4-2

 洞穴は暗く長く、湿っぽい臭いがした。岩の隙間から水が染み出しているらしく、時に冷たい滴が肌の上に落ちてくることもあった。水溜りに足を滑らせたのも、一度や二度ではない。

 ところどころに人の手で掘られたような形跡もあるが、大半は自然に生まれた空洞らしい。右へ左へ、上へ下へと折れ曲がり、狭まったり広がったりを繰り返した。

 松明の光は、少なくとも安全な通行のためには、あまり役に立たなかった。しかし、ともかく明かりが見えるということは重要だ。もっともその灯火も、歩き続ける間に、いくつかは消えてしまった。先頭を行く隊士の持つものだけは、消えかかるたびに他から火を接いで、絶やさずに灯され続けた。

 その明かりだけを頼りに、一行はひたすら歩いた。ほとんど会話もなく、靴音と蹄の音と、豆駒まめごまの息遣いばかりが聞こえてくる。

 単調な闇は、過ぎる時間の感覚を失わせる。どの方角に、どれだけの距離を進んだのかも、よくわからない。テシカガはだんだん、夢でも見ているような心持ちになってきた。自分が奇襲隊の隊長となり、マツバ姫と共に敵地へ潜入するなどということが、現実に起こりうるだろうか。

 西陵せいりょう城に出仕する前、実家に養われながら道場に通っていたころには、そんな夢をよく見ていた気がする。襲いくる敵を自らの力で打ち倒して、大切な家族や仲間を救う。少年時代からずっと抱いてきた憧れが、今、果てない夢となって灯火の明かりに照らされているようだった。

――しかし、もしもこれが夢だとしたら、一体どこからが夢なのだろう。

 そんなことをふと思ったとき、先頭の隊士の声が闇の中に響いた。

「見えました、出口です……!」

 テシカガの位置からは、彼の見つけた希望の光を見ることはできない。しかし、ごく微かではあるが、前方から新鮮な空気が流れこんでくるのを鼻腔に感じ取った。

 洞穴の出口は入り口よりも狭く、岩と岩の間の、細い割れ目のようになっていた。先頭の隊士が外の様子を見に行き、残りの者は松明を消して、岩壁に張りつくようにして待機した。

 やがて偵察が戻ってきて言うには、周囲は木々に覆われた山中であり、ひとまず四方に人の気配は感じられないとのことだった。それでもやはり敵地への第一歩には違いなく、一人ずつ慎重に穴を出て、素早く近くの茂みに移っていった。テシカガも、自分の番を待って外へ踏み出した。

 今まさにその内側を通り抜けてきた山の峰が西日を遮り、辺りは日陰になっている。おかげで暗闇に慣れきった目を痛めることもなく、何度か瞬きをするだけで、すぐに草木の緑や茜がかった青天が見えてきた。

 テシカガは渋る豆駒を岩の割れ目から引っ張り出して、草深い木立の中へ分け入り、後に続く者たちを待ち受けた。

「やれやれ。母の胎内から、再び産まれ出でたかのような心持ちだ」

 後から出てきたマツバ姫はテシカガの隣に屈みこむと、冗談めかしてそう言った。さすがにその笑みにも、疲労の色は濃い。

 全員が無事に洞穴を出たのを確認すると、改めて何人かを周辺の様子を見に行かせた。だが日はすでに傾いていて、詳細を探るには遅い時分だった。まして、集団で山道を移動するのは賢明とは言えない。

 獣道を少し下ったところにやや大きな窪地があり、集団で身を隠すのに適しているという報告を受けて、今日のところはそこで野営することになった。

 男たちは藪の中をかき分け、下草を踏みつけて思い思いに座りこんだ。交わす言葉もなく、それぞれ水筒の残量を気にかけながら喉を潤す。そのそばで、馬たちもおとなしく草を食んだ。

 テシカガも草の根に尻をつき、前に足を投げ出した。爪先を小さな蛇が一匹、慌てて逃げていく。普段なら悲鳴をあげるところだが、そんな気力もなかった。

「穴を抜ける間に、いくらか下ったようだな」

 隣でマツバ姫がつぶやいた。兜も脱がずに木の幹に寄りかかり、片膝を立てている。

 闇の中を歩いている間は、道が上っているのか下っているのか、判然としなかった。しかし確かに、言われてみれば、穴に入る前よりも標高がやや低くなっているような気もする。

「だとすれば、その分、麓に近づいたということですよね」

 人のいる集落との間にどれだけの距離があるのか、急に心配になる。

「気に病んだところで、今宵はもうどうしようもあるまい。夜明けを待つのみだ」

「そうですね……とりあえず付近には、獣道しか見当たらなかったという話ですし」

 マツバ姫の肝の太さに感嘆しながら、テシカガは頷いた。

 明朝、薄暗いうちに周囲をよく調べてから、人家や街道に近づかないように山沿いを進めばよいのだ。山の向こう側に比べて斜面がなだらかなので、豆駒に乗っていけるだろう。そう考えれば、必ずしも悪い状況ではないはずだ。

