5-5

「やれやれ、ひどい有り様だ」

 タカスは鼻の頭を掻いた。城壁の内側はどこもかしこも泥で覆われ、足下だけでは屋内外の区別さえつかない。

「掃き清めてお迎えするなどと、御嶺ごりょうどのに大口をたたいてきたが。これは事だな」

 ムカワ・カウン将軍も、腕組みをして溜め息をつく。頬骨の張った横顔に、白い朝日が射しこんでいる。

 彼らと騎馬隊は昨日、四関しのせきの間近まで来たところで日没を迎え、高所に避難して一夜を明かした。その間、襲堰かさねぜきから押し寄せた洪水は、大量の土砂を伴って砦に到達した。夜が白み始め、水浸しの地面を踏んで一行が城門まで来てみると、門扉は半開きで敵兵の姿も見当たらない。かくして戦いもせずに、彼らはかつての持ち場へ帰還を果たしたのだった。

 随分と水をあけられてしまったものだ、とタカスは内心で思う。かつて対等に腕比べをしていた朋友が、マツバ姫の婿になり、御嶺の君と呼ばれ、ついには総大将として、オニビラ隊の殲滅も四関の奪還も一度に成し遂げてしまったことに対してである。

「さすがはアモイ・トウヤどののご子息、天晴れと言うべきだろうな」

 感嘆するムカワ将軍に、タカスは黙って頷くばかりだった。

「将軍、隊長!」

 そこへ、部下の一人が報告しに来た。

「階上に隠れていた敵兵を捕らえました。どうぞこちらからお上がりください」

 オニビラの置いていった留守居の者たちは、城館の二階の一角の、二つの部屋に分かれて潜んでいた。発見されたときにはすでに戦意を失っていて、抵抗は示さなかったという。

 無理もない、少数で取り残された砦に、夜中の水攻めだ。あの轟々たる水音を聞けば、出陣していった先鋒隊の末路も察しがついたことだろう。

 しかも二組に分かれた男たちの、数の多いほうの一団に至っては、そもそも初めから美浜みはまのために尽くす意思を持っていなかった。

「こちらの者たちは、青髪あおがみではないようだが」

 捕虜たちの前頭部を見咎めて、タカスは尋ねた。

「はっ、この部屋にいる者たちは皆、北湖きたうみから連れてこられた大工や人足だそうです」

「そういうことか」

 敵意もなく、まして兵士でもないならば、拘束する理由はない。北湖の者たちについては戒めを解くように命じた。

 もっとも彼らは解放されても、帰るべき祖国がない。当面は砦に留め置くことになった。

「俺たちにも、何か手伝わせてもらえないだろうか。城内の泥を掻き出すのでも、何でも」

 彼らにしてみれば、タカスたちは美浜軍から助けてくれた恩人ということになるらしい。ほとんどの者が、山峡やまかいに対して好意的な態度を示した。

「あの勇士たちも、山の民だったんだろう」

「何のことだ?」

「夕べ、この目で見たんだ。青髪の本隊に、ほんの数十騎ばかりで攻めかかるところを。命知らずにもほどがあると思ってたら、たまげたな。あんな頭数で、まさかあの大軍を追い返すなんて」

 他の男たちも、口々に「見事だった」「大したもんだ」と賞賛する。

 タカスは思わず最初に言いだした男の腕をつかんで、「詳しく聞かせてくれ」と頼んだ。

 昨日、北湖の職人たちは、留守番兵たちの指揮下で、美浜の本隊を迎え入れるための準備をさせられていた。夕方近くになり、城門の上の胸壁から磐割原いわりのはらを見張っていると、はるか向こう側から雲霞のごとき大軍が近づいてくる。

 彼らの都を壊滅させた公子クドオが、彼らの造った陸橋を踏んで四関に入城する……その最悪の場面を、しかし北湖の男たちは目撃せずに済んだ。

 美浜軍が橋の手前までやってきたところで、謎の大男がその行く手に立ちはだかり、右手の林から矢が放たれ、左手の川原では浮浪者たちが暴れだした。そして林から小ぶりの馬に乗った一隊が飛び出し、横合いから大軍に突っこんでいったのだ。

