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 テシカガ・シウロの父は義理人情に厚く、同時に損得を見極める目にも長けた、尊敬すべき商売人だった。得意客からも同業者からも信頼を集めるその姿は、幼心にも誇らしく思えたものだ。

 一方でテシカガ少年には、どう頑張っても父のようにはなれそうもないという自覚もあった。実家の小間物屋は西陵せいりょう城下では老舗の大店であるから、子どものうちから商いのしかたをみっちりと教えられたが、学べば学ぶほど自分には向いていない気がしてならない。そうしてますます、武の道に心を惹かれていった。

 十代も半ばを過ぎてから、ついに一念発起して本格的に道場へ通い始めた。店を継ぐはずだった長男の突然の転向を、もちろん父は喜ばなかった。と言って勘当するわけでもなく、さほど強硬に止めだてもしなかったのは、もしかしたら始めから次男坊のほうが商才に恵まれていると見込んでいたのかもしれない。

 実際、すぐ下の弟は抜け目がなく世渡り上手な性質たちで、店の仕事にも早いうちから興味を持っていた。つまり、テシカガの進路変更は、誰の利害にも反しない選択だったのだ。

 ただ誤算だったことには、商道を捨てて武道を選んだ彼に、武人としての素質が欠けていた。おかげで仕官の口は、なかなか見つからなかった。折しも城主がマツバ姫に代わって幾年か経ったころで、西陵の地には腕自慢の若者が次々と集まり、登用試験の競争率は上がるばかりで一向に採用される見通しが立たない。結局、何をして暮らしていたかと言うと、実家の商店を手伝っていたのである。

 そんなある日、旅姿の剣士二人が店に立ち寄り、テシカガが応対をした。いずれも風格のある若武者ぶりで憧憬の念が抑えきれず、つい世間話に興が乗って、道場で剣術を学んでいると口を滑らせた。すると客の片方が、「それは面白い、一度手合わせ願おうか」と言いだしたのだ。

 店の裏手で木刀を持って向かい合ったはいいが、この細腕の若者がまた、道場の師匠よりもはるかに強い。まるで勝負にならず、いつの間にか稽古をつけてもらっているような具合になった。しまいにテシカガは地面に手をついて、「勉強になりました」と礼を言ったのだった。

 客は上機嫌で、店一番の上等なかんざしを買っていった。「道場通いが商売の役に立つこともあるのだなあ」などとのんきに見送った、その数日後、いきなりテシカガは城に召し出されることになる。剣の腕はともかく、算盤そろばんを弾けるということで、内勤の役人として仕官を許されたのだ。

 言うまでもなくその客というのは時の西陵城主・マツバ姫の男装した姿で、連れの若武者はアモイだった。

 何しろ食いつめ者の道楽息子が突如として城主さまに見出されたのだから、実家は大騒ぎになった。中でも父親の喜びようはテシカガ本人が戸惑うほどで、どうやら内心では不肖の長男の行く末をよほど案じていたらしい。その翌年に病を得て呆気なく亡くなった父への、最大にして最後となった親孝行。すべてはマツバ姫との出会いのおかげだった。

 彼女にとって、町で目に留まった者を気まぐれに拾うのは、数ある趣味のうちの一つでしかないのかもしれない。だが拾われる側にとっては、千載一遇の奇跡なのだ。孤児みなしごだったユウにとっても、そしておそらくは、あのバンケイという無頼漢にしても……。

――そう言えばあの男は、無事に戦場への道中を進んでいるだろうか?

 憎らしい髭面が思い浮かんだ瞬間に、我に返った。

 目の前に燃えていたはずの焚き火は、白い灰になっていた。空に瞬いていた星々の輝きは失せて、東の空がうっすらと白み始めている。すぐ横のむしろに雑魚寝していた隊士たちの姿が見えない。

