4-3
身の丈の大きな男だ。幅のある肩に弓と矢筒を担ぎ、手には槍を携えている。
隊士たちは皆、柄に手をかけて身構えた。
相手は林の中に立ち止まる。後ろに続く者の姿は見えず、一人のようだ。若くはない。濃い色の
足元では褐色の毛色をした猟犬が二頭、けたたましく吠えたてている。その標的は隊士たちではなく、網の中で暴れている獲物のほうだ。
猟師はしばらく何も言わずに立っていたが、やがて再び歩きだす。見知らぬ男たちの間をゆっくりと横切り、罠の傍らまでやってきた。猪を挟んで、テシカガやマツバ姫と向かい合う位置だ。
猪は犬の声にますます興奮し、激しく威嚇する。猟師は竹槍を両手に握り、獲物の心臓をめがけて強く突き上げた。恐ろしい悲鳴が轟いて、テシカガは思わず顔をしかめた。
間近に見る猟師は、たくましい体躯から想像していたよりも年かさで、初老と言ってよい年代だ。巨大な猪がどんなに足掻いても動じることなく、しっかりと竹槍を握っている。やがて悲鳴は断末魔に転じて、木々の揺れが治まった。
「こいつは、うちの畑を食い荒らす、厄介なやつでな」
血の滴る竹槍を下ろして、猟師はつぶやいた。独り言のような調子だが、声は太く大きい。そして聞き慣れない訛りがある。
猪の背に埋まっていた
ただ、その周りに武装した男たちの一団が待ち受けていたのは、さすがに予想外だったろう。
しかし猟師は落ち着いた様子で、まだ吠えている犬たちを「しぃっ」とたしなめると、自らを取り巻く不審者たちを眺め回す。その中からふとマツバ姫に目を留めて、
「あんたさんかい。こいつを罠へ誘いこんだのは」
隊士たちは警戒の姿勢をとったまま、テシカガに指示を仰ぐような目配せを送ってくる。相手は兵士ではないにしても、敵国の人間だ。怪しい一団を山中で見かけたと軍に届け出られでもしたら、隊は戦場にたどり着く前に道を阻まれ、全滅の憂き目に遭うかもしれない。
この猟師には何の恨みもないが、使命を果たすために、それしかないとしたら……。テシカガはまた、隊長としての決断を迫られた。
だが当の猟師は、自らの命が危機にあることなどつゆ知らぬ様子で、こんなことを言いだした。
「悪いが、もののついでに、こいつを下ろすのにも手を貸してくれんべか」
思いがけない願い出に戸惑っているうちに、猟師はさっさと自分で仕掛けを取り外しにかかる。しかもマツバ姫が真っ先に手伝い始めたので、テシカガと隊士たちも慌てて作業に加わった。
力を合わせて猪の巨体を地面に下ろすと、猟師は慣れた手つきで血抜きを済ませた。近くの茂みから粗末な板を引っ張り出してきたのは、どうやら
「どこまで運ぶ」
マツバ姫が尋ねた。
「そっちの
橇に取りつけた縄を握って、猟師は振り返る。
「そうまでしてくれんでも、随分助かった。何なら、ここで肉を切って分けてやるかい。罠に追いこんだあんたさんにも、分け前があって当然だもな」
猪肉にありつける、と知った途端に、隊士たちの目の色が変わる。夜が明けるまではまともな食事にありつけないとあきらめていた若者たちには、思いがけない朗報だ。
とは言え、目の前の肉に釣られてこの男を信用するというのは、いかがなものか。
テシカガはマツバ姫のそばに寄り、判断を仰ごうとした。しかし彼女は特に逡巡する様子もなく、あっさりと猟師の誘いに応じる。
「生肉もありがたいが、猪鍋ならばなおさら願ってもない」
この返事に猟師は頷くと、周りの隊士たちと共に、血の抜けた獲物を橇の上へ移し始めた。
館さま、とテシカガは姫にささやきかけた。
「いかがなさるおつもりです」
「向こうの出方次第だ」
マツバ姫は答えた。
「少なくとも、
「それはそうかもしれませんが……」
北湖国は二年前に滅ぼされ、この一帯は
とは言うものの、テシカガ自身、たまたま猪を狩りに来ただけの民を殺すというのは気が進まなかった。とすれば、今のところは相手の厚意に甘えるふりをして、監視を続けるほうがよさそうに思えた。
「わかりました」
猟師の白髪交じりの前髪を見ながら、テシカガは頷く。
「ひとまず様子を見ましょう、注意は怠らないようにして」
「うむ。あの橇、人手で引くのは難儀であろう。馬を貸してやれ」
「はっ」
テシカガは隊士たちに命じて窪地に隠した馬たちを連れてこさせ、その中から数頭を並べて、橇を引かせた。もともと荷駄馬である豆駒は、この手の仕事にはうってつけだ。
「こんな小こい馬っこ、初めて見たわ」
小屋への道を先導しながら、猟師は物珍しそうに何度も豆駒を顧みていた。
彼の言うとおり、少し歩くと谷川に行き当たり、そこから木立の中を下っていったところに、ぽつりと明かりが見えた。
集落ではなく、たった一軒だけ、みすぼらしい板張りの掘っ建て小屋が立っている。猟をするための仮小屋なのかと思ったら、裏に小さな畑があり、犬舎もあり、納屋らしきものもある。お世辞にも裕福とは言えないが、それなりに暮らせる設えは整っているようだ。