 留守番兵たちは、櫓の上で呆然としているばかりだった。北湖の男たちは、息を詰めて様子を見守っていた。が、すぐに混戦模様となり、日が暮れてきたこともあって、戦況はわからなくなってしまった。

 もっともあの小隊では、いずれどうにもなるまい──そう思っていたところに、轟音が響いた。それは戦場の脇を流れる川が氾濫を起こす前兆だった。上流で、山峡軍の水攻めが決行されたのだ。

 彼らのいる四関にも、すぐに水は押し寄せてきた。まもなく浸水が始まり、観戦どころではなくなってしまった。急いで階下へ駆けつけたが、流れこんでくるものは防ぎようもなく、逆に水の通り道を確保して、せめても水位が上がらないようにするしかなかった。あとは食糧や燃料の類を可能なかぎり担いで、全員で階上へ避難した。オニビラが厳重に扱えと言い残していった移動式の砲台などは到底運び上げられるはずもなく、水没するに任せた。

 水勢が治まるのを待って、男は再び戦場を見に行った。そして目を疑った。何とあの大軍が、戦場から消え去っていたのだ。物見塔ものみのとうに登った仲間の話では、薄闇に紛れてしずしずと退却していく軍影が微かに見えたという。

「目を離した間に、何があったのかは知らない。だけど、どっちにしても、あの奇襲がなければ」

 北湖の職人頭だという男は、胸壁の下を指さして言った。

「俺たちの造った橋は、あいつらに踏みにじられてたはずだ」

 そう言われて、タカスもくだんの陸橋を見下ろしてみる。噂の陸橋は、真上からは全体像をつかみにくいものの、わずか数日で完成したとは思えないほど本格的な建造物だった。

 城門から磐割原へ伸びる、木造の緩やかな傾斜。その板面にも、四関から流れ出した泥水が伝った形跡がある。

 顔を上げ、戦場となった一帯を改めて見渡す。一夜明けて川はすでに静けさを取り戻し、周辺には大小の水溜まりが朝日に輝いていた。

 そして、そこにはまた、生々しい戦いの爪痕も残されている。草原のところどころに垣間見える、人馬の死骸が。

 タカスが奇襲作戦の件を知らされたのは、オニビラを誘い出すために襲堰かさねぜきから出陣してきたアモイと合流したときのことだった。二隊のうちの一方をテシカガが率いると聞いて、さすがに驚いたものだ。おそらくはアモイにとっても、苦渋の決断であったのだろう。実質的には、死を命じたのとほとんど変わらない。

 だが、敵の本隊を引き返させたというのが事実なら、その死は犬死にではなかった。この戦で最大の、いや山峡の歴史上にも類を見ない功績だ。そう自分に言い聞かせるよりほかに、胸の奥からせり上がってくるものを紛らわすすべはなかった。

「あの橋、壊すんだろう?」

 男に問われて、タカスは我に返る。

「……ああ。せっかくだが、そういうことになりそうだ」

「壊すなら、俺たちにやらせてくれないか」

「そうだな。上に話してみよう」

 ただしその前に、荒野に転がる仲間たちの亡骸を引き上げてやらなければならないが……。タカスが心中でつぶやいたとき、

「隊長!」

 物見塔からの伝令が飛びこんできた。報告を受けたタカスは息を飲み、一瞬の間の後に、「間違いないのか」と訊き返した。

「はい、確かに人影の動くのが見えたと……。この角度からは確認できませんが、あのあたりだそうです」

 部下は胸壁から身を乗り出して、陸橋の北側の陰を指し示した。

 タカスはただちに露台を離れて階段を駆け下り、泥が跳ねるのもいとわずに城門へ走った。歪んだ鉄扉を開き、坂橋の上へ飛び出す。そこから左側の縁にひざまずいて、橋の下をのぞきこんだ。

