5-4

──鉄納戸てつなんど色、というのですって。

 妻はそう言って、長方形の桐箱を開く。出てきたのは、宵闇の中で見る青葉のような、独特の色をした一振りの剣だった。

──こんな立派なもの、私に似合うかな。

──似合わなくてもいいの。初めは形だけでも、そのうちに中身も追いついていくものなのだから。

 まるで母親のように諭されたのは、去年だったか、もっと前だったか。

 娘たちはうれしそうに、「とと、つけてみて」とはやしたてた。テシカガが剣を腰に帯びると、手をたたいて「おさむらい、おさむらい」と無邪気に喜んだ。

 剣を持つということの意味を、幼い娘たちはまだ知らない。だがもちろん、妻にはわかっていたはずだ。

 又従姉またいとこで幼なじみの彼女は、いつもテシカガのことを本人以上に理解してくれていた。家業を捨てて道場に通い始めたときも、仕官の口が見つからずに肩身の狭い思いをしていたときも、不満を漏らしたことはない。あくまであたたかく見守り、応援してくれた。

 ただ、稽古でしくじって痣を作ったり、落馬して肩を外したり、段を踏み外して膝を打ったりして帰ったときには──というのは日常茶飯のことだったが──厳しい小言を食らったものだ。

──シュロ。どんなに強くなっても、手負いで力を出しきれなかったら、戦いには勝てません。こんなつまらない怪我をして、もしも今、何かが起こったら、どうやって娘たちを守るつもりなの。

 幾度、同じことを言われたか。手当てを受けながら、テシカガは返す言葉もなく、ただ消え入りそうな声で謝るだけだった。

「面目ない……」

 自らの声で、我に返った。汗ばんだ馬の首筋にもたれた状態で、いつしか寝入っていたようだ。

 上半身を起こそうとするが、背中に力が入らない。たてがみの横に拳を突いて、ゆっくりと顔を上げてみる。

 彼はただ一騎、川原にいた。味方も敵兵も周りにはいない。いつしかまた強くなった風の音と、水のせせらぎに包まれて、戦場の騒乱はどこか遠くに去ってしまったかのようだ。

 馬が気遣わしげに耳を動かしている。水を飲みたいのだろうか。それとも、飲ませようとして連れてきてくれたのか。そう言えば、舌が口蓋に貼りつくほど渇いている。

 あぶみを下りようとしたが、今度は膝が言うことを聞かない。均衡を崩して、石だらけの川原に転げ落ちた。ああ、豆駒まめごまでよかった、この高さなら大事ない。そう思ったが、立ち上がることはできなかった。

 顔のすぐ横に、鞘が落ちている。鉄納戸色、の。

 ヒヤマとの対戦で刀剣を取り落としてしまったので、この鞘で敵兵からの攻撃を払いながら、戦場を駆け抜けてきたのだった。おかげでせっかくの色模様も細工もわからないほどに、傷つき血にまみれてしまった。

