5-6

 熊笹の茂みを掻き分ける雑音より、なぜか自分の呼吸の音のほうが大きく聞こえる。虫か枝か、しきりに顔にぶつかってくるものを払いのけながら、ようやく目的の場所へたどり着いた。

 川面は濁っていて、流れが速い。また山の上で雨が降ったのだろうか。柳の下の岩場が湿っているようで少し迷ったが、意を決してよじ登り、頭上を見渡した。

 人の気配は感じられない。

 ユウの手には、例によって木笛が握られている。息を整えて吹き口に唇をあてがうと、練習し続けてきた童謡の旋律を奏で始めた。

 戦場から遠く離れた西陵せいりょうは今、美浜国みはまのくにとの戦に勝利したという話で持ちきりだ。領内に侵入した敵の先鋒隊は水攻めで壊滅、四関しのせきも無事に戻り、さらには後続の本隊までも撤退したらしい──という噂は、瞬く間に国の隅々まで広まった。

 さすが御嶺ごりょうの君が直々に陣頭に立っただけのことはあると、まだ公の知らせもないのに大人たちは浮かれている。しかしユウには、どうにも納得がいかなかった。

 もし戦に勝ったとするなら、城代のムカワ・フモンが前にもまして険しい表情をしているのはなぜなのか。いや、ムカワについては、元来そういう顔つきなのだと思えなくもない。では、イセホはどうか。彼女の顔色は、間違いなく何かよくない状況が起こっていることを予感させた。

 発端は、はっきりしている。数日前のこと、マツバ姫やテシカガと一緒に豆駒まめごまに乗って出立した若者たちのうちの一人が、単身、百姓姿に身をやつして帰ってきた。事情は一切語らなかったが、姫かアモイから何かしらの密命を与えられたに違いなく、ムカワも他の大人たちも深く追及はしなかった。

 しかし、その日を境にイセホの様子が一変したことに、どれだけの人が気づいているだろう。部屋の真ん中に正座して、じっと動かずにいたり、ともすれば小刻みに震えていたりもする。手の中に何か握りしめて、一心に祈っているように見えるときもあった。笛の手ほどきをしてほしいなどとは、とても言い出せなかった。

 だからユウは独りで、つばくろのうたばかりを練習していた。今はもう、ほとんど吹き損じることはない。

 岩の上に立って、水のせせらぎと葉擦れの音に包まれながら、間違えずに最後まで吹き終えた。木笛から唇を離すと、頭上に枝を伸ばした柳の梢を見上げ、

「ヒダカ」

 呼んでみたが、応答はない。

「ヒダカ」

 湿っぽい風が川面を撫で、草葉を揺らす。その中に、何とか人の気配を探り出そうと、ユウは耳を澄ませた。

 もう、西陵にはいないのだろうか。そう思いかけたとき、

「あんまり大声で人の苗字を呼ぶなよ」

 後頭部に声が降ってきた。男はいつの間にか、ユウの真後ろに立っていたのだった。

「随分と久しぶりじゃないか。何かやらかして、奉公先のお屋敷に閉じこめられてたか?」

 冗談だとはわかっていたが、ユウは笑えなかった。戦はまだ正式には終わっておらず、城の戒厳令は解かれていない。今日は、大人の目を盗んで、こっそり抜け出してきたのだ。いつかイセホから聞いた、昔マツバ姫がよく使っていたという抜け道を使って。

 しかしユウはそのことには触れずに、「まだ、この辺にいたんだね」と言った。

「もう、どっかへ行っちゃったかと思った」

「どうして」

「何となく」

「ふうん」

 要領を得ない表情で、ヒダカは小首を傾げてみせた。その日焼けした顔を、ユウはまじまじと見守る。黒い短髪、やや広めの額になだらかな曲線を描く眉、温和な笑みを含んだ口元。そして左頬にはやはり、古い大きな傷跡。

「いや、実際、旅にでも出ようかと思ってたところなんだ。だから、まあ、今日ここで会えてよかったよ」

「旅?」

「戦もぼちぼち終わりそうだしな。もう、出歩いても安全だろうさ」

「東のほうへ帰るの?」

「さあ、行き先はまだ決めてない」

「……」

「何だよ」

「戦は、本当に終わるのかな」

「そういう噂じゃないか」

「どっちの勝ちで?」

 ユウは挑むように問いを重ねる。そしてヒダカの反応を確かめようとするが、彼は自然に、ごく自然に、戸惑ったような微笑みを返すばかりだ。

「ヒダカ。もう会えなくなるんなら、最後にちゃんと教えてほしい」

「そりゃあ、かまわないけどさ。さっきのを聴いた感じだと、もうあんまり教えることもなさそうじゃないか」

「笛のことじゃない」

「じゃあ、何を?」

「あんたの知ってることを。四関の向こうで、何があったのか。どうしてマツバさまは帰ってこないのか……」

 その名前を出した途端に、鼻の奥がツンと痛む。泣いてはいけない、と拳を握りしめて、目の前の男をにらみつけた。

「あんたは知ってるんでしょ」

「おいおい、いきなり何を言い出すんだよ」

 その音の響きを確かめるように、ユウは彼を呼ぶ。

「あんたによく似た人を、見たことがある」

「へえ……」

 ヒダカは相づちともつかない返事をする。しかし、今度は見逃さない。ほんの一瞬、よぎった表情に、何か核心めいたものに触れたような感触があった。

「本当に、他人のそら似とは思えないくらい、そっくりだったよ。でもその人は、あんたと違って、こめかみのところの髪が青かった。海の国の王子さまと一緒に、都に来て、三年前に。あたし、話を立ち聞きしちゃって、それで手討ちにされそうになって、すごく怖かった。あの人……名前も聞いたよ……確か、ヒヤマ・ゼンって呼ばれてたよ」