 精巧に筋交いの組まれた橋脚が、美しい幾何学模様を描きながら地表へ伸びている。その根本に寄りかかったり、横たわったりしている数人の男の姿を視界にとらえた。

 生きているかどうかは、にわかにはわからなかった。しかし不意に一人が、ごろりと寝返りを打って仰向けになる。その髭面を見た瞬間、タカスはほとんど叫ぶように呼びかけた。

「バン! おまえ、バンじゃないか?」

 すると座りこんでいる周りの男たちが、驚いた様子で顔を上げた。呼ばれた本人もやや遅れて目を開き、大きく伸びをしてから、むくりと起き上がった。

 タカスたちが彼らのもとへ駆けつけてみると、西陵せいりょう城で見知った顔の若者たちと、どう見ても堅気かたぎではない風体の男たちとが一所に身を寄せ合っていた。運よく昨夕の戦を生き延びた者たちが、川から離れ風を避けるために、陸橋の陰で夜を明かしたものらしい。

「タカスさま。四関うえは奪還したのですね」

「ああ。敵の先鋒隊は昨日の水攻めで全滅したはずだ。安心していい」

 そう言ってやると、緊張の糸が切れたか、テシカガ隊の隊士たちは涙を流し、それきり言葉が続かない。近くにいるならず者たちまで、もらい泣きを始める。いずれも、よほどの惨状をくぐり抜けてきたのだろうとタカスは察した。

 部下に命じて、歩ける者には肩を貸し、怪我のひどい者は担架に載せて、生存者を四関へ収容する。

「バン。立てるか」

 地面に尻をついたまま、一言もしゃべらずに座っている男に、タカスは再び声をかける。全身に傷を負っているようだが、命に関わるような深手ではなさそうだった。

 彼は顔を横に向け、林のほうをぼんやりと眺めている。

「バン」

「バンケイだ」

 ようやく、ぼそりと答える。

「せっかくオヤカタにもらった名前だってのに、誰もまともに呼びやしねえ」

 彼がマツバ姫の命で改名していたことを、タカスはこのとき初めて知った。

「バンケイか。敵軍を引き上げさせた大功労者の名には、なるほどそのほうが似つかわしいかもしれんな」

 ねぎらいのつもりで言ったが、バンケイは彼らしくもなく眉間に皺を寄せて、苦いものでも噛みつぶしたような顔をする。

「あれは、そんなんじゃねえ」

「どういう意味だ」

 彼は答えない。ゆっくりと立ち上がると、橋のたもとではなく、林へ向かって足を踏み出した。

 ふと、三年前にこの男と出会った日のことを思い出す。四関を占領した賊団の頭目と、それを征伐しに来た騎馬隊長として顔を合わせたあのときも、彼は勝手にどんどん歩きだし、ついてこいと背中で促したのだった。

 相手の表情が、あのときのように飄々としたものであったら。タカスも後を追うのに、躊躇することはなかったろう。

「こいつが、いい馬を拾ってきやがったもんでよ」

 林の手前に茂った草むらの前で、バンケイは顎をしゃくってみせる。そこには、裸同然の体に無数の矢傷と刀傷とを刻みこんだ、巨漢の亡骸が横たわっていた。タカスにも見覚えがある。三年前の、例の賊団の中にいた一人ではなかったか。

「俺ァ、ヒヤマとかいう偉そうな野郎とやり合ってたんだ。思ったより手こずったが、まあ、あと少しってところだったな。だけどそのとき、変な地鳴りがして、山津波が来て、そしたらあの野郎、また勝負を放り出していきやがったんだ」

 ヒヤマ・ゼンは磐割滝いわりのたきから水が噴き出すのを見て、急に主君の身が心配になったようだ。二度目の一騎打ちをあっさりと放棄して、あふれ出す川のほうへ向かって馬を走らせた。無論、バンケイもそれを追った。