 同じぐらい赤く染まった腕を、前に伸ばす。指先がようやく、冷たい水に触れた。

 と、水音に紛れて、後ろのほうから石を踏む足音が近づいてくる。誰かが傍らへ来て立ち止まったかと思うと、いきなり強く両肩をつかまれた。

「テシカガ」

 震える声が耳元でささやき、上半身を抱き起こされる。閉じかけたまぶたを開くと、探していた人の顔が目の前に現れた。

「……か、た、」

 館さま、と言おうとしても、声が思うように出ない。

「そなたは存外、肝の太い男だったのだな。かようなところで居眠りとは」

 どこか痛々しい笑みを浮かべて、マツバ姫は冗談を言った。兜はなく、結った髪はほつれ、疲労のにじむ顔は汚れて傷だらけだ。

 しかし、生きていてくれた。テシカガの口から、吐息が漏れる。

 彼を手近な岩にもたせかけると、姫は手ぬぐいを川の水に浸して、口元にあてがってくれた。絞り出された水で喉を潤すと、ようやく少し声が出るようになった。

「申し訳、ありません」

「何を謝る」

「お守りすると、約束したのに、このような体たらくで……」

「そなたの働きは目覚ましかった。誰から見ても立派な武者姿であったぞ。何も恥じるところはない」

 マツバ姫の表情が、かつて見たことのない優しいものだったので、テシカガは戸惑った。公子クドオをあと一歩のところまで追いつめた、あの気魄の形相とは別人のようだ。

「あ……敵は。公子クドオは、どう……、どうされました」

「公子は」

 姫は笑みを消して、まっすぐにテシカガを見つめた。

「すまぬ。仕留められなかった」

「……そう、でしたか」

 奇襲は失敗に終わった、ということだ。しかし、不思議と悔やむ気持ちにはならなかった。

 マツバ姫がこうして生きているかぎり、望みは消えない。まだ敗北ではない、と彼は思った。

 しばらくまた、風と水の音だけが聴覚を支配する。

「川……」

 そこで不意に思い至る。

「馬は」

「うん?」

「馬は、どうなさったのですか」

「ああ。途中で、敵の矢を受けてな」

徒歩かちなのですか」

 テシカガは首だけを動かして、周囲を見回してみる。知らぬ間に日は暮れかけて、視界は膜の張ったようにぼんやりとしていた。

「近くに、私の馬がいるはずです。早く、ここから離れてください」

 マツバ姫は答えない。

「お願いです。どうか、私のことは、お気になさらずに。きっと、私はもう……」

「テシカガ」

 怒ったような口調で、姫が遮る。その眼にうっすらと涙がにじんでいるのを見て、ああ、やはり自分は死ぬのだ、とテシカガは思った。

 彼は傍らにある空の鞘へ手を伸ばす。落馬したときに落としたのを、マツバ姫が拾ってくれていたのだった。それを姫の前に差し出すと、もう一度、お願いしますと言った。

「この鞘を、妻に。テシカガ・シウロの死は、武人として誉れ高いものだったと、お伝え……」

「……」

「……いただくというのは、さすがに少し、厚かましい、でしょうか」

「愚か者」

 姫は絞り出すような声でつぶやき、傷だらけの鞘を握りしめた。

 そのときだ。テシカガの背後から、聞き覚えのある声が高らかに響いた。

「親愛なる深山の姫君。ご無事で何よりだ」

 振り向けば、川原の縁の小高く土の盛り上がった一帯に、いつの間にか敵兵が隙なく立ち並んでいる。その中央に、栗毛馬に騎乗した公子クドオの姿があった。

 一度は落馬にまで追いこんだ標的。しかし今は、マツバ姫のほうが狩られる側となっていた。

「今こそ、貴女を我が都へお迎えしよう。もちろん、御身の安全は約束する。さあ、剣を置いて、こちらへ」

 川上も川下も、行く手を塞がれている。川向こうは岩壁。逃げ場はない。

 マツバ姫が傍らに立ち上がる。

「館さま……?」

「テシカガ。そなたの最後の務めだ。この賭けの行方、しかと見届けよ」

「な、……」

 何を、と訊く前に、彼女は背を向ける。そしてためらうことなく、川の水の中へ大股に足を踏み入れた。

 敵兵たちのどよめきが聞こえた。自害でもするつもりかと案じたのだろう、公子クドオが少し語気を強めて、「姫君」と呼びかける。

 彼女は立ち止まり、こちらを向いた。腿まで浸かる流れのただ中で仁王立ちになって、手には空鞘を握ったまま。川上から吹く風に、ほつれた髪がなびく。

 すでに太陽は山に隠れて、その表情は定かではない。

「わたしを虜とするか。貴殿にその器量がおありであろうか、公子クドオ」

 マツバ姫もまた、声高に応じる。

「奪えるものならば、奪ってみられるがよい」

 挑発的な物言いに、敵兵たちは殺気立った。矢をつがえる者、抜き身を構える者、いずれも主君の下知を今か今かと待っている。

 ところが公子クドオは彼らを制止し、何を思ったか、ただ一騎で川縁まで駒を進めた。テシカガの寄りかかる岩から、いくらも離れていない位置である。

 またも沈黙が訪れる。風音と、水音だけの。

 いや──どこか遠くから、不意に別の音が割りこんできた。重く鈍く、地響きさえ伴って、あたかも巨大な獣の足音のような。

 公子も敵兵たちも、訝しげに川上のほうを見やる。するとすぐに謎は解け、それぞれに驚愕の表情を浮かべる。

 四関しのせきの脇から岩山をえぐるようにして流れ落ちるはずの磐割滝いわりのたきが、まるでほとばしる血飛沫のように激しく水を噴き出していた。その濁った大量の水は滝壺に収まるべくもなく、彼らのいる下流へと津波のように押し寄せてくる。

 テシカガにはそれが、牙を剥き出しにして襲いかかってくる怪物に見えた。

「若さま、お戻りください!」

 敵の将兵が悲鳴をあげて主君を呼んだ。公子は公子で、怯える馬を抑えながら、彼らしくもない切迫した声で川へ叫ぶ。

「姫君……!」

 だが、マツバ姫は流れの中に立ち尽くしたまま、微動だにしない。

 彼女の口にした賭けという言葉の意味を、テシカガは悟った。

 この最後の切り札のために、彼女は川原へやってきたのだ。オニビラを襲堰かさねぜきの付近まで首尾よく誘き出したアモイが、かねてから計画していた水攻めを決行するとすれば、まさにこの日没を措いてほかにないと見越していたがゆえに。

 テシカガもまた身じろぎすらせず、目だけを精いっぱいに見開いて、迫りくる怒濤を前に直立するその人の姿を凝視する。彼自身に近づいている死などは、もはや意識の埒外にあった。

──しかと見届けよ。

 今はその言葉だけが、彼の精神をかろうじて肉体につなぎとめている。

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