6-2
書斎の扉を閉めて、わたしは大きく深呼吸をした。
床が微かに揺れているように思えるのは地震かめまいか、それとも高鳴る心臓の鼓動のせいか。
室内はすでに暗くなりかけていたが、明かりはあえて灯さなかった。薄闇に身を沈めて、神経の昂ぶりが治まるのを待つ。
露台へ続く硝子戸から冷ややかな風が吹きこんで、机の上にあった紙が何枚か、床の上に落ちる。先ほどは慌てて部屋を出たので、扉の締まりが甘かったようだ。
ようやく少し落ち着いてきたわたしは、そろそろと窓辺へ歩み寄った。いつしか夕霧が出ていて、木々の梢の先に見える景色がにじんでいる。こんなときは露台へ出て、移ろう暮色を飽きもせずに眺めるのが通例だが、今日はとてもそんな気分ではない。
硝子戸を閉じて鍵をかけ、燭台に火をつけた。それから床の上に散らばった白紙を丁寧に拾って、蓋つきの箱の中へしまう。
たまたま、机の上の置き鏡に映る自分の像が目に入った。途端に手は止まり、また心は別のところへ飛んでしまう。
──ああ、何という違いだろう!
客間で相対したあの人の立ち姿を思い出して、溜め息をつく。化け物のように大柄だとか、野蛮な醜女だとか、さんざんな噂ばかり耳にしてきたけれども、とんでもない。あれこそわたしの理想とする容姿だった。並の男に引けを取らぬ長身も、しなやかに引きしまった四肢も、まっすぐ艶やかな黒髪も、くっきりとした目鼻立ちも。
それに、あの声。言葉少なではあったけれども、わたしの挨拶に応えてくれたときの彼女の声は、淡々として低く澄んでいた。人質としてただ一人、敵地へ連れてこられながら、少しの媚びも怯えもない。むしろわたしの声のほうが無駄に甲高く上擦って、情けなくなるほどだった。
──おかしな気を起こさないように、気をつけてよく見ていてくれ。
夫は城へ戻る前に、そうわたしに頼んでいった。
──一応、見張りは置いていくが、男どもに四六時中、部屋をのぞかせるわけにはいかないからな。
──おかしな気、と言うと……。
──自害でもされたら困る。我が君の大切な客人だからな。
それを聞いてひどく不安になったけれども、わたしの見るかぎり、彼女はあくまで冷静に現在の状況を受け入れている様子だった。死を選ぶほど、思いつめているようには見えない。
そもそも彼女が
そう、つまり、彼女は死なない。そして公子も、人質である彼女を殺しはしない。だとすれば、何も焦る必要はないのだ。この邸でゆっくりおもてなしをして、少しずつ話を聞いていけばいい。時間はたくさんあるのだから。
まずは、食事だ。今ごろ台所では、女中たちが大急ぎでごちそうを用意してくれているはず。出来上がったら、歓迎の気持ちをこめて、ささやかな晩餐会を開こう。ただし今日のところは、あまりあれこれと尋ねないように気をつけて……。
鏡に向かって、心の中で言い聞かせる。と、突然、自分の鏡像の後ろに、黒い人影が音もなく立ち現れた。
思わず悲鳴をあげそうになる。しかしその前に人影は手を伸ばし、開きかけたわたしの口を素早く塞いだ。
「落ち着け、ルウラン。俺だよ」
耳元でささやく声を聞いて、力が抜けた。覆われた口から安堵の息が漏れて、男の手のひらの中に満ちる。それが合図であるかのように、彼はわたしを解放した。
「ヒダカ……いきなり何なの」
「驚かせて悪かった」
「本当よ」
と答えたものの、実はそれほど腹を立てているわけでもない。いつもの自分なら、もっと早くに彼の気配を察していただろう。真後ろに立たれるまで気づかないほどに心が浮ついていたわたしにも、落ち度はある。
もっとも、気づいていたとしても、やはり多少は戸惑ったかもしれない。普段は露台で立ち話をするだけの彼が、今日に限って断りもなく部屋へ入ってきたことに、である。しかしそのことについては、特に非難するつもりもなかった。
「いつ、帰ってきたの。城には?」
「いつって、たった今、戻ってきたところさ。城へは、これから行ってこようと思ってる」
「あなたからの便りがないって、心配してたわよ」
「誰が?」
「決まってるでしょ」
「泣く子も黙る鬼将軍が、今さら俺を心配なんてするかねぇ。もう帰ってるのか?」
「一度帰ってきて、またすぐに城へ戻ったけど」
「そいつはよかった」
「どういうこと」
また少し痩せたように見えるヒダカを見上げて、わたしは問う。燭台は左手にあり、向かい合う男の右顔を照らしている。左頬の傷跡は、薄闇に溶けて見えない。
「実は、俺だけじゃないんだ」
「え?」
ヒダカが顎をしゃくって、書斎の奥を指し示す。乱雑に書物の積み重なった暗がりに、もう一人、小さな人影が佇んでいた。
明かりを差し向けてみると、まだあどけなさを残した子どもの顔が浮かび上がった。今年で十歳になる長男よりも身長は小さいが、歳は少し上かもしれない。粗末な筒袖の
……どこかで、見たことのあるような。
「この子は?」
「ユウって言うんだ。苗字のない、ただのユウだとさ。なあ、そうだろ?」
ユウという少女は、答えなかった。耳をピンと立てた仔猫のような眼差しで、黙ってわたしを見上げている。
