6-5

「ルウラン」

 目を開くと、ヒダカの気遣わしげな顔が間近にあった。蝋燭の赤い明かりが、その左頬に複雑な陰影を作り出している。

 わたしはいつの間にか、書斎の長椅子に横たえられていた。傍らにヒダカがひざまずき、床に置いた燭台を挟んで、ユウも付き添っている。

 マツバ姫が見当たらない。急いで上半身を起こすと、一瞬、くらりとめまいがした。無理するなと、すかさずヒダカが背を支える。

 反対側から、琥珀色の液体の入った碗が差し出された。マツバ姫の手だった。わたしが餐堂から持ってきたきり放置していた茶瓶から、わざわざ注いでくれたものらしい。

 わたしは茶碗ではなく彼女の腕を取り、勢いこんで尋ねる。

「戦がまだ終わっていないとは、どういう意味なのですか」

 唐突な問いに、姫は目を瞬いた。横からヒダカがあきれ顔で、

「おまえ、また夢とうつつの見境がなくなってるぞ」

「ヒダカ、あなたさっき、姫君が死ぬおつもりだって言ったわね」

「ああ、そっちは現実だ」

「だったら、夢と現実はつながっている……。戦はまだ終わっていない、そう、磐割原いわりのはらからこの都へ、場所を移しただけだったのよ」

 夢を見る前までのわたしは、大きな勘違いをしていた。彼女が死を選ぶとすれば、自責の念か屈辱からか、いずれにしても敗戦の衝撃に心を苛まれた結果だと思いこんでいた。だからこそ精いっぱいのもてなしをして、その苦しみを和らげてあげられたなら、悲劇は避けられると考えていたのだ。

 何と浅はかだったことか。彼女は、戦に負けたから死ぬのではない。戦に勝つために、あえて命を捨てようとしているのだというのに。

 マツバ姫を人質にした今、美浜国みはまのくに山峡国やまかいのくによりも圧倒的に有利な立場にいるように見える。彼女を盾にして降伏を迫れば、アモイ・ライキは否とは言えないだろう。しかし、もしもここで彼女が死んだら? 盆地の人々は弔い合戦に奮い立ち、屈服することなどもはや考えもするまい。

 それだけではない。美浜は今回の戦における最大にして唯一の戦果を失うことになる。先鋒のオニビラ将軍を討ち取られ、奪った砦は奪還され、本隊は敵地に足を踏み入れることなく退却した。彼女がいなくなれば、その瞬間に勝敗は覆るのだ。

 戦を民衆の支持を得るための方便とする公子にとって、山峡のような小国に敗れるようなことがあれば、致命的な失策だ。彼の名誉は著しく失墜し、大国を束ねる求心力は衰えるかもしれない。

「ご自身の死を利用して……貴女は山峡国おくにを守るおつもりなのですね」

 彼女は切れ長の眼に怜悧な光をたたえたまま、返事をせずに黙っている。手にした茶碗からは、もう湯気は立っていない。

 ユウがひっそりと、暗がりの中でしゃくりあげる。傷だらけの鞘を抱きしめながら、小さな体を激しく震わせていた。

 彼女が一度、心を決めたら、誰にも止めることはできない。誰かがそう言っていた気がする。

──でも。

「でも、その結末は、貴女にふさわしくない」

 わたしの口からまた唐突に転がり出た言葉に、マツバ姫は少し眉を上げた。

「貴女は、こんなところで死んではいけない。それくらいなら、今すぐに、ここから逃れるべきです」

「おい、何を言い出す」

 ヒダカが横から、わたしの肩を揺する。その手を払いのけて長椅子から立ち上がり、姫の正面に向き直った。

「だって貴女は、主人公だもの」

「主人公……?」

「いつか必ず、わたしが貴女の物語を書きます。いいえ、わたしが書かなくても、きっと誰かが語り伝えるでしょう、気高き深山の姫君の伝説を。そのためにも、今はこの窮地を生き延びなければ。そうよ、囚われの身になったように見せかけて、敵の巣窟から鮮やかに脱出してみせる、そのほうがよほど貴女にふさわしい筋書きだわ」

 マツバ姫も、ヒダカもユウも呆気にとられた様子で、熱弁をふるうわたしを見ている。無理もない、自分でもおかしなことを言っているのはわかっていた。それでも、何かが乗り移ったかのように、説得は止まらない。