猟師は二頭の犬を犬舎に入れながら、「かあさんや」と怒鳴るような声で小屋の中に呼びかける。すると腰前掛けをした小柄な女が「はいはい」と戸口から出てきて、ピタリと立ち止まった。いきなり目の前に現れた若者の集団と、妙に小ぶりな馬たちと、橇に載せられた巨大な猪とを、目を丸くして見比べる。
「ほれ、おまえの植えた種芋を残らず食い散らかした、あの猪よ。この人がたが、仕留めるのに手を貸してくれてな」
「まあまあ、それはそれは。お世話さまでした」
この妻もまた、やたらと話が早い。
「見てのとおりのあばら家で、ろくなおもてなしもできませんけども、どうぞ楽になすってくださいな」
妻の声は若々しかったが、目尻には深い皺が刻まれている。その目を細めて朗らかに笑み、ひととおりの挨拶が済むと、さっそく炊事場に戻って猪鍋の準備に取りかかった。猟師のほうも、外で猪の臓腑を取り出し、毛皮を剥ぎ、慣れた手さばきで肉を切り分けていく。
テシカガは隊士たちに指示をして、谷川へ馬を連れていって水を飲ませたり、猟師やその妻の手伝いをさせたりした。
料理が出来上がるころには夜も更けて、月が上天にくっきりと浮き立っていた。山中の空気は、日が落ちるとぐっと冷えこんで、煮え立つ大鍋の湯気が殊更に白く見える。
小屋の前に焚き火を熾して車座になり、男たちは炊き合わされた猪肉と野菜と山菜とを無心で頬張った。
「我々のような素性の知れぬ者に、どうしてこのようなもてなしをしてくださるのですか?」
たまりかねて、テシカガは尋ねる。彼とマツバ姫の二人は小屋の中に招かれ、夫婦と共に鍋を囲んでいた。
小屋の内部には、炊事場のある土間のほかに、狭苦しい板の間が一つあるだけだ。笠やら蓑やら雑多な道具が壁に掛けられたり隅に積まれたりしていて、二人分が座れるぐらいの空間しかない。寝台も見当たらず、どこで寝るのかと思って見ると、梁に吊り床が渡してあった。
猟師は手作りと思しき椅子を土間に置いて座り、食後の煙草をふかしながらしばらく黙っていたが、
「別に、あんたがただけでない。ここを通る旅の人には、みんな
「旅人が、ここをよく通るのですか」
「いや、よくってほどは通らん」
猟師はまた、煙を一口、ゆっくりと含んだ。それから、テシカガとマツバ姫の顔を交互に見て、付け足した。
「それに、あんたがたは、青髪でないし」
この言葉に、二人は思わず顔を見合わせる。
最初に林の中で出くわしたとき、猟師が殊更にマツバ姫に目を留めたのは、彼女の頭髪が露わになっていたせいだったのだろうか。
とすれば夫婦にとって、青髪とはどういう存在なのだろう。尋ねるべきかどうか、テシカガは迷った。猟師自身はそれ以上を語らず、口から吐き出した煙の行方を眺めているばかりだ。
「あのう」
妻のほうがマツバ姫のそばに寄り、ためらいがちな小声で問う。
「もしかして、あんたさん、
「これ」
姫がまだ何とも答えないうちに、夫がたしなめる。
「何も話さんでいい。わしらも、何も知らんほうが楽だ。今夜はゆっくり休んで、夜が明けたら、旅の続きに出でなされ。里に出るなら、そこの沢をずうっと下っていけば、迷いはせん」
そこで猟師は言葉を切り、また少ししてから続けた。
「……もしも山路を行くつもりなら、馬っこにはちときついかもしれんが、尾根伝いに通っていけそうな道があるにはある。案内まではできんけども」
「いえいえ、これだけよくしていただければ充分です。お礼の申しようもありません」
テシカガが丁寧に腰を折ると、何も何も、と猟師は手を振り、煙管を置いて立ち上がった。
それから夫婦は、隊士たちの寝床として、家の前に何枚もの
さらに猟師は、自分が普段使っている吊り床をマツバ姫に貸してくれた。吊り床は二人分しかないので、彼は隊士たちと共に外で寝るという。姫は最初のうち遠慮していたが、テシカガの粘り強い説得により、猟師の妻と二人で小屋の中に眠ることに同意した。
夜空には星々が瞬いて、祖国で見るのと寸分変わらない位置に並んでいる。山懐の暗闇は深く、鳥獣の声や木々のざわめきが絶えず聞こえてくるが、温かい食事にありついたせいか、不思議と安らかな心地だった。
部下たちが雑魚寝する莚を横目に見ながら、テシカガは丸太切れに座って焚き火に手を当てる。
しかし眠るわけにはいかない、と肝に銘じる。もてなしてくれた夫婦には申し訳ないが、やはり完全に信用することはできない。マツバ姫と隊士たちが疲れを癒やしている間、自分が起きて見張らなければ。体力や武力ではおそらく隊の中で最も劣っている自分が、仮にも隊長として皆のためにできることと言えば、今はそれぐらいしか思いつかなかった。
焚き火はもう一箇所、莚を挟んだ向こう側にも燃えている。そちらは、猟師が火の番をしてくれていた。やはり丸木に腰かけて、ぼんやりと煙草をくゆらせ、時折のそのそと動きだしては新しい薪を火にくべる。
その赤く照らされた横顔を遠目に見ながら、ふと、死んだ父と同じぐらいの年代だろうか、と思った。
ぱちりと小さな音がして、膝先で火の粉が爆ぜた。
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