6-4
わたしは暗闇の中にいた。
燭台の火が消えてしまったのだろうか。だとしても、窓明かりまで見えなくなるというのはおかしい。それに人気も感じられない。すぐ近くにいたはずの三人はどこへ行ってしまったのだろう。
目を凝らして辺りを見回す。形のあるものは何も見えない。ただ小さな赤い光が二つ横に並んで、宙に浮かんでいた。
鏡だ、と思った。文机の上の鏡が、自分の両目を映し出しているに違いない。わたしはその方向へ、恐る恐る足を踏み出す……が、すぐにまた動きを止めた。
わたしが動いても、赤い二つの眼は微動だにしなかった。顔を横に向けてみても、じっとこちらを見つめている。鏡ではない、とようやく気づいた途端に、その眼が静かに瞬きをした。
眼の持ち主は、ゆっくりと歩きだしたようだ。足を引きずるような雑音が聞こえる。気配はわたしのすぐ脇を通り過ぎて、後ろで立ち止まった。
扉の軋む音──と同時に眩い光が差しこんできて、振り返ったわたしの瞳孔を苛む。
必死に薄目を開けて見ると、明るい外界へぽっかりと開かれた戸口に、小さな人影が立っていた。薄汚いボロ布を頭からかぶった、不気味な老人だ。何度も夢の中で見かけているから、怖いとは思わない。むしろこれは夢なのだと自覚して、いくらか気が楽になった。
老人はわたしを一瞥してから、光の中へ出ていった。少し迷ったが、闇に取り残されるよりはましだろうと、後を追って戸口を通過する。
するとそこは、きらびやかな装飾の施された宮殿の一室だった。大きな窓から燦々と陽射しが差して、赤い絨毯に降り注いでいる。
壁には海獣の意匠が染め抜かれた国旗が掲げられ、他にも豪奢な額装の油絵がいくつも掛けられている。その一つの前に壮麗な身なりをした男が立って、こちらに背を向けていた。
「あのときの貴女の姿が、今も目に焼きついている」
男は絵を見ながら言う。描かれているのは、鮮やかな紅の衣をまとい、長い髪を束ねた女が、剣を抜いて立っている勇姿だ。
「記憶を頼りに絵師に描かせてみたが、なかなか納得のいく出来にならなくてね。これは妥協の産物だ。しかし、こうして貴女を都へお迎えできたからには、より忠実な肖像を描かせることもできよう」
振り返った男の前髪には、ひと筋、紺の差し色。
視線の先には女がいる。毛皮敷きの長椅子に浅く腰かけ、背筋を伸ばして。華やかな刺繍の入った薄紫の長衣をまとった彼女は、膝の上に置いた鞘へ手を添えてさえいなければ、誰の目にもしとやかな貴婦人にしか見えないだろう。
「私はこの日が来るのを待ち望んでいた……その意味を、おわかりいただけようか」
男は長椅子へ歩み寄り、女の隣に腰かける。そして女の顔を、間近にのぞきこんだ。
彼女はそれに答えず、相変わらず壁のほうを眺めている。見ているものは自分の絵姿ではなく、その隣に飾られた風景画だ。青空の下、独特の趣のある建物群が岸辺に端然と佇み、それとまったく同じ町並みが水面へ逆さまに映し出されている──見たことはなくても、誰でも言い当てられるだろう。かつて
「姫君」
やや焦れたように男は呼び、女の
「
「さようでしょうとも」
熱っぽい男のささやきに対し、応じる女の声はひどく冷淡だ。
「わたしの生殺与奪を握れば、もはや戦を続ける必要はない。北湖の都を焼き討ちした後のように、使者を出して降伏を勧告すれば事は足る。そう思われたからこそ貴殿は早々に侵攻を取り止め、わたしという戦果を手土産にこの都へ凱旋なされた」
真っ向から浴びせられた辛辣な物言いを、男は鷹揚な笑みで受け止める。彼女の肌から手を離すと、背もたれにゆったりと上体を預けて溜め息をついた。
「確かに、そういう打算が皆無だとは言わない。戦は金もかかるし、国力も疲弊させる。話し合いで解決するものなら、わざわざ無用の血を流すこともあるまい。貴女の扱いを、国益に照らして考えねばならないのは不本意だが……」
「お立場というものでございましょう」
女がまた冷徹な声で言う。
「立場。そう、国を治め守るべき立場にあれば、時には気の進まぬ決断もせねばならない。貴女にもきっと、経験がおありだろう」
「……」
「私は身内にすら合戦好きだと思われているようだが、それは誤解だ。あたら人の命を奪い、町や田畑を蹂躙するような手荒事、好んでするはずがない。しかし残念ながら今、この国の民には、敵が必要なのだ。ご覧になったであろう、あの大路を埋め尽くした群衆の、あまりにも不揃いな出で立ちを?」
女は反応をせず、ただ先を促すように男の顔を見守っている。
凱旋行列に集まった見物人たちの様子を、わたしは思い出す。
かつて海岸の一角から領土を広げていく過程で、多様な民族を取りこんでいったこの国の、当然の帰結。わたしもまた、祖先をたどれば夫や公子とは異なる出自に行き着くのだろう。
「さまざまな違いを持つ人々を一つの旗の下に束ねようとすれば、その違いから目を逸らすように仕向けなければならない。連帯を生むためには、共通の外敵を作り出すことが何より有効なのだ。言わば戦は方便に過ぎず、目的はあくまで国の統治にある」
「方便?」
「無論、現実に戦場で血を流す兵士らに、聞かせられる言葉ではない。彼らは純粋に、憎き敵を討つことこそ正義と信じて死んでいく。貴いが、虚しき犠牲だ。だからこそ合戦では、その犠牲を最小限に留めることを第一に考えねばならない。オニビラのように、功を挙げることしか頭にない武辺者たちは、到底理解してはくれないが」
そこで男は、何かしら期待をこめた眼差しで女を見る。
女はしばらく黙っていたが、やがてまた静かに口を開く。
「国の内を平和に保つ方便としての戦なれば、そのために国を疲弊させるは本末転倒。ゆえに戦は深入りすべからず、長引かすべからず。早々に切り上げてまた新しい敵を作り出し、人民の目を常に外へ引きつけておくが肝要。貴殿のなさりようは、なるほど理に適うておられる」
「……そう端的にまとめられてしまうと、私はよほど薄情な男のようだ」
「情に流されては、大国の舵は取れますまい」
「そこをご理解くださるのはありがたい。しかし、ただ計算高いばかりの男だと思われるのも心外だ」
そう言うと男はおもむろに横へ手を伸ばし、膝の上の空鞘に添えられた女の手の甲へ重ねた。
「こう見えて、私は時に己の立場を忘れ、理屈では抑えられぬ情に衝き動かされることがある。たとえば三年前、身分を偽って貴女に逢いに出向いたこと。そしてこたびの戦、あの猛り狂う激流の中へ、貴女を救うべく我が身を投じたこと──」
「……」
「よもやあの命がけの行いまでも、打算の産物だと?」
男のもう一方の手が、今度は彼女の肩へ。
──その人に触らないで!