「あまりのんびりしている暇はありません。夫が帰ってくる前に、ここを離れてください。すぐに着替えを用意しますわ」

 わたしは姫の手から半ば奪うようにして茶碗を受け取り、脇机に置いた。それから壁に貼ってあった地図を剥がして、燭台の明かりの下に広げる。

 美浜の都を中心に、西には山峡の盆地、南には海岸線と沖合の群島、東に山岳地帯、北に大きな湖が描かれた絵図。古い時代のもので、国境は引かれていないが、地形を見るには充分だ。

「山峡国へ帰るには、この都から西へ進んで、磐割川いわりがわ沿いを遡るのが普通です。でもそれだと、人の多い町をいくつも通らなければならないし、追っ手に先回りされたら逃げ場がなくなってしまう。だったら遠回りでも、北東へ向かうほうが安全でしょう」

 早口で説明しながら、山岳地帯の手前を流れるもう一本の川筋を指さす。

「こちらの川をずっと遡っていくと、北湖国きたうみのくにに行けるのです。ねえヒダカ、いつかそう教えてくれたわよね?」

「北湖国……」

 ヒダカの代わりに、ユウがつぶやいた。

「北湖は今、この国の支配下にあるけれど、人々が心から従っているわけではないと思うの。あなたたちのことを、そう簡単に追っ手に引き渡したりはしないのではないかしら。それどころか、あなたたちが故郷に帰るのを手伝ってくれる人もいるかもしれない」

「もうその辺にしておけ、ルウラン」

 見上げると夫によく似た顔が、珍しく深刻そうに眉根を寄せている。

「この娘、本気にするぞ。ぬか喜びさせるのは、かえって残酷だ」

「わたしだって本気だけど」

「廊下にも庭にも見張りがいる」

「それぐらい、あなたなら何とかなるでしょう」

「そんな簡単に言うな……って、待てよ、おまえ俺に謀反の片棒を担がせる気か」

「謀反なんて。ただ、このお二人を、安全なところまでお送りしてくれれば」

「安全なところなんて、あるわけないだろう。往来に出れば、あちこちを見廻りがうろついてる。都を抜けるには、関所も通らなけりゃならない。しかも、こんな時分だ。怪しまれずに済むものか」

「でも、その気になれば、何とかなる。あなたが一緒なら」

「勘弁してくれよ」

「あと、薬箱さえあれば」

「薬箱?」

「あの人、今、怪我をしているの。ちょうど、ここにね」

 わたしは自分の左頬を指さして言った。その意味するところを、ヒダカはすぐに悟ったようだ。口を開けて何か言おうとし、それを飲みこむような間があった。

「おまえ……正気じゃないな」

「そうね。でも、正気のときより冴えてるわ」

「おまえの旦那はヒヤマ・ゼンだぞ。公子クドオの片腕と呼ばれる男だ、忘れたのか」

「あなたこそ忘れたの。その公子さまのせいで、自分がどんな目に遭ったか。どうしてあなたもあの人も、あんな男のために働けるの。わたしにはわからない」

 思わず声が高くなりそうなところを、喉の奥でぐっと抑える。と、不意に片目から一粒、涙がこぼれた。ヒダカは途端に言葉を失う。

「ヒヤマ家は古い家柄ではあるけれど、お義父とうさまはもともとそこまで格式にこだわるかたじゃないもの。もしもあの男の乳母子めのとごでさえなかったなら、なんて因習に服することはなかった。もしもあの男がわざわざ儀式を見に来たりしなければ、こっそり邸から逃がすなり何なり、いくらでもごまかす手立てはあったのよ。でもあの日、あの男は……」

 こんな話をするつもりではなかった。しかし涙と言葉は、わたしの意思とは無関係にあふれてくる。

 儀式の当日まで、夫の父は双子のうちのいずれを影に戻すか決めかねていた。そこで見届け人として同席した公子クドオに、判断をゆだねたのだった。

 公子自身、まだ子どもだった。双子とは兄弟同然の仲だった彼にとっても、辛い選択には違いない。どちらも影に戻すには忍びない、中止しよう。そう言ってくれるのを、義父も密かに期待していたのではなかったか。

 しかし公子は、その幼さに似合わず果断だった。さすが大国の跡取りにふさわしい器と、ヒヤマ家の人々は賛嘆したそうだが、そんなことはどうでもいい。ともかく彼の一存により兄のゼンが家系に残され、弟のほうは名を奪われて、生涯消えない傷を顔面に刻まれた。

