5-3
峡谷を塞ぐように張り巡らせた馬防柵の一角が、ついに破られた。その綻びから、敵兵が堰を切ったように雪崩れこんでくる。
人波の中に、何事かわめきながら馬を躍らせる武将の姿が見えた。獣の顔を模した兜、厚みのある体躯にいかめしい鎧をまとった壮年の男。オニビラだ。
「いたぞ!」
相手がアモイに気づいた。
「あの赤い羽織の若造が、山猿どもの大将だ。首級を挙げよ!」
白銀の鎧兜に緋色の戦袍、黒馬に山吹色の房飾りを施した総大将の出で立ちは、遠目にもすぐにそれと知れる。敵兵たちは功名を争って、次々と矢を射かけてきた。
盾を持った騎馬隊が彼の前に身を挺し、
アモイは周囲を振り返る。左手には岩山、右手も川を挟んでまた岩壁。真後ろには小高い段丘。その少し南側へ逸れ、蛇行する峡谷に沿って退くとすれば、最後の砦とも言える
「アモイ。さすがにこれ以上は」
タカスが馬を寄せてきて、小声で促した。
「わかっている。退却を下知してくれ。総員、あの段丘の上へ」
「承知」
「できるだけ、慌てふためいてな」
二人は目配せをして、密かに笑みを交わした。
アモイが襲堰を出て、
本隊が到着する前に敵の総大将を虜にすれば、戦功は自分一人のものになる。このような好機を、オニビラが見送るはずはない。翌日には四関にごくわずかの留守番兵を残し、一挙に討って出た。
アモイら
この陣は
日は西に傾きかけて、風は次第に強さを増し、轟々と唸りながら谷を走る。美浜陣営の旗竿が折れ、幔幕が飛ぶ様子を、アモイとタカスは段丘の中腹から肩を並べて見下ろしていた。
「さすがのオニビラも、今日のところは進撃を切り上げたようだな」
二人は銀杏の巨木に依り、風を避けている。木々のざわめきにかき消されるので、自然と声は大きくなった。
「さぞ悔しがっているだろうな。奴は今日中にもおまえの首を落として、襲堰まで攻め落とす気でいたに違いないぞ」
「見くびられたものだ。もっとも、それも狙いのうちだが」
「しかし、アモイ。さっきのあれは、少しやりすぎではないか。いかに作戦とは言っても、命を危険にさらすのはほどほどにしてくれ。御嶺の君の身に何かあっては、戦どころではなくなる」
「私の代わりなど、いくらでもいるさ」
「アモイ、おまえ……」
「いや、冗談だ」
本音を言えば、冗談でもなかった。この国にとって最も重要な人物が、今ごろ四関の向こうで、さらなる危険に身を投じている。それと比べれば、彼自身が敵の矢面に立つことも命からがら逃げる芝居をすることも案ずるには値しないと、アモイは内心に思う。
言うまでもなく、彼が襲堰を出てから今日に至るまでの敗戦は、すべてオニビラを引きつけるための陽動だ。読みどおり、図に乗った敵将は四関をほとんど空にして攻めてきた。これで少しでも、奇襲隊の助けになればよいのだが。
気がかりなのは、この強風だ。野営には不向きな天候を嫌って四関へ引き返されては、苦労が水の泡になる。
「引き返しなどするものか。おまえの首を取り損ねて、しかもこうして高みから見下ろされているのだ。オニビラの奴、相当、焦れているはずだぞ。風が弱まるのを待って、夜襲でも仕掛けてくるつもりかもしれん」
タカスが請け合った。敵将の
「奴には四関での借りがある。出来うるならば、この手で引っ捕らえてやりたかったが……」
最後のほうは、独り言のようだった。
朋友の苦み走った横顔から視線を逸らして、味方の兵が小隊ごとに分かれて待機する段丘を見渡す。すると、傾斜のきつい坂道を大股に登ってくる人影が目に留まった。
「あれは、ムカワ将軍ではないか」
それを聞いたタカスも下をのぞいて、
「本当だ。あの傷で、また無茶を」
苦笑しながら、斜面の途中まで下りていって将軍を出迎えた。
ムカワ・カウン将軍は息を乱しながらも、タカスの手を借りずに、アモイのいる木の下までやってきた。常の起居ならともかく、具足を身につけて坂を登るとなれば、手負いの身には楽ではないだろう。だが、さすがは山峡の誇る勇将、岩に腰かけるよう勧めても断って、立ったまま用を告げる。
「四関の様子を探らせていた斥候が戻ってきた。後続の本隊は未だ到着せず、わずかな留守番兵がいるばかりだという。アモイどの、この機を逃す手はない」
「と言われますと」
「作戦の仕上げにかかる前に、わしを四関の奪還に向かわせてくれ」
アモイとタカスは思わず顔を見合わせる。二人は
「お気持ちはわかりますが、将軍。今はまず、目の前の敵を片づけるほうが先決では? オニビラの最期を、しかと見届けなくてよろしいのですか」
「四関に比べれば、オニビラの首などに大した価値はない」
将軍は、タカスの意見をあっさりと撥ねのける。
「汚名を
師匠の熱意に、タカスは反論をあきらめたようだ。アモイもまた、説き伏せるのは時間の無駄だろうと腹を決めた。
「日没を合図に、作戦を決行する。それ以上は待てません」
太陽はすでに、西の山の稜線に近づいている。が、全速力で馬を飛ばせば、四関のあたりまでたどり着けないこともない。
「どのような状況であれ、日が隠れたら、すぐに高所へ避難なされよ。城攻めはよくよく前後の様子を確かめてから行い、くれぐれもご無理はなさらぬように。我々もオニビラどもを一掃した暁には、早急に後を追います」