 慌てて立ち上がると、いつの間に掛けられていたものか、毛皮の袖無し羽織が背中から滑り落ちた。

「いや、やはり宙に浮いて寝るというのは、落ち着かぬものだな。床を借りておいて、文句は言えぬが」

 小屋の中ではマツバ姫が早くも具足を身につけ、兜だけを横に置いて胡座をかいていた。板の間には、粟の握り飯と漬け物が欠けた皿に用意されている。

「揺れませんでしたか?」

 梁からぶら下がる布製の吊り床を見やって、テシカガは尋ねた。

「揺れたとも。寝返りを打つにも苦労した。まるで昨夜の猪にでもなった気分であったぞ」

 と言いつつ、愉快そうにからからと笑う姫の表情からは、見事に疲労の色が消えている。

 猟師の妻は外へ出て、隊士たちに握り飯を配っている。夫のほうの姿は見えない。毎朝の習慣で、仕掛けてある罠の見回りに出ているとのことだった。

 テシカガは自分の背中に掛けられていた羽織を畳んで置き、握り飯を頬張る。寝ずの番をするつもりで眠ってしまった情けなさ、夫婦の親切心を疑ってしまった申し訳なさをもろともに飲み下し、ともかくもマツバ姫が無事であることに安堵する。

 姫も美味そうに粟飯を食い、漬け物をかじりながら、

「娘が一人、あるそうだ」

 と言った。

「娘。あの夫婦にですか?」

「何年も前に、里に嫁いだようだがな。美浜みはまが攻めてくるまでは、互いによく行き来していたそうだ」

 嫁ぎ先は山を下りてすぐのところにある集落で、稼ぎのいい職人の家らしい。夫婦仲がよく、仕事の合間を縫っては二人で手土産を持って顔を見せたものだという。

 しかしその村は、美浜との国境からほど近くにあった。戦が始まったとき、村人たちは傍観者ではいられなかった。家や田畑を守るために多くの若者が志願して前線に立ち、その中には猟師夫妻の娘婿も含まれていた。

 不幸中の幸いと言うべきか、美浜軍は一気に都へ攻め上ったため、ひどく村を荒らされるようなことにはならなかった。戦が終わって生き残った男たちも帰り、ひとまずは平穏を取り戻している。ただ彼らの娘婿を含む幾人かの若者は敵の捕虜となり、未だ戻っていないそうだ。

「その娘は、今も里に住んでいるのですか」

「戦のさなかに息子を産んで――かれらにとっては、孫だな。夫の家族と共にその子を育てながら、生死もわからぬ夫の帰りを待ち暮らしているそうな」

「そうでしたか……」

 そんな話を聞いたせいだろうか、部屋の隅に積まれた雑多な生活用具の中に、場違いに飾られた人形があるのに目が留まった。

 どうやら手作りらしい。丸い顔に目鼻が彫られ、柱状の胴体に棒状の手足がついて、端切れを縫い合わせた衣服を着せられている。

「娘が幼いときに作ってやったものだと、申していたな」

 テシカガの視線に気づいて、マツバ姫は代わりに説明する。

「しかし……、この首飾りは、最近のものと見えるな」

 姫は人形に手を伸ばし、その首から吊り下がっているものに指で触れる。小さな貝殻が二、三個、細い糸の先で微かに揺れた。

 そのときの姫の横顔に、テシカガはふと違和感を覚えた。猪から逃れる際に負った引っ掻き傷が、赤い線になって残っている頬。三年の御殿暮らしでせっかく白くなったのに、ここ数日の行軍ですっかり焼けてしまった肌の色。すり切れた紐に結わえられた赤珊瑚の艶めく胸元。いや、もっと大きな変化が、彼女の外見に表れていた。

 一体、いつからだろう。振り返れば昨夜、この場所で猪肉を食べていたときから。さらに記憶をたどれば、灌木の茂みから救い出され、罠の中でもがく獣を見上げていた面にも、すでには起こっていた。

 テシカガが最後にそれを目撃したのは、まだ国境を越える前、祖国で最後の休憩をとったときのことだ。自らの兜を脱いで小石を入れ、くじにして隊士たちに引かせていたマツバ姫の横顔を思い起こして、ようやく確信する。

 あのときはまだ、確かにあった。揺らめく銀色の光が、彼女の両耳に。

「館さま……」

「うん?」

「実は、気になっていたのです。昨日、西府さいふへ届けるようにお命じになった、あの小包のことが」

 手のひらに収まるほどの小さな紙の包みを、中身を見ずまた誰にも見せず、西陵城にいる侍女に渡せと――。足を挫いた若者を隊から離脱させ、代わりに与えた奇妙な密命。あの紙包みのわずかに膨らんだ形状は、姫の身につけていた銀の耳環が入っていたと考えれば腑に落ちる。