 わたしの親元にヒヤマ家から婚約の申し入れがあったのは、その直後のことだ。

「そんなふうに思うなよ、ルウラン。今、おまえは旦那と幸せに暮らしてるんだろ。それでいいじゃないか」

 ヒダカが──通り名として苗字だけを与えられた男が、本当は最も公子を恨んでしかるべき男が、わたしを慰めようとしている。

 彼は優しすぎるのだ。少年だったあの日も、影に戻されるのが兄ではなく自分に決まったと聞いて、むしろ安心したように微笑んだという。おそらくは公子もその優しさを知っていたからこそ、彼を指名したのに違いない。それがなおさら、わたしには許しがたいのだ。

 しかし本当は、自分が公子を責められる立場ではないのもわかっている。わたし自身、ずっとヒダカの優しさを利用してきた。頼みごとも愚痴も新しい物語の構想も、何でも聞いてもらった。

 今また、わたしは図らずも涙に濡れてしまった目を見開き、彼をまっすぐに見つめている。

「ともかく姫君は、あの男の好きにはさせないわ。たとえ、この身の破滅を招いても」

「……」

 もはやヒダカは何も言い返せず、逃げるようにわたしから視線を逸らす。が、そこにはもう一人、潤んだ黒い瞳からすがるような眼差しを彼に向ける少女がいる。

「ああ、もう、まったく」

 ヒダカは後頭部を掻きむしり、それからちらりと窓辺を顧みた。

 マツバ姫はいつの間にか、硝子戸の前に立って外を眺めていた。夜霧が濃く立ちこめて、露台より先はほとんど何も見えない。

「おまえの主人公が何と言うか、訊いてみるんだな。そう簡単に説き伏せられる相手とは思えんが」

 ヒダカの投げやりな提案に、わたしとユウは顔を見合わせた。

 彼女を説得するのは、確かに難しいだろう。だが、ここであきらめるわけにはいかない。空鞘を抱きしめた少女に頷いてみせ、わたしは意を決して姫の後ろ姿に歩み寄った。

「姫君……どうか、お願いです」

 長衣の裾が静かに揺れて、彼女がゆっくりと振り返る。発せられた言葉は、まったく予想外のものだった。

「そなたさまの、その首飾りは」

「えっ?」

「珊瑚とかいう宝石と、お見受けするが」

 すぐには、何の話かわからなかった。しかしようやく、彼女の視線が自分の胸元に注がれているのに気づいて、

「ああ、これ……。おっしゃるとおり、祖母の形見の赤珊瑚ですけれど」

「祖母君の」

「ええ、もうだいぶ前に亡くなった、母方の」

「では、祖父君はご健在であられましょうか?」

「祖父ですか? いいえ、わたしは会ったこともありません。何でも母が小さいころに、行方知れずになったとかで」

「なるほど」

「あの、それが何か……?」

 わたしが恐る恐る問うと、彼女はおもむろに指先で襟元を探り、懐の中から紐のようなものを手繰り上げた。そうして出てきたものを手のひらの上に載せ、窓明かりの中に差し出してみせる。

 何という偶然か、彼女もまた赤珊瑚の首飾りを身につけていたらしい。しかもその珊瑚には、わたしのものと同じく、やや不自然な断面があった。

 自分の首飾りを外して、彼女のものと見比べてみた。二つの石は、大きさも色も似通っている。まさかとは思いつつ、摘み上げてお互いの断面を合わせてみると、両者は見事に符合した。

「どういうこと……」

 誰に訊くともなくそうつぶやくと、マツバ姫もまた独り言のように、

「どうやら、に呼ばれていたようだ」

 姫の持っていたほうの珊瑚は、わたしのものよりもずっと傷が多く、光沢も薄れている。結わえられた紐もみすぼらしく擦り切れて、今まで旅してきた長い時間と遠い道程を偲ばせた。

 いずれにせよ、二つのいびつな宝石がかつて一つの塊であったのは、誰の目にも疑いようがない。わたしが生まれるよりずっと前、祖母と祖父の別れの瞬間に、この珊瑚もまた切り分けられたのか。今となっては、その事情を知る由もない。

「でも、どうして姫君が、これを」

「さて……。それはともかく、そなたさまの願い出の向き」

 姫が急に話を戻した。はっと息を飲んで、わたしは二つの首飾りを両手に握りしめる。

「その石の持ち主であった翁と、かつてわたしは約束をした。いつかかれの孫に会う日が来たならば、何であれその願いを聞き届ける、と」

 ユウが、ごくりと喉を鳴らした。

 ヒダカが、密かに吐息を漏らした。 

「そなたさまのお言葉に、従いましょう」

 もう一人、灯火の届かない部屋の片隅で、小さな人影が静かに頷いた気がした。

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