第6章 邂逅

6-1

 猛り狂う水の化け物が、怒号をあげて間近に迫る。

 馬に乗った男は、すぐに岸辺から退避すべきだった。なぜなら彼は大軍を率いる総帥であり、大国を治める王家の惣領だからだ。しかし彼は、家臣たちの諫める声に耳を貸さない。それどころか鞍から川原へ飛び降りて、そのまま水の中へと大股に踏みこんでいった。

 彼の視線の先には、流れのただ中に独り立ち尽くす、軍装の女がいる。手に空鞘を握り、微動だにしない姿は、まるで何かに祈っているようでもあった。

 男は彼女に向かってしきりに何事か叫んでいるが、その声は激しい水音にかき消されて聞き取れない。

 水の流れに足を取られながら、ようやくにして男は女の前まで到達する。そしてほとんど飛びつくような勢いで腕を伸ばし、彼女の肩を抱く──。

 次の刹那、怒濤は容赦なく二人を呑みこんだ。

「ああっ……!」

 思わず悲鳴をあげて、顔を上げる。すると目の前に人の顔があって、再び仰天した。

 しかしよく見れば、それは自分の顔だ。肩の上で切りそろえた癖のある髪、狭い額に薄い眉、小作りな目鼻立ち。冴えない三十路女の寝起きの顔が、鏡に映し出されていた。

 わたしは文机に突っ伏したまま、うたた寝をしていたようだ。何かを書こうとして机上に敷いた白紙に、皺が寄ってしまっている。傍らに置いた硯のおかも乾いて、窓の外を見ると、降り注ぐ陽射しはすでに西に傾いていた。

 胸元に揺れる赤珊瑚の首飾りへ、無意識に手を伸ばす。椅子から立ち上がり、硝子扉を開いて露台へ出た。

 風が舞って髪が乱れたが、それよりも心の乱れのほうが気にかかる。大抵のことなら書き物をしていれば紛らわせられるのに、今日ばかりは、一文字とて筆が進まない。果ては、妙に胸騒ぎのする夢まで見てしまった。

 原因はわかっている。昼ごろに、都城へと続く目抜き通りで行われた凱旋行列。山峡国やまかいのくにとの合戦から帰ってきた遠征隊を、都中の人々が歓声をあげて出迎えた、その群衆の中にもぐりこんだのがよくなかったのだ。

 元来、人混みは得意ではない。殊に、皆が興奮して騒ぎたてているような場では、吐き気を催すことすらある。それなのにわざわざ出かけていったのは、居ても立ってもいられなかったからだ。あの人が──名高き深山の姫君がこの都へ連れてこられると知って、せめて一目だけでも姿を見ておきたかった。

 残念ながら、望みは叶わなかった。どんなに背伸びをしても、小柄なわたしの視界に入ったものは前に立つ人々の背中ばかり、あとはせいぜい軍旗の動いていく様子ぐらいだった。

──公子さまの後ろの車に乗ってるのが、噂の山女らしいぞ。

──何だ、案外、普通じゃないか。

──大女だって聞いてるが、ここからじゃよくわからんな。

──勝ち気そうな娘だ。鍋底の雌猿のくせに。

 ウリュウ・マツバは賓客としてもてなされるという触れこみだったが、実際はそうではなかった。彼女は、戦利品として衆目にさらされていた。野次馬たちの品のない声ばかりが耳に障り、わたしは居たたまれずにその場から退散するしかなかった。

 それにしても、異様な光景だった。見物人のほとんどすべての男が青髪あおがみで、女たちまでもがこぞって青い髪飾りや頭巾を身につけていた。

 成人した男が前髪やこめかみに差し色を入れるのは、美浜みはまがかつて浜辺の一地方を指す呼び名に過ぎなかったころに発祥した習俗だと言われている。もっともわたしが子どものころにはそんな古い伝統はほとんど廃れていて、身近で青髪にしている人などほとんど見かけなかったし、いたとしてもかなり年配の男に限られた。