 しかし、だとすれば、新たな疑問が湧いてくる。耳朶に穴を穿って円環を通すのは、正式な婚儀を経た妻の証だ。それを手放して城へ送ったとするなら、そこには一体どのような意味がこめられているのか。

「ああ、あれのことか。なに、大したものではない」

 姫はまだ人形を眺めながら、事も無げに言い放つ。

「ともかく何か重大な務めと信じこませて、無事に城まで帰らせねばならぬと思うてな。あれものようなものよ。無念のあまり、自刃でもされてはかなわぬではないか」

 冗談めかしているが、口調にはどこか有無を言わせぬ響きがある。テシカガにはそれ以上、追及することはできなかった。

 二人が兜をかぶって外へ出ると、隊士たちもすでに食事を終え、馬と共に整列していた。いつの間にか猟師も戻ってきていて、天気が下っていきそうだから早めに発ったほうがよいと勧める。道案内はできないと昨夜は言っていたが、「あちこちに罠張ってっから、踏まれても困る」と、尾根伝いを行く山道の入り口まで同行してくれることになった。

 猟師の妻に見送られ、一行は馬にまたがって出立した。先導する猟師が徒歩であるため足取りは緩やかだったが、道に迷う恐れがない分、むしろ効率的な行軍ではあった。

 獣道は幾度も分岐し、そのたびに道は急峻になっていったが、幸いにも豆駒まめごまが音を上げることはなかった。隊士たちと同様、馬たちも充分な水と草と休息を与えられたおかげで、鋭気がよみがえったようだった。

「ご亭主」

 猟師の歩く隣に馬をつけて、マツバ姫が声をかける。

「貝殻売りの行商が、小屋へ立ち寄ったことはないか」

「貝殻屋かい。こないだ、泊まっていった」

「知り合いか」

「知ってるというほどでないけども。たまーに、顔を見せるんだわ」

 テシカガは二人の会話を黙って聞きながら、人形の首にかかっていた貝殻飾りを思い浮かべた。

「あの人は年中あちこち歩き回って、わしらの知らん土地のこともよく知ってられる。いつも、鏡の都の話、聴かせてもらうんだ」

 鏡の都。猟師は自慢げにそう言った。美浜軍の手によって壊滅させられた北湖きたうみの都だが、彼の心の中では未だ健在であるらしい。

「わしらずっと山ん中に住んで、鏡の都がどんな立派なところか、見たこともないでな」

 北湖の人々の誇りである都の陥落は、それを直に目にした兵士たちの戦意を失わせるには充分だった。しかし猟師のような辺境の民にとって、麗しの都はもともとが想像の範疇にあって、現実のようにたやすく潰えるものではないようだった。

 南東の方角へ山道を随分と進んで、やや大きめの谷川に突き当たった。流れは速いが浅瀬であり、足を取られないように気をつけさえすれば、渡れないことはなさそうだ。

「降りだしてからでは、ここで足止めを食っていたかもしれぬな」

 マツバ姫が空を見上げて言う。夜明けの直後は朝日が見えていたが、猟師の言うとおり、次第に雲が厚くなってきている。

 この谷は昔から、美浜国と北湖国との境界と見なされてきたという。そして猟師にとっては、今も国境であることに変わりはない。彼とは、ここで別れることになった。

 テシカガは皆を代表して厚く礼を述べ、細君にもよろしく伝えてほしいと頼んだ。猟師は黙って頷いて、最後に一言、気をつけてなと言った。

 たとえ生き延びても、もう二度と会うことはないだろう。おそらくは互いにそう思いながら、北湖の民と山峡やまかいの一行は川を隔てて礼を交わした。

 来た道を引き返していく猟師の背中を見送ると、テシカガはマツバ姫を、次いで隊士たちを振り返った。深刻というわけではないが、どの顔も鋭く引きしまった表情をしている。

 ここからが、本当の敵地だ。

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