第5章 風と水

5-1

 湿気を帯びた風が平野を吹き渡り、大量の草葉を運んでくる。それらの多くは途中の茂みに絡めとられていくが、林の中まで吹きこんでくるものもあった。

 妙だな、とテシカガは思った。乾いた枯れ葉ならともかく、まだ艶のある緑の葉が何枚も飛んでくる。拾ってみると、葉の真ん中に、明らかに人の手で破られたと思われる穴が開いていた。細く裂いたり、折り目をつけたりしたものもあった。

 そのうちに、ちぎった布の切れ端のようなものまで舞いこみ始めたので、マツバ姫に報告することにした。

「バンケイからの便りか」

 姫は黒い兜の下で笑みを浮かべた。この数日間でいくらか頬が痩せて、切れ長の眼がいっそう鋭くなっている。

「風に託して返事を寄越すとは、あやつ、存外に洒落たことをするものだな」

 猟師に教えられた尾根沿いの山道をひたすら進み、四関しのせきの間近まで来てから下山した一行は、おおむね予定どおりに目的地へ到着していた。

 とは言え、雨を押しての行軍は危険を伴った。乗っていた豆駒まめごまが足を滑らせて体勢を崩し、落馬した者もある。が、当人が落馬慣れしていたおかげもあってか、軽い打ち身で済んで大事には至らなかった。そしてついに、出国して以降は一人も欠けることなく、バンケイ隊との約束の期日を迎えたのだった。

 磐割原いわりのはらを挟んだ向こう側には、見晴らしのよい河原が広がっている。集団が隠れるようなところはほとんど見当たらないが、美浜みはま軍が陸橋を建造する際に設けたとおぼしき作事場の痕跡として、使い残しの材木だの用済みの足場だのが寄せ置かれた一角がある。その物陰に人影らしきものが見えると、木の上で遠眼鏡をのぞいた隊士は報告した。

 そこでテシカガは剣を抜き、雲間から射す日光を刃に反射させて、合図を送ってみた。しかしいくら待っても応答はなく、訝しく思っていたところに、くだんの草葉が大量に飛ばされてきたというわけだ。

「こんな、どこへ飛んでいくかもわからないもので返事など」

 落馬した時に打った尻を無意識にさすりながら、テシカガはつい非難めいた言葉を口にする。

「そう言うな。なかなかよい手ではないか。光の反射は、うまくやらねば物見塔ものみのとうから気づかれぬとも限らぬからな。刀剣を扱い慣れぬ者には、むしろこのほうが安全かもしれぬ。もっとも、風上からの合図にしか使えぬが」

 姫から言われて、テシカガは四関の方角に目を向けた。彼の立つ位置からは、木立にさえぎられてしまい、崖上にそびえ立つ砦の姿はほとんど見えない。

「それに、退屈なのであろうよ」

「退屈?」

「敵がなかなか参らぬゆえ、手持ち無沙汰なのだ。だからこんな小細工をして、無聊を慰めている」

「こんなときに、何と不謹慎な……」

 とは言いつつも、内心では納得するところもあった。ただでさえ、じっと身を潜めて敵を待ち構えるのは神経を消耗する。まして、自分の生命と祖国の命運を賭けた戦の前だ。少しでも緊張を和らげるために、半ば遊びのような手作業をして気を紛らわせるというのは、実は理に適っているのかもしれない。

 悔しいが、あの粗野な男は、自分よりも将としての資質に恵まれているようだ。

「少しはバンケイを認めてやる気になったか?」

 マツバ姫がテシカガの心中を察して問う。

「認めるも何も……ほかならぬ館さまのお眼鏡に狂いなどあるはずもありません。ただ、あの横柄な態度が気に入らないというだけです。それに」

「それに?」

「借金をして酒を飲んだり、盗賊まがいのことをして暮らしてきた男なのでしょう。そんな不埒者に、大事を任せるというのが、どうにも私には」

 ははあ、と姫は合点した様子で頷いた。

亡父ちちにたたきこまれた勤勉なる商人あきんど気質かたぎが、あやつのやくざな生きかたを許せぬというわけか」

「そう言われれば、そういうことかもしれません」

 自分でも意識していなかった心理を看破されて、急に冷や水を浴びたような心地になる。

「あの……、そういう目で相手を見てしまうのは、武人として狭量に過ぎるでしょうか」

「さようなことはない。そなたにも譲れないものがあると知って、むしろ頼もしく思うぞ」

「それは、あの、もったいないお言葉です」

 テシカガがほっとして答えたそのとき、隊長、と緊迫した声が降ってきた。

 声の主は、木の上で物見をしている隊士だった。遠眼鏡をのぞいたままの横顔を見れば、何も言わなくとも事態は察せられる。

 東南の方角から、人馬の気配が近づいているのだ。一同が待ちかねていた、美浜軍の本隊が。

「公子クドオの姿は見えるか」

もやがかかっておりますので、まだそこまではっきりとは」

 と隊士は一旦言葉を濁したが、しばらくすると興奮した様子で再び口を開いた。

「大将旗が見えました。先頭から数騎後ろです。大波と、大蛇のような海獣の絵……あれは紛れもなく、美浜の国旗。飾りのある白馬に乗った、身なりの立派な大将の姿も、そのすぐそばに」

