5-2

 群雲が恐ろしい速さで上空を流れていく。陽が差し、すぐに翳り、また光にさらされる。お天道さまも落ち着きがねえな、とバンケイは心の中でつぶやいた。

 最初の子どもが生まれた日が、ちょうどこんな天気だった。いつものように昼間から酒場に入り浸っていると、母親がものすごい形相で怒鳴りこんできたのだ。引っ立てられるようにして家へ帰ると、早くも産婆が赤子を取り上げていた。あんたにそっくりだ、と言われたときは閉口したものだ。俺に似た娘なんて、いきなりお先真っ暗じゃねえか。

 食い扶持は増えたが酒代は減らず、暮らし向きはよくならなかった。それでも二年ばかりの間は、彼なりに辛抱をして、畑仕事の真似事をやった。が、二人目が生まれるに及んで、そんなおざなりのやり口ではいよいよ埒があかなくなった。性根を入れ替えて稼ぎに身を入れるか、いっそ何もかも放り出してしまうか――いや、実際は二択ではなく、そのときの彼には後者の道しか思い浮かばなかったのだ。

「死んでいるのでは?」

「いや、息をしているようだぞ」

 足のほうから声がする。美浜みはま軍の露払いが、様子を見に来たらしい。

 まだ木の匂いのする真新しい陸橋の、緩やかに傾斜した床板の上で仰向けになったバンケイは、なるほど野垂れ死んだ宿無しの骸に見えても不思議はない。

――それこそ、俺には似合いの死にざまなんだけどな。

 バンケイは首から上だけを持ち上げて、声のするほうへ目をやった。鉢巻きをして槍を持った青髪あおがみの歩兵が二人、何か言いながら近づいてくる。立てとか、道を開けろとか、どうせそんなことだろう。

 歩兵の肩越しに、大きな布が風になびいているのも見えた。蛇のような化け物が描かれた、ものものしい大将旗。そのすぐ手前に、立派な甲冑を身につけて白馬に騎乗した、威風堂々たる壮士の姿が目に留まる。

――あいつが御大オンタイか。

 そう目星をつけた直後、周りが急に静まった。耳鳴りのように聞こえ続けていた風の音が、不意に途絶えたのだ。雄々しくはためいていた敵の大将旗が、力なく竿からぶら下がる。

 そして次の瞬間には、早くも静寂は失われていた。北側の林から一斉に矢が放たれ、美浜軍の兵たちの間にどよめきが走ったからだ。

 二人の歩兵は、驚いて後ろを振り返る。バンケイはその隙を逃さなかった。素早く身を起こして片方の兵士の槍をつかみ、強く引きつける。体勢を崩した相手を軽々と橋から突き落とし、呆気にとられているもう一人の眉間を正拳で突いて、得物を奪い取った。

 のけぞるようにして倒れる敵兵の背後には、戦場らしい騒乱が始まっている。左手からの矢の雨は止んで、騎兵の一団が林から飛び出してきた。錐のように急先鋒を切って駆けてくる黒い兜の若武者は、誰あろうマツバ姫だ。その後ろにぴったりとついてくるテシカガの姿も見えた。

 他方、反対側の川原では、作事場の跡に屯していた浮浪者たちの集団もまた、荒々しい声をあげて敵兵に襲いかかっていた。草葉やら砂やらを相手の顔面に浴びせ、材木で殴り、剣を奪い、奪った剣で斬りつける。

「あれじゃ蠅どころか、雀蜂すずめばちだぜ」

 鼻で笑って、手に唾を吐く。奪った槍の柄を握り直すと、頭の上で車輪のように振り回しながら、陸橋を下りていった。

 左右からの奇襲に、先頭集団の隊列は崩れかけている。動揺した兵たちは、正面から近づいてくるたった一人の男を遠巻きにして、率先して斬りかかってくる者もない。大国の正規兵と言っても、所詮はこんなものか、とバンケイは腹の中で嘲った。

 だが、旗の下に佇む白馬の大将だけは、明らかに様子が違う。左右と後ろの状況に素早く視線を走らせ、眉一つ動かすことなく顔を前に戻すと、威圧感のある眼でバンケイを見据えた。

