第4章 道行き

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 岩山を登る道は、次第に急勾配になっていった。豆駒まめごまの強靱な足腰のおかげで中腹までは騎乗できたものの、途中からはさすがにくつわを取って歩かなければならなくなった。

 息を切らしながら八合目ほどまで登ってきたところで、先頭を行く隊士が「隊長」と振り返った。

 間違えて「はい」と答えてしまったのを、咳払いでごまかす。幸いにも荒い呼吸に紛れて、相手には届かなかったようだ。

「どうした」

 改めて、テシカガは返事をした。隊士は、木々の梢に垣間見える岩壁を指さした。

 近づいてみると、辺りには大きな岩石がいくつも転がり、随分と昔に崖崩れがあったものと思われる。岩壁はほぼ垂直に切り立って、梯子でもなければよじ登るのは難しそうだ。

 男たちは目の前に立ちはだかった断崖を見上げ、呆然と立ち尽くした。その横では、豆駒たちが不安げに耳を回している。

「館さま」

 テシカガは、すぐ後ろにいるマツバ姫を顧みて言った。

「この崖を越えていくのは、容易なことではなさそうです。馬はとても連れていけそうにありません。いかがしましょう、別の道を探しますか」

 盆地の東北東に位置するこの山を越えれば、美浜国みはまのくにとかつて北湖国きたうみのくにであった領域の境界付近に抜けられるはずだった。そこから山並みに沿って東南へ進むと、やがては四関しのせきの向こう側、磐割原いわりのはらへ到達する。作戦ではその場所で、南回りの道を採ったバンケイ隊と、敵軍の本隊を挟撃することになっている。

 馬を捨てるのも、迂回路を探すのも、日数を考えれば痛手には違いない。だがいずれにしても、山越えにこの道を選んだのはマツバ姫だ。彼女の判断を仰ぐしかない。

 当の本人は、絶壁の高さにも角度にも興味を示さず、むしろ水平方向に視線を走らせる。転がっている大岩を一つずつあらためて、やがて「あれだ」と腕を掲げて指し示した。

「あれ、とは?」

「あそこに見ゆる黒き岩。虎の形に見えぬか」

「虎、ですか」

 実物の虎を見たことはなかったが、なるほど背を丸めた大きな猫のような形の巨岩が、少し先の崖下にうずくまっている。その背にあたる部分に凹凸があり、虎斑のような縞模様に見えなくもない。

「あれが目印だ。この道を教えてくれた行商人は、虎岩の裏に抜け道があると申していた」

 奇岩は遠目には崖に接しているように見えたが、近づいて調べると、なるほど岩壁との間に人ひとり分ほどの隙間がある。のぞきこんでみると、岩壁の低い位置に割れ目があり、奥深くまで洞穴が続いているようだ。

「この穴が、本当に、海の国まで続いているのですか」

「厳密に言えば、湖の国の南の端」

 頭の中に地図を描いているのか、虚空を見上げて姫は言う。

「……であったが、まあ、今はいずれにせよ美浜の領内だな」

「穴を出たときにはもう、敵の領地に侵入している、というわけですね」

 一度そう思ってしまうと、洞穴の奥の暗さがひどく不吉なものに見えてくる。盆地の中に生まれ育った者にとって、国境を縁取る山の外側は、ほとんど異界と言ってよかった。

 とは言え実際に行商人が行き来しているというなら、馬を捨てて断崖絶壁をよじ登るより確実な道であるのは確かだろう。隘路ではあるが、豆駒ならば一頭ずつ牽いて通れないこともなさそうだ。