 標的が先頭近くにいるのは、奇襲を行うには好都合だ。続いてテシカガは、別の木に登って四関を見張っている隊士に尋ねた。

「そちらのほうはどうだ」

「城門付近、城壁の上も、敵兵の様子に特段の変わりはありません」

 物見塔を備えた四関では、もっと早い段階から本隊の到来を知っていたはずだ。今の時点で動きがないとするなら、どうやら出迎えの儀礼などを行うつもりはないらしい。

「オニビラが多くの兵を引き連れて出ていったがゆえに、留守の人数にゆとりがないのであろう。存外、砦の内は、陸橋を造らせた人足ばかりなのかもしれぬ」

「アモイどののおかげですね」

「いかなる手を使ったものやら。敵を挑発しておびき出すなど、あやつの柄ではないと思っていたがな」

 マツバ姫は自らの馬の鼻面を撫でながら、皮肉めいた笑みを浮かべる。

 昨日、山を下る途中で、けたたましい喇叭らっぱの音が吹き鳴らされるのを耳にした。本来ならば総大将が到着するのを待って進軍を再開すべきところだろうに、待ちきれずに飛び出していったのは、山峡やまかい軍の巧みな誘導が奏功したからに違いない。敵の先鋒オニビラは、もともと気の短い荒武者だ。ただでさえ陸橋の建造のために足止めされてうずうずしていたこともあり、アモイの挑発にまんまと引っかかったのだろう。

 ひとまず、ここまでは計算どおりだ。

 テシカガは林の中で待機している隊士たちへ、配置につくよう命じた。

 若者たちは行軍の疲れをものともせず、敏捷に動きだした。林の際にそれぞれの豆駒を連れて並び、頭を低くして弓矢を用意する。

 マツバ姫とテシカガも、最も戦場の状況が見やすい前列へ立った。木の幹に身を添わせて様子をうかがうと、敵軍の姿は、すでに肉眼でもとらえられる距離に近づいている。

 心臓が早鐘を打ち、足が震える。しかし意外にも、恐怖という感覚はない。では、この腹の底から沸き上がってくるものは何なのだろうか。テシカガは目を閉じ、胸の奥まで空気を吸いこんだ。

「皆の者、よいか。矢は立て続けに三本だ。その後は、一斉にあの大将旗を目指して駆ける。狙うは公子クドオただ一人、そのほかは相手にするな」

 マツバ姫の言葉を、隊士たちは息を詰めて聴いている。

「敵兵に道を阻まれた者は、退路を断たれる前にかわして逃れよ。くれぐれも川のほうへ抜けるのではなく、この林へ馳せ戻るように。さすれば敵は深追いして参らぬ」

 目的を果たせず、しかも仲間を敵軍の渦中に置いたまま逃げることなどできようはずがない。そう言いたげな気配を察してか、姫は繰り返し念を押した。

「各々に与えられた機会は一度きりと心得て、ゆめゆめ執着してはならぬ。食い下がったところで、後ろから駆けつける大軍に囲まれて、犬死にするだけのこと。それよりは他の者に望みを託し、己は生き延びる道を採れ。いずれまた別の日に、功名を立てる機会が訪れよう」

「首尾よく、敵将を討ち取ったときは」

 姫の間近にいる年若い隊士が尋ねる。その声が震えを帯びているのは、やはり恐れとは別の感情からなのだろうとテシカガは思った。

「自ら、あるいは他の誰かが公子クドオを討ったときは、なおさらすみやかに退却せよ。指図は下さぬ。ただ己が命を守り、敵の追っ手から逃れ、何としても国元に戻って、御嶺ごりょうの君に事の次第を伝えるのだ」

