3-2

「無礼者!」

 突然の怒号に、アモイは驚いて声の主を振り向いた。

御嶺ごりょうさまの御前だぞ、立て!」

 テシカガが怒っている顔を見るのは、初めてかもしれない。いつもは青白い頬を紅潮させて、眉根を険しく寄せている。もっとも、本人には悪いが、あまり迫力は感じられない。

 まして叱責する相手は、ただでさえ並外れた胆力の持ち主だ。まったく悪びれる様子もなく、

。もう話は済んだのか?」

「ああ、待たせてすまぬな」

 もとより姫は、男の行儀など気にも留めない。が、テシカガは上官としての責任でも感じているのか、あくまでこの無頼漢を咎めたてる。

「その呼びかたを改めろと言っているのに」

「何でえ。オヤカタはオヤカタだろ」

「職人頭でもあるまいし、礼儀をわきまえろ。館さま、とお呼びしないか」

 厳密に言えば、現在の西陵せいりょう城主はアモイであり、マツバ姫を館さまと呼ぶのも適当とは言えない。だがテシカガの面目を慮って、アモイは黙っていた。

 横を見ると、姫は笑いをこらえているようだ。

「まあ、呼び名なんて、別に大したことじゃねえやな」

 バンケイはそう言い放つと、勢いよく床から立ち上がった。

 さらに何か言い募ろうとしていたテシカガだったが、相手の急な動きに驚いたのか、二、三歩後ろへ退いた。彼もどちらかと言えば長身の部類だが、立ち並ぶと体格の差は歴然として、まるで犬が牛に吠えかかっているかのようだ。

 アモイとマツバ姫は堪えきれず、二人同時に噴き出してしまった。

「ここに来るまでの道中も、ずっとあの調子でな」

 姫が肩をすくめながらささやき、アモイも小声で応じた。

「驚きました。テシカガにも、虫が好かないということがあるのですね」

 テシカガは城に仕える女官や使用人、童子たち、誰にでも分け隔てなく優しい男だ。家でも娘たちを叱ったことがなく、妻に「いたずらをしたときぐらい、厳しくしてやってください」と説教されるほどだという。そんな彼が、バンケイにだけ食ってかかるというのは、どうしたわけなのか。

 聞けば、初対面のときからすでに一悶着あったらしい。アモイの帰還する二日前、西陵城の門前へふらりと現れた得体の知れないやくざ者。その様子を最初に見咎めたのが、誰あろうテシカガだった。

 城主は留守だと言っても引き下がらず、「俺は呼ばれたから来たんだ、いいからさっさと上に取り次げよ」とうそぶく横柄な態度に、温厚な彼もさすがに腹を立てた。と言って、力ずくで追い出せそうな相手でもない。そこで彼なりに精いっぱいの威厳を見せて、新調したばかりの刀剣に手を添え、こう告げた。

──本当に、お召しを受けたのだな。では、確かめてこよう。だが、もしも偽りだったら、ただでは済まないぞ。

 それに対する男の返答が、決定打となった。

──何でえ、その腰にひっついてるの、剣だったのかよ。俺ァてっきり、か何か差してるのかと思ったぜ。

 愛妻が特別にあつらえてくれた自慢の逸品だけに、この一言だけはどうしても許せなかったようだ。以来、テシカガはバンケイを毛嫌いし、バンケイは一切意に介さず……という、一方通行の諍いが続いているというのだった。

 しかしテシカガの腰にとは、よく言ったものだ。もしも彼が道を踏み外さず、実家の商店を継いでいたなら、なるほど今ごろは陳列棚の塵落としでもしていたころかもしれない。

「テシカガ、そなたの申すことはもっともだが、その男をしつけるとなると一晩では利くまい。御嶺の君はお忙しくておいでだ」

 マツバ姫が仲裁に入ると、はっ、と言ってテシカガは素直に引き下がった。

「バンケイ。そうは申しても、挨拶ぐらいはしておくがよい。こなたにおわすが我らの主ぞ」

「ああ、オヤカタの旦那だろ。ま、よろしく頼むわ」

 横でにらんでいるテシカガを挑発するかのごとく、バンケイは言う。アモイは苦笑しながら、

「呼び名などどうでもよいと言っていたが、おまえ自身はどうだ。新しい名前には、もう慣れたか?」

「うん? ああ、ま、……どう呼ばれたって、俺は俺に違いねえしな」

 と言いつつ、くすぐったそうな顔で視線を逸らす。どうやら照れているらしかった。

 三年前に四関しのせきを出てから、どこで何をして暮らしていたものか、話を聞いてみたいところではある。が、姫の言うとおり、今はあまり時間がない。

 一同は行灯を近くへ引き寄せて、くだんの布陣図を床の上に広げ、四方からのぞきこんだ。

 アモイは最新の戦況と、敵の本隊の位置や兵力などを判明している範囲で説明した。マツバ姫も独自に仕入れた情報を補足し、テシカガとバンケイは黙々と頷いた。

 さらにアモイは、先刻までの作戦会議で出された案のうち、主だったものを手短に紹介した。もっとも、布陣が敵方に筒抜けだとすれば、いずれもあまり有効な方策とは考えられなかった。