「ごゆるりとおいであれ。足場が悪くなっているであろうからな」
ムカワ将軍は、満面に喜色を表して言う。
「四関の弱みは知り尽くしておる。貴公が来られるころにはすべて片をつけ、砦中を掃き清めてお迎えしよう」
「頼もしいお言葉ですが、将軍は手負いであられる。タカスを副官としてお連れいただくのが条件です。ご異存は」
「願ってもないこと」
「というわけだ、タカス。将軍の補佐を頼むぞ」
タカスは目を輝かせて「応」と身を乗り出した。言葉とは裏腹に、彼もまた将軍と同じ思いを胸に秘めていたのだろう。
「平地を一気に突っ切ってゆけ。敵に見咎められてもかまわん。おまえの騎馬隊が本気で駆けたなら、追っ手を出したところでどうせ間に合うまい」
「それに、オニビラはじきに、我々などにはかまっていられなくなる……そういうことだな」
「そういうことだ」
三人は木の下で頷き合うと、すぐに行動を開始した。
タカスは待機していた騎馬隊を召集し、ムカワ将軍と共に段丘を下りた。幸い、峡谷の底には追い風が吹いている。一隊は瞬く間に見えなくなった。途中で敵陣の近くを走り抜けたものの、あまりの速さのためか、それとも頭数の少なさを見くびってか、オニビラは追っ手を出そうとすらしなかった。
一方のアモイも、進めてきた作戦の総仕上げに取りかかる。
「襲堰の状況は」
「はっ、人や物の避難も済み、すでに準備は整っております。あとは合図を待つばかりとのこと」
「わかった。そのまま待機するよう伝えよ」
まだ空は明るいが、太陽が山並みに隠れると、地上はすぐに暗くなる。人馬の見分けがつくうちに決着をつけなければ、とアモイは思った。
彼は幼い時分に、恐ろしい体験をしたことがある。真夜中に起こった大規模な山津波で川が氾濫し、自宅の間近にまで泥水が押し寄せたのだ。母はアモイの手を引き、乳飲み子だった妹を抱いて高台へ逃げた。幸いにも家は流されずに済んだものの、何も見えない闇の中で聞いた怒号のような水音は、今思い出しても背筋が凍る。
もともと襲堰は、周辺の山襞が織りなす複雑な地形のためか、古くから土砂崩れによる災害が多い町だった。激しく降る雨は地表を削り、岩を押し流し、しばしば自らの流出路を塞いでしまう。そうして堰止められた水がやがて決壊し、大量の土砂と共に川沿いの集落を襲うのだ。
もっともこの三年間で、地域一帯の治水は大幅に改善された。水の溜まりやすい場所を何箇所か人工の堰として整備し、大雨が降った後には、安全な迂回路へ小分けに放水するようにしたのだ。おかげで襲堰だけでなく、その川下にある
──なるほど、
マツバ姫はそう言って、アモイの提案を称賛してくれたものだ。
──しかし、
──老公さえ先に説得できれば、あとの心配は要るまい。よし賛同が得られぬとしても、気にせず進めてかまわぬ。
──しかし、それはさすがに。
──人工の堰を築けば、
天、を、アモイは見上げる。風に流されていくちぎれ雲を西から照らす光は、赤みを帯び始めていた。
曇りがちの一日ではあったが、雨は降らなかった。だが昨日までに断続的に降り続いた雨水で、堰はどれもあふれんばかりに満たされているはずだ。
そして眼下には、川の間際に陣を敷き、夜を明かそうとしている敵軍。
「御嶺さま。日輪が……」
兵士が指さす先、西方の山並みに、太陽光の最後の一片がきらめく。そしてほどなく、群雲の下に残照を残すばかりとなった。
「襲堰に合図を」
「はっ」
兵は駆け出していき、それからいくらも経たないうちに、遠雷のような轟きが谷に響いた。
オニビラも不審に思ったろうか。それとも戦勝の酒に酔いしれていただろうか。谷底はもはや薄暗く、詳細をうかがい知ることはできない。
しかし、一つだけはっきりと確認できたことがある。敵陣に煌々と焚かれていた篝火が、一瞬にしてかき消えた。折からの強風のためではなく、川上から押し寄せた濁流のために。
もはや、見えるものは水だけだ。普段の何倍にも膨れ上がった大風水は、今や谷底いっぱいに濁った水を波立たせている。
アモイ以下、山峡軍の将兵は、それぞれに太い木の幹で身を支えながら、荒れ狂う怒濤を目の当たりにしていた。
これでオニビラ軍は壊滅を免れない。たとえ生き残った者があったとしても、すぐに立て直せるような被害ではあるまい。四関は、ムカワ将軍とタカスがきっと取り返してくれる。領内に侵入してきた敵兵は、一掃されるはずだ。
それなのに……。
彼らが身を寄せている段丘の真下の岩場が、水圧に耐えかねて崩れ落ちる。そこに生えていた木々も根こそぎ倒れ、流されていく。幼い日に聞いたのと同じ、いやそれ以上の、怒号のような水音。
今、アモイの胸には、喜びも安堵もなかった。彼は銀杏の古木を鷲づかみにしたまま、体の奥底からせり上がってくる悪寒をひたすら押し殺している。
──マツバさま。
虫の知らせ、胸騒ぎ、そんなものはただの迷信だ。段丘に沸き起こる将兵たちの歓声を聞きながら、アモイはそう自分に言い聞かせていた。
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