「悪いが、ちょっとここで、こいつを預かっててくれないか」
「預かるって……」
よく似たことを、よく似た顔に依頼されたばかりだ。わたしの表情が曇ったのを察してか、ヒダカは返事を先取りする。
「難しいか。俺が城に行って、戻ってくるまでの間だけでいいんだが」
「人目に触れないように、匿ってほしいということでしょ? それも、事情は一切訊かずに」
「まあ、そんなところだ」
「今日でなければ、何とかできたかもしれないけれど。ついさっき、あの人から言われて、大切なお客さまをお預かりすることになったの。それで廊下にも庭にも見張りがいるし」
「ああ、そういうことか」
「わたしも、そのかたのおもてなしをするのに手いっぱいだから……申し訳ないけれど」
少女の前に屈みこんで、その黒い瞳を間近にのぞきこむ。すると相手は怖じ気づいたかのように目を逸らし、助けを求めるように傍らのヒダカを仰ぎ見た。人見知りをしているようだ。
やはり、いつかどこかで会ったような気がするが、思い出せない。と、ヒダカがわたしの疑念を察したかのように、
「似てるだろ」
「え?」
「小さいころのおまえに、そっくりだ」
そう言われて、再度、少女の顔を観察する。小さな丸い目鼻を、薄い唇を、ややとがった耳を。しかし不思議なことに、先ほどまでは普通に見えていたはずの顔が、うまく像を結ばない。
代わりに浮かんできたのは、わたしの鏡像──それも二十年近くも前の顔だ。ややとがった耳、薄い唇、小さく丸い目鼻。ただしその瞳は茶色がかっていて、光の加減によっては、赤っぽくも見える。
そのせいで、幼いころはよくいじめられた。近所の子どもたちは皆、わたしを妖怪だと騒ぎたてたし、大人たちも陰で不気味がっていたのを知っている。
そんなわたしを唯一、庇ってくれたのが、ヒヤマ家の双子の兄弟だった。家同士に親交があり、年齢が一つ違いだったこともあって、彼らはわたしを妹のように可愛がってくれた。「おまえを泣かせる奴がいたら、俺がやっつけてやる」と一人が言い、「誰が何と言っても、おまえの眼はきれいだよ」と一人が言った。
もちろんわたしも、彼らを心から慕っていた。そのころの二人は顔も体つきもまったく瓜二つで、周りの者は誰も見分けることができなかったけれども、わたしだけは兄弟のほんのわずかな違いを見抜くことができた。
──そう、あのころの二人には、ほんのわずかな違いしかなかった。
わたしは頭を振って、過去の幻影を脳裏から追い払った。目の前では素性の知れない少女が、黒々とした瞳を訝しげに瞬かせている。
「わかったわ」
気づけば、そんな言葉が口から滑り出ていた。
「この部屋から出ないで、おとなしく待っていられるなら、ヒダカが戻ってくるまで休んでくれてかまわない。後で、何か食べ物を用意しましょう。ただし、さっきも言ったとおり、あまり長い時間は無理よ。いい?」
ユウはやはり黙ったまま、こくりと頷いた。が、ヒダカからの返事がない。顔を上げて見ると、彼は壁にもたれかかって腕を組み、何やら考えこんでいる。
「ヒダカ?」
「悪い、ルウラン。さっきの頼みは、忘れてくれ」
「忘れてくれって……」
「その代わり、別の頼みができた」
わたしもユウも、急な展開にまるでついていけない。しかしヒダカは、さっさと話を先へ進める。
「おまえの旦那の預けていった客人に、こいつを引き合わせてやってくれないか」
「ちょっと、何を言い出すのよ」
「ウリュウ・マツバはここにいるんだろう。この娘は、彼女に会うために、山の国からついてきたんだ」
息を飲んだ。と同時に、少女もまた目を皿のように見開く。姫君の名前を耳にした瞬間に、小さな体に緊張が走ったようだった。
「……山の国から? 連れてきたの? どうして」
「こいつが、どうしても連れていけと言うもんでさ」
「だからって……」
「いや、どうせ途中で音を上げると思ってたんだ。ところが、たいそうな悪路を、歯を食いしばってついてくるんだよ。まあ、さすがは、深山の姫君の愛弟子ってとこかな」
姫の愛弟子、という言葉に、少女が顔を赤らめる。照れると膨れっ面をする癖があるのか、ちょっと口をとがらせる様子も、どこか他人とは思えない。
「こいつは密偵でも何でもない。もともと、向こうでも姫の小間使いをしていたんだとさ。だったらここで、彼女の身の回りの世話でもさせてやればいい」
「そんなこと、あの人が許すと思う?」
「どうかな。まあ、何とかなるんじゃないか。おまえが取りなしてやれば」
「わたしが?」
「無理にとは言わないけどさ」
ヒダカが顔の向きを変え、左頬の古傷が赤い明かりにさらされる。
かつてわたしの眼をきれいだと言った少年は、今はもう存在しないことになっている。ここにいる彼は、ただの名もなき影でしかない。
そんな彼の連れてきた少女もまた、もしかしたら、幼き日のわたしの影に過ぎないのではないか。
たとえそうだとしても、いや、そうであればなおさら。わたしには、その願いを聞き届ける責任があるような気がした。
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