「しかしそなたの腹には、まだ皆に語っていない策があるのであろう?」

 布陣図の襲堰かさねぜきの地点を指先で弾きながら、姫が鋭い視線を向けてくる。

「この砦を普請すると決めたときからすでに、考えていた手立てが」

「ええ、ですが……」

「奥の手を講じるのは、まだ早いと?」

「そういうわけではありません。出し惜しみをしている場合では、どうもなさそうですから」

「ならば、人の問題か」

「ご明察のとおりです」

 アモイは正直に答えた。

 彼の腹中にある計画には、この国境付近の戦場から離れ、隠密に行動する者が必要だ。しかし四関が落ちムカワ将軍が負傷した今、どの陣にも別働隊を出す人的な余裕はない。仮にあったとしても、誰でもよいというわけにはいかなかった。

「よほど信頼のおける人物でなければ、任せられぬ役目。適任と言えばタカスでしょうが、まさかこの状況で前線から戻すわけにも……。それに、今の布陣の中から主立った将が抜ければ、また敵に覚られてしまうかもしれません」

「それでは奇襲も奇襲にならぬな」

 姫のつぶやきに、他の三人は顔を上げた。テシカガがかすれた声で、「奇襲?」と聞き返した。

 まさしく、アモイの腹案とはそれである。

 今、味方の将兵は、目の前に迫っている敵の先鋒隊ばかりに気を取られている。彼らを盆地の内側から押し返し、四関の向こうへ追い出すのが何よりも先決。敵方もまた、山峡軍の今後の動きをそのように見ていることだろう。

 現状は言わば、細道の途中で大蛇と正面から向かい合っているようなもの。大きく開かれた口の前に両手を広げて立ち塞がってみたところで、毒牙の餌食になるばかりだ。しかし後ろへ退けば、敵は長い胴体を引きずりながら、奥へ奥へと這い進んでくる。巣穴を守るためには、大蛇のを押さえるよりほかにない。

 美浜みはま軍のとは、言うまでもなく、本隊を率いて近づきつつある総大将・公子クドオだ。現在は天候不順による川の増水がたたって、都と国境の中間地点にある城に足止めされているが、まもなく進軍を再開する見込みだと報告を受けている。四関付近に姿を現すまで、早くて七日ほどだろうか。

 今、誰か頼むべき人材に精鋭部隊を与え、四関の向こう側へ密かに回りこませることができれば──そして敵軍の中核を待ち伏せて急襲し、混乱に導くことができれば──あわよくば公子の命を奪うか、重傷でも負わせられれば。それが理想的な筋書きである。

 胴体と切り離された蛇の頭部、つまりオニビラの先鋒隊など、後からどうにでもできるはずだ。

「つまり、こういうことだな。少数を率いて死地へ赴き、奇襲をやり遂げるだけの武力と胆力、統率力を兼ね備え、なおかつ戦場に姿がなくとも気取られぬ人材さえあれば、策は成る」

