰かの手が背後から肩を鷲づかみにした。ひっ、と声をあげる間もなく、その手は彼女を草の根に押し倒した。

 驚いてもがこうとすると、耳元で男の声が鋭くささやく。

「伏せてろ。でかい揺れが来るぞ」

 ヒダカ──。

 その名を呼ぶ前に、凄まじい地鳴りの音がやってきた。

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