思わず叫びたくなったが、夢の中にわたしの肉体は存在せず、声を発する口も喉もない。目を覆いたくてもまぶたがない。
「なぜ私が、そんな危険を冒したのか。聡明な貴女に、おわかりにならないはずはない」
ほのかに赤みの差した女の耳朶へ、男の指先が触れる。そこには、かつて耳環を通していた痕がまだ塞がらずに残っている。
「山の国では、耳飾りは人妻の証と見なされていると聞く。貴女はわざわざそれを外して、我が前に現れた……。我々の想いは通じている。そう思うのは、恋に血迷った男の妄想だろうか?」
甘い声が徐々に小さくなっていき、それと同時に男は女との距離をゆっくりと詰めていく。
──いけない。
端正な顔立ちと恵まれた体躯、温和な表情、気品のある態度。そして淀みない美辞麗句。婦人たちはこぞってこの貴公子をもてはやし、側室の座を狙う娘も数知れないという。
しかし、わたしは認めない。彼はこれまでに、わたしの愛するものをいくつも破壊してきた。死ぬまでに一度でよいから訪れたいと願っていた、憧れの都市も。青髪になどしなくても、団結やら連帯やらを声高に叫ばなくても、皆がバラバラのまま、何とかそれなりに暮らせていた懐かしい故郷も。
──姫君、せめて貴女だけは。
わたしが心に念じた瞬間、膝の上に置かれた彼女の指先が、不意に白んだ。傷ついた空鞘を強く握りしめ、静かに持ち上げる。自然、迫ってくる男の体を押し返す格好になった。
「もしも、戦が方便であるとするなら……」
微かに震えを帯びた、しかし抑揚のない低い声が告げる。
「貴殿のその言葉もまた、
男は天井を仰いで苦笑し、やはり手強いな、とつぶやいた。その表情は余裕たっぷりで、むしろますます興が乗ってきたとでも言わんばかりだ。
が、そのとき、廊下がにわかに騒がしくなり、二人の間に漂う濃密な気配は瞬時にして損なわれた。男はわずかに眉をひそめて、扉のほうへ目を向ける。
次第に近づいてくる押し問答の声には、聞き覚えがある。片方は、わたしの夫の声。そしてもう一つの、鼻にかかったような幼い声は、何度か晩餐会で同席したことのある王太子妃──つまり、部屋の内側にいる不埒な男の妻のものだった。
「なぜいけないのです。わたくしはお留守の間ずっと、お帰りを待ちわびていたのです。どうしても心細くて……」
妃は半ば泣き声で訴えている。夏に妊娠が発覚して以降、体調も心もやや不安定になっていると聞いているが、世慣れない十代の娘には無理もないことだ。
そんないたいけな娘、しかも主君の妃が相手でも、鬼将軍には遠慮も容赦もない。
「我が君はご休息中にあられます。今はご遠慮申し上げるべきでございましょう。さあ、とくお戻りなされよ、みだりに出歩かれてはお体に障ります」
有無を言わせぬ冷ややかな口調に、扉の向こうは静まり返る。ほどなくして妃は、自身の部屋へ引き戻されていった。
長椅子の上の二人に、気まずい空気が流れる。身重の妻の声を聞いて、さすがの男も興を削がれたのだろう。女の顔を見ることなく、立ち上がって窓辺のほうへ歩いた。
おかげで、わたしは少しほっとした。途端に、視界がまた大きく揺れる。夢の終わりが近づいているのだ。壁と絵画、長椅子と絨毯、室内にあるものすべての境界が、急速に曖昧になっていく。
「今はまだお互いに、完全に立場を忘れ去るのは難しいようだ」
窓から差しこむ光に溶け入りながら、男がまだそんなことを言っている。
「この城で存分にもてなしをしたかったのだが、当面は別の場所にお泊まりいただくことにしよう。ヒヤマ将軍の邸宅なら閑静で警備も行き届いているから、貴女も落ち着いてお過ごしになれることと思う。未練は残るが、今日のところはお別れだ。そう日を置かず、またお目にかかろう」
女がどんな顔でその言葉を聞いたのか、わたしにはわからない。
ただ覚醒の間際、彼女がごく密やかにつぶやいた独り言を、確かに聞いた気がした。
──戦は、まだ終わっておらぬ。
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