「おまえが首謀者か」

 その声は、微かな冷笑を含んでいるように聞こえた。

「名乗れ」

「へっ、俺か。ただの虫けらよ」

 言うが早いか、バンケイは勢いよく地を蹴って走りだした。群がってくる雑兵たちを一気に蹴散らし、馬上の男へ向かって槍を繰り出す。相手はとっさに剣を抜き、その一撃を刀身で払う。

 向きを変えて二度、三度と狙うが、なかなか隙がない。並の腕ではなさそうだ。まともにやり合うなら、徒歩かちでは分が悪い。

 するとそこへ、豆駒まめごまに乗ったマツバ姫が駆けつけてきた。いいところへ来た、とバンケイは思ったが、それも束の間だった。彼女はなぜか二人の戦いに加わることなく、敵将の後ろをそのまま通り過ぎていってしまったのだ。

「バンケイ!」

 後ろに続いてやってきたテシカガが、大声で呼んだ。彼もまた馬を止めずに、

「それは公子じゃない!」

 と叫んで駆け去っていく。

「何だって!?」

 バンケイは目の前にいる敵将の、日に焼けた顔を見上げる。

 もちろん彼は、隣国の若殿の人相など知らない。しかし飾りたてた白馬に鎧兜、背後に掲げられた将旗、何よりこの男の威厳に満ちた態度は、いかにも総大将に似つかわしかった。いずれにしても、ただ者ではない。

「てめえ、何者なにもんだ」

 自分が名乗らなかったのを棚に上げて、バンケイは怒鳴る。相手は答えないまま、手綱を引いて馬首を返した。

「おい、待て!」

 引き止めようと槍を伸ばしたが、間に合わない。敵はバンケイには目もくれず、マツバ姫とテシカガの後を追って走り去っていく。

 彼は敵兵のただ中に独り、取り残された。槍で突きまくって囲いを抜けようとするが、雑魚とは言え多勢に無勢、そう簡単にはいかない。

「ああ、くそ、やっぱり馬が」

 するとまた、蹄の音が近づいてくる。今度は川のほうからだ。

「おおーい、バン!」

 仲間の一人が葦毛の馬に乗り、雑兵を蹴散らしながら駆けてきた。バンケイの間近まで来て手綱を引くと鞍から飛び降り、「使え」と言う。三年前に四関しのせきを共に守った、バンケイを超える巨漢の同志だった。ちなみにもっと昔には、二人で馬泥棒をしていた時期もある。

「いい、仕入れたじゃねえか」

 バンケイはすぐさまあぶみに足をかけて、鞍によじ登った。が、走りだすまでに、彼には珍しい一瞬の躊躇がある。同志が後ろから笑い飛ばした。

「蠅にかまってる場合じゃねえだろうが」

 巨漢はそう言うと、徒手空拳で雑兵たちの群れに飛びこみ、怪力を振るって人垣を切り崩していく。

 バンケイはもはや振り返りもせずに、力をこめて馬腹を蹴った。


 一方そのころ、テシカガはマツバ姫の後に付き従って、敵軍の懐深くに入りこんでいた。

 大将旗の下にいる敵将が自分たちの標的ではないと気づいたのは、矢の一斉射撃を行っている最中だった。手がかりとなったのは、急襲に慌てた敵兵たちの動き。彼らが真っ先に守ろうとしたのは、白馬の将よりも十騎ばかり後方にいる、栗毛の馬に騎乗した別の男だったのだ。

 大軍の総大将とは思えぬ飾り気のない装いではあったが、よく見れば確かに公子クドオその人だ。以前、彼は人目を忍ぶために腹心ヒヤマ・ゼンの従者になりすましたことがあった。しかし公に軍を率いるときにまで目立たぬ身なりを選ぶというのは、普段からよほど用心しているのか、それともただの渋好みなのか。

 ともあれ周囲の部下たちに促されて矢の飛んでくる方角から遠ざかっていく男こそが、真の標的に違いなかった。林を飛び出したマツバ姫はまっすぐに彼を追い、テシカガも後れないように必死でついていった。