 マツバ姫はそう言って正面にいるアモイを見据え、次いで隣へ視線を移した。

「やれるか、バンケイ?」

 え、と小さく声をあげたのはテシカガだ。問われた本人は、黙って布陣図の上に身を乗り出している。

「そなたの名は、敵にも味方にもほとんど知られておらぬ。姿を消したとて、誰も騒ぐ者はおるまい」

「確かに……」

 バンケイの薄汚い髭面を見ながら、アモイも同意した。少人数の賊団で、正規兵の守る四関を瞬く間に制圧した実績もある。命の危険にひるむような男でないことも間違いない。

「やるとしたら、このあたりだろ」

 しばらく地図をにらんでいたバンケイが、毛深く太い人差し指で指し示したのは、四関の東側にある平地だ。美浜国では、磐割原いわりのはらという地名で呼ばれている。

「ここらまで、七日で回りこまなきゃならねえってわけか。街道をまっすぐ行けりゃ、二日とかからねえんだがな」

「そなたならば、山越えの道の一つや二つ、知らぬことはあるまい」

「知らねえこたぁねえが、実際に越えたわけでもねえからな。地図で見るほど簡単じゃねえだろうよ。しばらく雨が続いたろ、おかげで道もかなり悪くなってるはずだ」

「つまり、困難だが、やってやれないことはないと」

「そんなふうに聞こえるのかよ。かなわねえな」

「いずれにしても、引き受けるか断るかは、そなた次第だ」

 バンケイは床にあぐらをかいたまま上体を反らせ、手を後ろに突いて天井を仰いだ。その表情は、存外に明るい。

「腕っぷしと肝っ玉と、あと一つは何て言ってたっけな、さっき」

「武力と胆力と、統率力だ。この役目に必要なものは」

「あと一つ、大事な条件があんだろ」

「何だ」

「こんな無茶な作戦にいっちょ乗っかってやろうなんて、よっぽどいかれた大馬鹿者じゃねえとな。国中を探し回ったって、そんな野郎は、せいぜい俺ぐれえのもんだろうよ」

 にやりと笑った顔には、迷いなど微塵も見当たらなかった。

 バンケイの指し示した隠れ道は、襲堰から南へ進み、山々の尾根を東に越えてゆく山道である。目的地までの距離はさして遠くもないが、馬は使えない。ひたすら頑健な足と、絶壁も獣をも恐れず進む度胸が必要だ。

 彼は自ら率いていく一隊を、気心の知れた仲間で固めたいと申し出た。四関を占拠したときの賊団を再結成するというわけだ。どうやら仕事を求めて西陵城へやってきた時点で、すでにめぼしい者には声をかけてあったらしい。窪沼くぼぬま近くの山中に二、三十人ばかりひそんで、頭目からの指図を待っている状況だという。

 そこまで覚悟ができているならば、願ってもない。だがアモイにはまだ、バンケイに出発を命ずる決心がつかなかった。なぜなら、作戦に必要な駒がすべて出そろったわけではないからだ。

「あのう」

 それまでバンケイとマツバ姫と、それにアモイとを、交互に見比べていたテシカガが、おずおずと口を開いた。

「あのう、本当に、かの国の本隊へ奇襲をかけるのですか?」

「そう青い顔をしなさんな、誰もあんたに行けと命じてるわけじゃねえ」

 バンケイが茶々を入れると、テシカガはきっと、彼には似合わぬきつい一瞥をくれた。

「何か気になることがあるならば、申してみよ」

 マツバ姫が水を向けると、テシカガはまた控えめな口ぶりで、

「ええと……気になると申しますか、つまり、仮にそこの男が、南の狭道を通って、首尾よく磐割原へ出たとします。そして、四関に入ろうとする敵の本隊を待ち伏せし、横から衝く。こういう算段だと思いますが」

「そうだ」

「この地形、南方から敵に気づかれずに接近するのは、かなり難しいのではありませんか」

 地図の上を、細い指先が滑った。

 テシカガの指摘は的を射ていた。敵軍の本隊は、大風水おおかざみの──美浜では磐割川という名で知られる川の──流れが作り出した蛇行する道筋を遡るように進んでくる。国境に最も近い砦を出て、始めのうちは南西へ、それからしばらくは谷川沿いを真西へ。最後にいくらか北上して、四関の下へたどり着く。

 奇襲隊が山を越え、川を渡って平地へ出られそうな箇所と言えば、ちょうど敵軍が西行する道の中途に当たる。川のある南方向はやや開けていて木々も少なく、道のそばに伏せて敵を待ち受けるには適さぬ地形であった。

 そう言われても、当のバンケイは気にも留めない様子だ。「真っ平らな地図と現場なんて、どうせ別物さ」と言い放ち、細かいことは実際に行ってみてから考えるという。

 テシカガは納得せず、同意を求めるようにアモイを見る。アモイはしかし、答えずに黙っていた。

「なかなか目の付け所がよくなったな、テシカガ。そなたの申すとおりだ。奇襲は、南からの一隊だけでは、目的を果たせまい」

 マツバ姫が、代わって答える。

「ゆえに、奇襲隊はもう一つ要る。北側の山を越えて回りこみ、バンケイの隊と示し合わせて、標的を挟み討ちにするのだ」

「挟み討ち?」

 テシカガが鸚鵡返しに訊く。

 アモイはそのとき、姫が腰に帯びている剣を見ていた。身につけている黒い具足は、王女の身にはそぐわない質素なものだ。だが、鮮やかな紅色の佩剣だけは、紛れもなく彼女の愛用する銘品だった。

 三年前の光景が、目の前によみがえる。亡き先王を祀った祭壇の前で紺色の法衣を脱ぎ捨てた彼女は、やはりその剣を身につけていた。

 アモイの背筋に、戦慄が走る。開けてはならない扉が勝手に開いていく、そんな恐怖感に襲われて、耳を覆いたくなった。

 どうして自分は、彼女がここにいてはいけないと思ったのか。無名の一将を装った姿を見て、胸騒ぎを覚えたのはなぜか。今なら、はっきりとわかる。マツバ姫が次に口にする言葉を、アモイは最初から予感していたのだ。

「そうだ。南回りの奇襲隊は、バンケイが。もう一方の、北回りのほうは、わたしが指揮を執る」

 瞑目するアモイの耳の奥に、姫の声が反響した。

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