 テシカガが自分に言い聞かせている最中に、事件は起きた。

「隊長……」

 窪地の外で見張りに立っていた隊士が、テシカガを呼ぶ。大きな声ではないが、張りつめた響きがあった。

 姫と顔を見合わせてから、テシカガはそっと腰を上げ、茂みの間から外を見た。だが視覚よりも先に、聴覚が不穏な気配を感じ取った。休んでいた隊士の中にも、緊張が広がる。

 腰のものに手をかけて、テシカガも男たちも、窪地の中で立ち上がった。――そしてそのまま、一点を見つめて硬直した。

 そこには、けだものの二つの目が猛々しく光っていた。地面すれすれの位置にある平たい鼻先から、黒い塚山のように盛り上がっていくつら、頭、くび、背。薄闇に紛れる暗い体色ながら、その粗い剛毛の一本一本が、呼吸に合わせて禍々しく膨らむのが見て取れる。牙の間から、息のような、唸りのようなものが漏れ聞こえた。

「猪……?」

 自らの言葉を、テシカガは疑った。これほど巨大な猪は、山峡やまかいでは見たことも聞いたこともない。豆駒たちが怯えていなないた。

「皆、動くでない」

 背後から低い声が制した。顔だけ動かして顧みれば、マツバ姫はまだ、先ほどまでと同じ姿勢で地面に座っている。

「用がなければ去るはずだ」

 だがその言葉に反して、猪は去ろうとしなかった。ひどく昂って、まるで何か攻撃する対象を探してでもいるかのように見える。

 その理由を、テシカガはすぐに察した。猪は背の左側から、黒ずんだ血を流していたのだ。折れた矢の根が、束子たわしのような毛皮の中に埋もれているのも見える。

 手負いの獣は鼻先でそこらの石を乱暴に掘り返し、草を蹴散らし、柄に手をかけた男たちをにらみつけた。そして何を思ったか、おもむろにぐっと顎を引くと、窪地のほうへ向かって突進してきた。

 よけるわけにはいかない。後ろにはマツバ姫がいる。しかし、では、どうすればいいのか。

 逡巡している間に、見張りの隊士が剣を抜いて、猪の背に斬りかかった。よせ、というマツバ姫の声は、けだものの甲高い怒号にかき消される。

 斬りつけた隊士は、次の瞬間にはもう、棍棒のような鼻先に突き飛ばされていた。周りの男たちも次々に剣を抜いたが、猛り狂った猪はもはや手のつけようがなかった。手当たり次第に男たちをはね飛ばし、地に倒れこんだ者にも容赦なく襲いかかる。

 すると、テシカガの顔の横を、黒い塊のようなものが勢いよく飛び過ぎていった。それは猪の横っ面へ見事に的中した。獣は一瞬、何が起きたのかわからないといった体で動きを止め、地面に転がった塊を凝視した。

 マツバ姫の兜だ。

「館さま、いけません!」

 テシカガが叫んだときにはもう、姫は窪地から飛び出して、猪の目の前にいる。土にまみれたその鼻先へ一発、強烈な蹴りを食らわせると、その反動を利用して弾けるように横へ跳んだ。

 獣は標的を変え、いきり立ってマツバ姫を追った。その後を男たちが、剣を抜いて走っていく。もちろんテシカガも駆けだしたものの、完全に出遅れた形になった。

 が、そのことがかえって、他の者には見えていないものを、彼に気づかせてくれた。姫が逃げていく獣道の先に、不自然な直線が──夕月に照らされた紐状のものが何本か、木々の枝と地面との間を垂直に走っている。

「前を!」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。マツバ姫はとっさに顔を上げ、次の刹那には、地を蹴って宙に身を躍らせた。

 さすがの姫も、体勢を整える余裕まではなかったようだ。空中で均衡を失い、上半身からのめるように藪の中へ落ちていった。

 男たちもテシカガも慌てて駆け寄ろうとしたが、雑草に足を取られ、なかなか落下地点までたどり着けない。そうこうしているうちに、姫は自力で灌木の茂みの中から身を起こした。

「ご無事ですか」

 テシカガは他の隊士と共に、姫の手を引いて藪から救い出した。

「本当に……何という無茶をなさるのです」

「説教はよせ。アモイでもあるまいし」

 マツバ姫は息を切らしながら笑って、手で衣服を払った。それでもまだ、ちぎれた葉や折れた小枝が、ほつれた髪に絡みついている。茂みに突っこんだときのものか、頬に小さな引っ掻き傷ができていた。

 長年、彼女の親衛を務めたアモイの心労が、今さらながら偲ばれる。

 その間も、怒り狂った野獣の声は、絶えず彼らの鼓膜に響いていた。猪は袋状の網に捕らえられて、林の中に宙吊りになっていたのだ。短い四足が網の目から突き出て、無為に空を掻く。そのたびに周囲の木々が、ゆさゆさと音を立てて揺れた。

 テシカガが木立の下に見た縄のようなものは、この罠仕掛けの一部だったらしい。

「よくできた罠だ。危なく私が獲物になるところであったわ」

 マツバ姫はしきりに感心しているが、悠長なことを言っている場合ではなさそうだった。罠が仕掛けられているということは、このあたりに立ち入る人間がいるという証拠だ。獲物がかかったかどうか確かめるために、いつ戻ってこないとも限らない。

 あの窪地の藪の中に息をひそめていれば、やり過ごせるだろうか。しかし姿は隠しおおせたとしても、こう距離が近くては、何らかの気配は伝わってしまうのではないだろうか。何しろこちらは人だけでなく、馬たちも一緒なのだ。

 とすれば、やはり、野営の場所を変えたほうがよいかもしれない。

 テシカガが提案のために口を開きかけたのと、ほぼ同時だった。犬のけたたましく吠える声が、突如として背後に沸き起こった。

 驚いて振り返ると、薄暗い林の奥から、人影が近づいてくるのが見えた。

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