 ただ向こう側へ抜けるまでに、どれだけの時間がかかるか知れない。穴に入る前に、一行は腹ごしらえを兼ねて休息をとることにした。

 馬は近くの木立の中につなぎ、隊士たちは岩壁を背にして地面に座ったり、手頃な岩に腰かけたりしている。テシカガはその一人ひとりに声をかけ、顔色を見て歩いた。

「大丈夫か。気分の悪い者はいないか」

「いいえ、隊長こそ大丈夫ですか」

「我々のことはかまわず、どうぞお休みください」

 誰より青白い顔をした隊長を、隊士たちは口々に気遣ってくれた。

 ありがたいような、情けないような心持ちで虎岩の前へ戻ると、早くも食事を終えたマツバ姫が地面に胡座をかいて、目の前にいくつもの小石を並べていた。

「あのう、何をなさっているのですか」

 声をかけると姫は顔を上げ、笑みを浮かべてテシカガを諭した。

「隊長。周りに気を配るのも大事だが、まずは食うものを食ってしまうがよい。己の身を健やかに保つのも、上に立つ者の務めぞ」

「はっ、そうですね。それでは、失礼して」

 淡い陽射しが、薄曇りの空の高い位置から降っている。早朝に麓の村を発ってからかなり経つはずだが、実はそれほど空腹を感じていなかった。

 テシカガは姫から数歩ばかり離れた地面に尻をついて座り、竹皮に包んだ握り飯を取り出して、口先で少しかじった。

 食べながら再び姫の様子をうかがうと、脱いだ兜をひっくり返して、地面に並べた小石をその中へ放りこんでいる。何をしているのか、皆目見当がつかない。

 マツバ姫はテシカガの視線に気づくと、悪戯っぽく笑った。銀の耳環の照り返す白い光が、頬の横に揺れている。

「ああ、そうだ。そなたに見てもらいたいものがあったのだった」

「はい、何でしょう」

「いや、そのままでよい」

 食べかけの飯を置いて立ち上がろうとしたテシカガを制し、姫は自分から歩み寄ってきた。傍らに膝をついて、手のひらの上に載せたものを彼の目の高さに差し出す。

「これが何なのか、そなたならばわかるであろうか」

 小枝のように長細くいびつな形の、鮮やかな赤い色をした石のようなものが、ほのかな光沢を浮かべている。紐が結わえられているところを見ると、首飾りのようだ。

 見覚えがある。襲堰かさねぜきを訪れた夜、アモイが姫に手渡していたものだ。

「ある者が今際いまわの際に、遺していったものらしい。まあ、形見のようなものだ」

「拝見します」

 テシカガは手を拭ってから、その石を受け取ってしげしげと観察した。

「珊瑚ですね。我が国ではなかなかお目にかかれない、珍しい宝石ですよ。私も、ずっと昔に一度だけ見たことがありますが、これほど鮮やかな濃い色ではありませんでした」

「我が国では珍しい、と言うと、他国よそから入ってきたものか」

「ええ。海の国の産でしょう。この宝石は、土の中ではなく、水底から取れると聞きますから」

「真珠のようにか」

「ええ。ただ、真珠は北湖でも採れますが、珊瑚は海だけ、それも南の温かい海でしか採れないそうです」

「なるほど、よく知っている。さすがは商人あきんどの子よな」

「いえいえ、そんな」

 テシカガは恥じ入ってうつむいた。そして、もう一度仔細に石を見改めてから、姫の手に返した。

「割れたような跡がありますね」

 全体は滑らかな曲面なのに、一部、不自然に平らな面がある。鋭利な刃で裂断したようにも見えるが、実際のところはわからない。

 マツバ姫は紐をつまんで石を宙にぶら下げ、陽光にかざして見た。不透明の赤珊瑚は光を通さず、表面だけが艶やかに照り輝いている。

「かつて海からやってきた石が、今また、海の国へ戻るか。何やら因縁めいている」

 姫はそう言って笑うと、古びた紐を首にかけた。黒の鎧に暗色の戦袍をまとった地味な装いにあって、胸元に揺れる赤色はいっそう鮮明に映える。ちょうど帯剣の紅色と呼応して、実によく似合っていた。

 テシカガが心に思ったまま感想を述べると、姫はまた感心した様子で、

「そういったことをてらいもせずに申すところも、商人らしいな」

「ああ……それはやはり、武士もののふにはなりきれていないという……」

「何を申す。わたしは褒めているのだぞ」

 マツバ姫はテシカガの肩をたたいて立ち上がり、虎岩のほうへ目を向けた。

「商人というものは、賢くたくましい。このような抜け道を見つけ出し、国から国へ売り歩くとは。たとえ関が固く閉ざされようとも、険しき山河に隔たれようとも、かれらはものともせぬ。むしろ、行きがたき道を行けば、より大きな商機があると心得る。その根性たるや、まこと見上げたものだ」

「はあ……。そう言えば、死んだ父が昔、よく申しておりました。たなを持つ者は、とかく行商人を見下しがちだが、むしろ敬って大事に扱わなければならないと。なぜなら、価値ある品をある場所から別の場所へ移すことで利を生み出すのが、商道の根本にして極みなのだからと」

「尊き教えだな」

「今にして思えば、そうですね。もっとも息子としては耳にタコができるほど聞かされて、辟易していましたが」

「親不孝者め」

「面目ありません」

 二人は顔を見合わせて笑う。笑ってみると、不思議と少し空腹感がよみがえった。おかげで食べかけの握り飯は、喉につかえることなく胃の腑に落ちていった。

 それを見届けてから、マツバ姫がテシカガに申し出る。

「隊長。出発の前に、少し時間をもらえぬか」

「ええ、もちろん、かまいませんが。何か、皆にお話でも?」

「ちょっとしたをやろうと思う」

「はあ……?」

「耳を貸せ」

 マツバ姫から企みを耳打ちされたテシカガは、言われたとおりに隊士たちを集め、一列に並ばせた。

 姫は自らの兜を逆さまに持ち、彼らの前に立つ。兜の中には、親指大ほどの小石が大量に入っている。

「あの洞穴は、一人ずつしか通れない。よってこれより、穴に入る順番をくじ引きで決めたいと思う」

 テシカガが告げると、皆は互いに顔を見合わせる。中でも年少の一人が、勢いこんで質問した。

「それでは、くじで先頭が当たったら、敵地に一番乗りできるのですか」

「そういうことになる」

 おおっ、と隊士たちがどよめいた。彼らは若く血気盛んな上、腕にもそれなりの自信を持つ者ばかりだ。たまさかに西陵せいりょうの守備に配置されて戦場に出られず、忸怩たる思いを抱えていただけに、この任務にかける情熱には並々ならぬものがあった。