 隊士たちは無言だった。指図を待たずに退却せよ──その意味するところを、誰もが心中に推し量ったに違いない。

 よいな、とマツバ姫が念を押し、一同はようやく悲壮な表情で頷いた。

「では、号令を頼むぞ、テシカガ」

「え」

「え、ではない。隊長の役目であろう」

 この期に及んで隊長面をするのもおこがましい気がしたが、姫は真顔だった。その眼はすでに敵軍に向けられ、静かな中にも研ぎ澄まされた戦意が全身から立ち昇っている。

 ああ、そうか。テシカガは、不意にアモイのことを思った。マツバ姫を生涯の主君と仰いでいたにもかかわらず、彼女を差し置いて国の頂点に立った、その胸の内を一端なりとも理解できたように感じた。主に優る地位に就くこともまた、主への忠誠のために引き受けた責務だったのだ。

 そんなアモイの代わりとして、自分はこの奇襲隊に加わった。とすれば、返答の言葉に迷う余地はない。

「承知しました」

 テシカガは頷くと、再び木陰から戦場へ目を向けた。

 海神の旗印を先頭に掲げた美浜の隊列は、細く長く、どこまでも続いている。見るからに壮麗な行列だ。敵地に赴くというよりは、むしろ領内を視察にでも訪れるかのように、整然と落ち着き払った足取り。あの調子で道々の領民に威風を示しながらやってきたのなら、都を発ってからここまでに長い日数を要したのも頷ける。

 今、その足並みに、ごく微かな乱れが生じた──最初は先頭を行く数人の歩兵にだけ、しかし次第に、後続の兵たちにも広がっていく。

 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。この荒涼とした吹きさらしの平原に、訓練の行き届いた美浜の兵団を動揺させるような物事が起こりうるとすれば、それは何なのか。

「バンケイのやつめ……」

 マツバ姫が隣でつぶやくのを聞いて、川辺の作事場跡のほうへ目を凝らす。そのとき初めて、まるで倒木に生え出た茸のように、いくつもの人影が知らぬ間に出現しているのに気がついた。

 隊士から差し出された遠眼鏡をのぞいて、テシカガは唖然とする。そこにいたのは、ボロボロの衣服に伸ばし放題の頭髪、見るからに汚らしい風体の浮浪者たちだった。弓も剣も持たず、具足も身につけず、中にはほとんど裸同然の者も交じっている。

 徒党を組んでいるというほどの人数でもなければ、まとまりもない。丸太の上に横臥したりあぐらをかいたり、足場の木組みにぶら下がったりと、いずれもだらしのない姿勢で、美浜軍の行進する様子を眺めている。敵意も敬意も示さず、ただ退屈そうに欠伸などしながら、身ぎれいな兵士たちが行き過ぎるのを黙って見下ろしているのだ。

「まったく、あやつらしい手だ。見よ、あの足軽ども、平気な顔を装っているが、隊列に隙が生まれている」

 姫がまたもバンケイを誉める。しかし、この奇策を考えた当の本人は、どこにいるのだろう。作事場のあたりを見回しても、あの髭面が見当たらない。

 あきらめて遠眼鏡から目を離した瞬間、不意に彼の姿が視界の隅に飛びこんできた。ひときわ目を引く大きな図体をした浮浪者の親玉は、仲間たちから一人だけ離れた場所に寝転んでいたのだが、その場所というのが、四関へ登っていく陸橋の中途。つまり、美浜軍の進路上だったのだ。

 テシカガは呆気にとられて声も出なかったが、マツバ姫はこらえかねたように、喉元だけでくっと笑った。

「テシカガ。そなた先ほど、わたしの目利きを信じると申したな」

「え……、はい、もちろんです」

「わたしも、自らの人を見る眼を信じている。そしてテシカガ、そなたもまた、わたしがこの眼で見込んだ男だ」

 マツバ姫はそう言うと、長い脚を軽やかに跳ね上げて、豆駒にまたがった。

 美浜軍は、陸橋のたもと近くで足を止める。生きているのか死んでいるのかもわからない、ボロ雑巾のような男の体が行く手を阻んでいるのを認めて、槍を持った歩兵が二人、列を離れて歩み寄っていった。後ろでは、派手な大将旗が風をはらんで膨らんでいる。

 その旗を目標に、林の中の隊士たちは、矢をつがえた弓を引きしぼる。そして息を殺して、テシカガの号令を待つ。

 橋の上で大の字になっていたバンケイが、足音にふと目を覚ましたとでもいうような仕草で、顔を上げた。

 と同時に、川のほうから断続的に吹き続けてきた向かい風が、はたと止んだ。雄々しくたなびいていた美浜の国旗は支柱から垂れ下がり、海神の肖像も隠れて見えなくなった。

 テシカガは、腕をまっすぐに前へ差し出し、号令を発した。

「放て!」

 腹の底から響いた声に、もはや震えはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る