 川原の近くまで行くと、美浜の将兵が大勢集まっていて、何やら騒ぎたてている。若殿が流された、と誰かが叫んで、ヒヤマは血相を変え、探せ探せと怒鳴りながら川下へ兵士たちを引き連れていった。もはや奇襲隊など敵の眼中にはなく、バンケイは独り、濁水の滔々と流れる川の前に取り残された。

 と、川の面から、斜めに突き出したものに目が留まった。それは人の上半身だった。川原の岩に背を預けた男が、まだ水かさの上がり続けている川の中に放置されている。あのままでは、そのうちに水没してしまうだろう。

 生きているのか死んでいるのかはわからないが、少なくとも美浜の兵士ではない。バンケイは考える間もなく水の中に足を踏み入れ、男を担ぎ上げて戻ってきた。そして、川から離れたところまで馬で避難したのだった。

「しばらくしてから、喇叭らっぱの音が鳴ってよ。奴ら、そのままいなくなっちまった」

「そのときの敵軍は、どんな様子だった」

「どんなって、遠かったし、もうだいぶ暗かったからな。だけどまあ、混乱してるふうでもなかったな」

「そうか……」

 公子クドオが行方不明のままだとしたら、敵軍が簡単に去るはずはない。おそらくは、それほど時を置かずに身柄を発見したのだろう。

 だが退却をした以上は、少なくとも進軍を休止するだけの理由が生じたということだ。そのあたりの事情は、探らせてみなければわからない。

「ところで、その、川原でおまえが救った男というのは」

 しかし尋ねている途中で、バンケイの顔色から答えを察し、

「……助からなかったのか」

「ここまで連れてきたときは、まだちょっと息があったんだけどな」

 そう言われて、茂みの中にもう一人、横たわる遺骸があるのに気づいた。こちらは打って変わって細身で、武具も身につけている。胸の上には、まるで供え物のように、抜き身の剣が置かれていた。

 その柄の、独特の色味に、タカスは目を奪われた。

「テシカガ……!」

 彼が奇襲隊を率いると聞いたときから、覚悟はしていた。それでも、タカスは亡骸の横へ膝をつき、肩をつかんで揺さぶらずにはいられなかった。

 どう頑張っても焼けないんです、と笑っていた青白い頬。血も泥も拭い去られた顔は、うっすらと口の周りに髭が生えている以外は、いつもの穏やかな優男のままだ。

 いや──と、自ら心中で反論する。この面構えは、女官や童子たちから「シュロさま」と呼ばれ、親しまれつつも半ば侮られていた商人上がりの若者とは別人だ。国の存亡に関わる重大な役目を負い、命を懸けた、真の武人もののふ。彼の死に顔は、今までに見たどの表情よりも気高く美しい、とタカスは思った。

「この剣は、おまえが」

「ああ。落としてったんで、拾っといた」

「そうか。代わって礼を言う」

「いいよ、そんなの。こいつだって、最後の最後に話したのがよりにもよって俺だなんて、いい迷惑だったろうさ」

「話した……何をだ」

「まあ、もうほとんどうわ言みてえな感じだったから、相手が俺だって気づいてなかったかもしれねえけどな」

「何を、話したのだ」

 重ねて問うと、バンケイはタカスの顔を見ずに、テシカガの胸の上に置かれた剣の鍔に指先で触れた。

「鞘のほうは、オヤカタが持っていったらしいぜ」

 タカスには、その言葉の意味が理解できない。オヤカタとは、マツバ姫のことだろう。彼女は今、西陵城にいて、この戦の行方を陰ながら見守っているはずではないか。テシカガの剣の鞘を持っていったとは、どういうことなのか。

 バンケイはまだ何か、言うべきことを隠しているようだった。彼のような男が、言葉にするのをためらうとは。タカスは密かに空恐ろしさを覚える。

 それでもやはり、訊き出さないわけにはいかない。意を決して口を開きかけたとき、

「そう言やあ、こいつ……」

 ふと思い出したように、バンケイはテシカガの顔を見下ろして独りごちた。

「確か一遍、バンケイって呼んだな」

 その横顔に深い悼みの色が漂い、タカスはまたしばし口をつぐむしかなかった。

 

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