「この兜の中に、番号を記した石が人数分、入っている。目をつぶって、めいめい一つずつ取っていってほしい。では、最初は……」

「わたしからだ」

 マツバ姫がそう言って、顔を背けながら自らの兜の中に手を入れた。次にテシカガが、それから隊士たちが、次々とくじを引いた。

 兜の中が空になったところで、皆で一斉に手を開き、小石に書かれた数字を確かめた。見事に一番をつかんだ隊士は拳を突き上げて喜び、後ろのほうになった者は嘆きの声をあげた。テシカガはちょうど中盤あたりの数字で、とりあえずマツバ姫よりは前だったことに胸を撫で下ろす。

 先に何が待ち受けているか知れない暗黒の隘路へ踏み入るのは、いかに勇士たちでも心が重くなるものだ。くじ引きはそんな彼らの不安を紛らわせ、士気を回復させた。だが、マツバ姫の本当の狙いは、別にあった。

 隊士たちが互いに番号を見せ合って盛り上がる中で、ただ一人、最後にくじを引いた若者だけが釈然としない顔をしている。彼はテシカガのところへやってきて、自分の取った小石を差し出して見せた。

「恐れながら……私の引いた石には、何も書かれていないようなのですが」

 テシカガはマツバ姫を振り返る。兜をかぶり直した彼女が進み出て、若者の手の中の石を見た。

「ふむ。だな」

「当たり、ですか?」

「そうだ。番号のない石を引き当てたそなたには、この先、別行動をとってもらう。ここから独り、馬に乗って麓へ下り、密かに西府さいふへ戻るのだ」

「それは……それは、私に隊から外れよとおっしゃるのですか?」

「そうだ」

 隊士は憮然として、姫とテシカガの顔を交互に見る。しかし、なぜとは訊かない。彼自身、マツバ姫の仕組んだに、そしてその真意に、思い当たるところがあるのだろう。

 山道を登る途中で足を挫いたのを、彼はずっと隠していた。仲間たちに後れをとらないよう、歯を食いしばってついてきた。彼の異変には周りの者も気づいていたが、その健気さに打たれて、あえて誰も問いただしはしなかったのだ。

 とは言え、彼の足はもう限界に近づいている。食事の前に隊士たちの顔色を見て回った際に、テシカガはそれを確信した。そして隊長として、決断を下さなければならなくなった。足手まといになる者を敵地まで連れていくわけにはいかず、置いていくとすれば、味方の領内にいる今のうちしかない。

 だが、脂汗を拭いながら必死に笑顔を見せる若者を前にして、テシカガは言い渡すべき言葉を見つけられなかった。だからこそマツバ姫は、こうして代わりに引導を渡してくれたのだ。

 若者は唇を噛んで下を向き、嗚咽を噛み殺した。他の隊士たちも事情を察して、彼を遠巻きに見守っている。

「泣いている場合ではない。ただ帰るというわけにはいかぬぞ。そなたには、重大な務めを引き受けてもらう」

 マツバ姫が、彼の肩に手を置いて言う。若者が涙を払って顔を上げると、もう一方の手で、わずかに膨らみのある小さな紙包みを差し出した。

「西府にいる、私の侍女に届けてもらいたい。ただし、そのことを他の誰にも知られるな。ムカワ・フモンにもだ」

「城代にも……」

「難しかろうな。密書の一件があって以来、領内は監視が厳しくなっている。敵の放った手練れの忍びも、まだどこぞに潜んでいるやもしれぬ。それでも、この中身は決して誰にも見せることなく、またそなた自身も見ることなく、しかと送り届けよ。よいな」

 若者は両手を微かに震わせながら、紙包みを受け取った。姫は彼の手の上に自らの手を重ね、固く握りしめる。そして射すくめるような鋭い眼差しで、相手を見つめた。

「油断はならぬぞ。これは、敵地へ赴く我らにも引けを取らぬほどの困難な仕事なのだ。そなたはそれを、独りでやり遂げるのだ」

 若者は目の中に光を取り戻して、はっ、必ず、と力強く答えた。

 マツバ姫は頷いて手を離し、皆を振り返る。隊士たちは一様に、清々しい鋭気に満ちた顔をしていた。仲間との決別もまた、前へ進む覚悟を新たにするきっかけとなったようだ。

 出発の号令をかけるべき時を察して、テシカガは静かに咳払いをした。

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