 そして今、ついに両国の王子と王女が対峙の時を迎える。

 公子クドオは、奇襲隊の先頭を切って追いすがってくる黒兜の若武者を一目見るなり、逃げるのをやめた。周りの制止を振り切って、まるで追っ手を迎え入れるかのように、単騎で進み出てきたのだ。その顔にははっきりと、喜びの表情が浮かんでいた。

 マツバ姫は手綱を引き、標的の前に馬を止めた。こちらもまた、一介の騎兵としか見えぬ簡素な出で立ちだ。ただ一つ、右手に抜き放った紅の宝剣を除いては。

「何と素晴らしい日だ」

 公子クドオは姫に向かって高らかに言う。

「貴女にお会いできるとは、はるばる出向いた甲斐があったというものだ」

「久闊を叙するいとまはございませぬ」

 マツバ姫の声は平坦だった。その表情は、テシカガの位置からはうかがえない。

「我が剣、受けて立つ覚悟はおありか?」

「これはまたとない機会。逃す法はない」

 公子の顔から笑みが消え、「手を出すな」と左右に命じる。姫もまたテシカガに対し、目顔で加勢を禁じた。

 二人の一騎打ちは、ほとんど互角の戦いと言ってよいものだった。剣の腕も、堅い防御も、馬の操縦も、互いに一歩も引けを取らない。ただ乗り馬が小さい分、接近するとマツバ姫のほうが相手を見上げる体勢になる。テシカガは内心、気が気でなかった。

 だが姫の全身から炎のように立ち昇る気魄は、公子のそれを凌駕していた。迫り合う鍔を渾身の力で押し返すと、ようやく相手の胴に一瞬の隙が生まれる。

 白刃一閃、姫の腕が水平に風を切った。

 防ぎきれない。公子は上体をのけぞらせて、危うく切っ先を避ける。避けた結果――。

 鞍上で体勢を崩した彼は、そのまま背中から転落せざるを得ない。

 うっ、と、敵兵たちが唸る。やった、とテシカガは思った。

 地面に落ちた公子は受け身を取ってすぐに身を起こしたが、そのときすでにマツバ姫は、馬上に大きく剣を振りかぶっていた。

 しかし。

「我が君!」

 疾風が、テシカガのすぐ脇を吹き過ぎる。

 白馬に乗った騎士が、猛烈な勢いで二人の間に割って入った。ほとんど駒ごとぶつかるようにして、マツバ姫の前に立ちはだかる。

 ヒヤマ・ゼン。

 彼は後ろの部下たちに、主君を保護するように命じた。その声は怒りに満ちて、本人にすら有無を言わせない。兵たちは慌てて公子クドオを取り巻いて馬に乗せ、強引にどこかへ連れ去っていく。

 マツバ姫が追おうとするが、ヒヤマがそれを許さない。

「館さま!」

 ここに及んで、テシカガの体は、思考よりも速く動いた。気づけば、たった今ヒヤマが目の前でやって見せたことを、そのまま模倣していた。主君と敵将の間に馬ごと飛びこんで、

「お行きください。公子を!」

 今までの人生に、これほど声を荒げたことはない。それから間を置かず、背後から蹄の音が遠ざかっていった。

 目の前は、公子の右腕と呼ばれる猛将。さらにいつの間にか、美浜の兵が二重三重に周りを取り囲んでいた。

「久しいな、テシカガどの」

 ヒヤマは笑う。残忍な笑みだ。光沢のある鎧兜を身に着けた男は、三年前に客として応対した慶賀の使者とは別人だった。友好を装う必要のなくなった今の彼にとって、テシカガの命など塵ほどの価値もないのだろう。

「よもや貴殿とこのような形でまみえるとはな。無論、生きて帰れるなどとは思っておられまい。されば、く片を付けるとしよう」

 テシカガに答える言葉はない。握った剣柄と手のひらの間に、滝のように汗が湧いた。

 この豪傑に勝つ見込みなど、万に一つもあるとは思えない。それでも、彼をここに引き留めることができれば、その間にマツバ姫が公子クドオを仕留められるかもしれない。

 余裕の表情を浮かべたヒヤマに、テシカガは無心で斬りかかっていった。愛妻のあつらえてくれた剣はしっくりと手になじみ、初めての実戦とは思えないほど滑らかに動く。騎乗する豆駒もまた、まるで山中で落馬させた埋め合わせでもするかのように、乗り手とぴったり息を合わせて駆け回る。