 公子クドオが、弱冠二十歳にして父王から政権を譲られてからだ。あの時期を境に民衆の、特に青年たちの間で、青髪の示す意味は変わった。単なる故習ではなく、身だしなみでもない。それは若き主君への信望を表明する手段であり、団結の証にもなった。

 広い領土に多様な民族が住むこの国は、昔から常に分裂の危機を抱えてきた。一つの王家を戴いてはいても、民の間に同胞だという意識は希薄で、民族間に対立や内紛が絶えなかった。その状況をわずか十年ほどで一変させた公子クドオは、間違いなく稀代の英雄として歴史書に名を残すだろう。夫は何かにつけて、誇らしげに誉め称える。

 それはそうかもしれない、とわたしは思う。だが、その歴史書は、彼の英雄的行為のすべてを余すところなく伝えてくれるだろうか。たとえば、北湖きたうみの征伐をあれほどの短期間で成し遂げた、その裏側で、かの地の民が長い時をかけて築き上げた麗しの都に何をしたか。命を懸けて祖国を護ろうとした誇り高き隣国の姫君に、これからどのような運命を担わせようとしているのかを……。

 と、わたしの思考を遮るかのように、露台の下の庭園へ女中が駆け出てきた。こちらを見上げて忙しげに、「旦那さまがお帰りになりました」と告げる。

 わたしは慌てて屋内へ戻り、出迎えの支度をした。まだ当分は城にいるものとばかり思っていたので、何も準備をしていない。とりあえず身なりを整え、三人の子どもたちを部屋から呼んで、玄関へ向かった。

 夫はすでに邸内にいて、供の者と何事か話をしている。まだ具足を着けたままの後ろ姿は、出かけたときと寸分変わらず、鋭気に満ちた武者ぶりだった。

 父上お帰りなさいませ、と子どもたちが声をそろえて、うれしそうに言う。その声に振り返った夫の顔を見て、わたしは思わず凍りついた。

「ただいま。三人とも、いい子にしていたか?」

 彼は優しく微笑んだ。が、子どもたちは戸惑って、返事をせずに父親を注視する。左頬、それも耳の前から唇の脇あたりまでを覆う白い当て布。どう見ても、傷を手当てした跡だ。

 しかし、美浜軍の誇る名将ヒヤマ・ゼンが、よりにもよって顔に負傷することなどあり得るだろうか。

「ちちうえ、おかお……?」

 一番下の娘が、たどたどしい言葉で問いかける。大丈夫、かすり傷だから、と夫は穏やかな声で答えて、子どもたちの頭を順番に撫でた。

「ルウラン、少し話せるか」

 ひととおりの挨拶が済むと、夫は子どもたちを部屋に下がらせ、わたしを廊下の奥へ誘った。

「長い行軍でお疲れでしょう。お話は、具足を解いて少し休んでからにしては?」

「そうしたいところだが、まだ城に務めが残っているんだ。すぐに戻らなければならない」

「そうなの。道理で、お帰りにしては随分早いと思ったわ。それで、ご用というのは」

 何事もないように応じながら、どうしても視線が彼の左頬に向いてしまう。

「最近、ヒダカは顔を見せたか?」

「ヒダカ? いいえ、幾月も前に会ったきりだけれど。帰ってきているの?」

「わからん。帰れという指示は出したが、それきり便りがない。まあ、あいつに限って、めったなことはないと思うが」

「そうね……」

 山峡国へ旅立つ前に立ち寄った男の、月明かりに照らされた横顔を思い出す。もし万が一、敵地で彼の身に何かあったとしても、その知らせが本国に届くことはないだろう。彼が死ぬということはない、ただ消えるだけだ。なぜなら彼はヒヤマ・ゼンの影だから。

 無意識のうちに、わたしは足元に目を落とす。と、そこでようやく、夫が見慣れぬ剣を腰に帯びているのに気づいた。真紅の鞘に、精巧な細工の施された鍔。素人目にもわかる逸品だ。