 男はもはや笑ってはいなかった。体裁を繕うのはやめたようだ。と言って、動じている様子もない。感情のない人形のような顔で、小さな追及者を黙って見下ろしている。

 背筋がヒヤリとする。殺されるかもしれない、とユウは思った。しかし、それならそれで、しかたのないことだ。

 ひるむことなく相手を見返していると、意外にもヒダカのほうが先に目を逸らした。その横顔を、川面の反射光がまだらに照らす。

「ヒヤマ・ゼンに」

 男はぼそりとつぶやいた。

「そんなに似てるか」

 覇気のない口調だった。ユウはいささか拍子抜けしながら、

「うん……似てると思うよ。もちろん、違うところもあるけど」

「どこが?」

「どこって……」

「こいつか」

 男は右手を持ち上げて、左頬の古傷をなぞってみせる。何と答えてよいかわからずに、ユウは黙っていた。

 少しの間、沈黙があった。どこかで虫がやかましく鳴きたてるのが、妙に耳についた。

 やがて川を眺めやったまま、ヒダカが再び口を開く。

「おまえの主人は、美浜軍に生け捕られて、都に護送されることになった」

 体を刺し貫かれるような衝撃を、ユウは覚えた。反射的に「嘘だ」と言ったが、実際は唇がその形に動いただけで、声は出ない。

磐割原いわりのはらで、大胆にも公子クドオに奇襲をかけたらしい。しまいには公子を道連れに、山津波に身を投じた。幸い、二人とも生きたまま引き上げられたようだが……。結果的に、彼女を人質にできたのは、美浜にとっちゃどの城を奪うよりも大きな収穫だ。だから進軍を中断して、都へ帰った」

 そこまで言うと、男は少し身を屈め、ためらいがちにユウの顔をのぞきこんだ。

「おまえの主人は、捕虜であると同時に国賓だ。公子は決して彼女に危害を加えない。それは、保証してもいい」

 慰めのつもりだろうか。ユウには返す言葉がない。マツバ姫が、敵の手に落ちた。そんな事実を信じられるはずもなく──しかしおそらく事実なのだろうという絶望もまた心のどこかにはあり──焼けつくような感情が喉の奥からせり上がってきて、今にも嘔吐してしまいそうだ。

 握りしめていた手から力が抜けて、木笛が岩の上に落ちた。間の抜けた音を立てながら足下に転がったそれを、ヒダカが拾おうとして手を伸ばす。

 その瞬間、ユウの手元に鋭い光が閃いた。

 柄に藤蔓を巻きしめた短剣。いつも腰に帯びている革製の笛袋に、今日はマツバ姫から下賜されたそれを忍ばせていた。抜き放った切っ先を、ヒダカの喉元に突きつける。相手はぴたりと動きを止め、上目遣いに少女の顔を見た。

「敵の密偵だったなんて」

 声が震え、両手に握っている短剣も、同じく小刻みに揺れる。

「初めからそのために、あたしに近づいたのか。あたしから、マツバさまの情報を盗むために!」

「ユウ。落ち着け」

「答えろ! あたしから何を聞き出した。あたしの話したことを海の国に伝えて、それで、そのせいで、マツバさまは捕まったのか!」

「おまえは、何も聞き出させちゃくれなかったよ」

 岩の上にひざまずいた姿勢で、喉仏を刃の前にさらしたまま、ヒダカは諭すように続ける。

「城に住んでるのは知ってたし、何かの拍子に内情が聞けるかもしれないって下心がないわけじゃなかった。だけどおまえは主人のことは何も話さなかったし、第一、戦が本格的に始まってからは、ずっと会ってなかったじゃないか。おまえが情報を漏らして、それが戦に影響したなんてことは、一切ない」

「……」

「おまえが自分を責める必要はない」

 ユウが責めていた相手は、ヒダカだったはずだ。しかし彼にそう言われて、本当に詰りたかったのは自分自身だったことに気づく。自らの過ちのせいで、マツバ姫が窮地に立たされているのかもしれない──だとすれば、刃を突きつけるべきは目の前の男ではなかった。

 短剣を握った両手を、ユウは静かに胸の前へ引き寄せる。

「……あんたは、敵なんでしょ。どうしてそんなふうに、慰めてくれるの。笛の稽古だって、あんなに何度も付き合ってくれたりして……」

「俺には、敵も味方もない。おまえと会うのは、仕事の間のちょっとした息抜きみたいなもんで」

 ヒダカはようやく岩の上から木笛を拾い、表面についた砂利を払う。

「昔のことを、思い出すんだ」

「昔って?」

「おまえみたいに、小っこくて負けん気の強い幼なじみの娘がいて、俺と兄貴と、三人でよく遊んだ。その時分のことをな。あのころはまだ、俺にも名前があった」

「どういうこと? よくわからない」

「わからなくていいことさ。それより、どうするんだ。俺を城へ突き出してみるか。もちろん、素直に捕まる気はないが」

 笛を差し出しながら、名前のない男が訊く。間近に刃を差し向けてもまったく動揺する気配のなかった彼を、ユウが一人でどうにかすることは不可能だろう。と言って、ここで大声を出したところで、助けが来るとも思えない。

 ユウは握った短剣をゆっくりと上向きに立てて、自分の首筋に当てた。これにはさすがのヒダカも虚を突かれた様子で、

「おい、何を……」

「あんたが海の国に帰る前に、もう一つだけ、お願いがある」

 ユウは宣告するように言った。脅しではない。城を抜け出してきた時点で、すでに覚悟はできている。

「あたしも一緒に連れていって。マツバさまのもとへ」

 ヒダカはしばらく口を開いたまま、ユウの顔を見守っていた。が、やがて観念したように、「参ったな」とつぶやいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る