 それらすべての波長が噛み合ったとき――あるいは、圧倒的に優位に立つヒヤマにも油断があったか――奇跡は起こる。

 敵の刃を間一髪でかわしたテシカガの手元に鋭い光がひらめき、次の瞬間、彼の突き出した切っ先は、回避しがたい角度から敵の顔面へ迫った。

 相手の顔から、笑みが失せた。代わりにその左側の頬には、鮮明な赤い筋が走っていた。

「……?」

 ヒヤマは攻撃の手を止め、指先で自らの頬に触れた。傷は深くはない。しかし顎の横からもみ上げのあたりまで裂けた皮膚から流れ出る鮮血を目にした途端、

「……この、鍋底の山猿が……」

 目つきが一変した。そして、先ほどまでの冷静な太刀筋とは打って変わって、たがが外れたかのような猛攻が始まった。

 テシカガは防戦一方となり、瞬く間に追いつめられていく。奇跡は、二度は起こらない。激しく刃を打ち合わせるうちに手がしびれ、ついには剣を取り落としてしまった。

 もう限界だ。

 容赦なく剣を振り上げるヒヤマの動きが、ひどくゆっくりとしたものに見える。

 避けられない。

 あきらめの気持ちに打たれたそのとき、突然、細長い棒状のものが視界を横切った。

 テシカガの目の前でヒヤマの剣先とぶつかり、火花を発したそれは、赤い血糊にまみれた長槍の穂先だった。そして柄を握っていたのは、みすぼらしい身なりに似合わぬ立派な葦毛馬にまたがった、髭面の大男。

「やっと見つけたぜ、浮気者。てめえの相手は、この俺だろうが」

 ヒヤマが血走った目で闖入者を睨みつける。その左頬ににじんだ血を見て、バンケイは可笑しそうに笑った。

「へっ、何だよ、こんなか弱い坊やに怪我させられちまったのかい。案外、大したことねえな」

 本来のヒヤマ・ゼンであれば、この程度の挑発に我を忘れることなどなかっただろう。だが彼は傷のことがよほど癇に障るらしく、憤怒の矛先はバンケイに向けられた。

 テシカガは呆然と、この成り行きを見守っていた。しかしバンケイが背中越しに、

「何やってんだ、とっとと行けよ」

「しかし、おまえ……」

「そっちにゃそっちの役目があんだろ」

 これですべてが通じた。テシカガは黙って頷くと、豆駒を励まし、取り囲む敵兵の一角を強行突破してマツバ姫の後を追った。


 その姿を横目に見送ったバンケイは、再び白馬の敵将と向かい合う。

 だが、今度は馬がある。それも豆駒ではなく、敵の白馬にも劣らない駿馬だ。これなら、条件は申し分ない。

「そう言やあ、名前を訊かれたっけな。俺ァ、バンケイってんだ」

 今さらながら名乗りを上げると、

「ヒヤマ・ゼンだ」

 敵将も、いくらか落ち着きを取り戻したか、低い声で応じる。が、眼差しにはまだ、どす黒い悪意が渦巻いたままだ。

「あのまま尾を巻いて逃げ去ればよかったものを。よほど死に急いでいると見えるな」

 ヒヤマの皮肉に、へっ、とバンケイは吐き捨てるように笑う。

「ならば望みどおり、冥土に送ってやろう」

「さぁて、それはどうだかな」

 手のひらに唾を吐いて、槍の柄を握りしめる。ここに来るまでに何人もの返り血を浴びて、すでに腕まで赤く染まっていた。

「悪いが俺は、こんなとこで死ぬ気はねえんだ」

 言い放つバンケイの脳裏には、田舎に残してきた家族の姿がくっきりと浮かんでいた。国を発つ前に一度、窪沼くぼぬまへ立ち寄ったにもかかわらず、結局は顔を合わせずに来てしまった娘たち、妻、年老いた母。

 こんなことを思うのは、おそらく人生で初めてだろう。

――死ぬならもう一度、あいつらに会ってからだ。

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