 このような洗練された意匠を、夫が自ら注文して造らせたとは思えない。今、身につけている壮麗な具足にしても、とにかく見栄えのするものを選んでくれと頼まれて、わたしが見繕ったのだ。

 少しでも公子に危険が及ぶ恐れがあるとき、夫はわざと主君よりも目を引く装いをして、不測の事態に備えようとする。だが彼自身は昔から、人間であれ物品であれ、外面的な美醜にはまったく無頓着な男なのだ。特に自慢できるような容姿でもなく、と言って着飾ったり美容に励んだりするのも嫌いなわたしは、おかげで大いに助かっている。

 それはともかく、その紅の名剣は、単独で見る分には素晴らしく美しい品だ。ただ残念ながら、夫の着ている具足との取り合わせが今ひとつで、やや浮いて見えるのも事実だった。

「ああ、これか。我が君から褒美に賜ったものだ」

 夫がわたしの視線に気づいて、鞘に手を添えた。その口ぶりから誇らしげな気持ちが伝わってきて、さすがのわたしも、あまり似合っていないとは言えない。

「大きな武勲を挙げたのね」

「我が命あるのはヒヤマ・ゼンのおかげと、群臣の前で手ずからお渡しくださった。これほどの名誉はない」

「確かに、あんな濁流に流されたら、命を落としても不思議はないものね……」

 相づちを打ったわたしに、夫は表情を変える。

「ルウラン。それを誰から聞いた?」

「え?」

「公子が濁流に流されたと。そんな噂が流れているのか?」

「あら……ごめんなさい、確かめもしないで不用意なことを。では、そんな出来事はなかったのね?」

「いや。事実は事実だ。しかし戦場で起こったことは、今から我々が慎重に吟味した上で、公に周知される。その前に流言が広まるのはまずい。いつ、どこでその話を聞いたか、覚えているか」

 と尋ねられて思い起こしてみようとするが、よく考えると、誰からも聞いた記憶などなかった。昼間に人混みへ紛れこんだときかとも思ったが、あのときに耳にしたのは捕虜になった隣国の姫君への揶揄ばかりだった。

「もしかしたら、また夢かしら……」

「夢?」

「夢で見たことを、うつつの出来事と勘違いしたのかもしれない。どこで聞いたか、まるで覚えがないの」

 子どものころからよくあることなので、わたしは慣れている。幼なじみの夫も、今さら驚きはしない。実際に戦場で起こった事件と偶然にも一致していた点だけは腑に落ちないようだったが、しかしそれ以上の追及はしなかった。

 彼は部下や同僚たちから鬼のように恐れられているらしいが、家族にはどこまでも優しかった。もしも何か思い出したら教えてくれ、とだけ言って、話題を転じた。

「それはそうと、頼みがある」

「ええ、何かしら?」

「あの部屋の中に」

 言いながら、夫は普段あまり使っていない客間の一つを指し示す。いつの間に配置したのか、戸口を塞ぐように、兵士が佇立している。

「大切な客人を、お預かりすることになった」

「客人……。でもそれなら、二階の眺めのよいお部屋にお通ししたら」

「いや、なるべく目の届くところがいいんだ」

「どういうこと」

 心臓が、どくりと脈打った。

 夫は戸口に歩み寄る。兵士は敬礼して脇へ退いた。扉には透かしが施されており、色つきの硝子がはめられていて、室内の様子を見ることができる。促されるままに、わたしは扉に顔を近づけて中をのぞいた。

 色硝子に隔てられて、その姿は鮮明ではない。

 人影は戸口から離れたところに座っていて、背格好も顔立ちも、判然としなかった。

 ましてわたしは今までに、その人を一度も見たことがない。

 それでもなぜか、一目で確信できた。

──ウリュウ・マツバ……その名も高き深山の姫君。

 夫が小声で何やら説明しているが、わたしの心は打ち震えて、とても返事をするどころではなかった。

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