3-3

「いかれた大馬鹿者が、もう一人ってか」

 隣で誰かが独りごちる。アモイはゆっくりとまぶたを開き、瞑る前と寸分変わらない現実を確かめた。

 バンケイは笑顔ともあきれ顔とも取れる曖昧な表情で、天井を仰いでいる。一方のテシカガは、バンケイの無礼な言い草を咎めるのも忘れ、ぽかんと口を開いたままでマツバ姫の顔を見守っている。

 そして当の姫はまっすぐにアモイを見つめ、深刻でもなく気軽くもなく、ただ平然と待っている。何を待っているのか? もちろん、夫から発せられるはずの異論をだ。

 反対されるのがわかっていて、それを真っ向から受けて立とうとしている彼女に、一体どんな言葉で太刀打ちできるというのか。

「……用が済めばすぐに帰ると、先ほど、おっしゃいました」

「去るとは言ったが、城に戻ると約束した覚えはないぞ」

 むしろ優しく慰めるような口調で、姫は応じる。

「アモイ。奇襲隊は二筋の道を進む。バンケイのほかに、もう一人の将が要る。そのことに、異存があるか」

「……」

「私情は除けて考えてみるがよい。その役目を任せられる者、わたしを措いて、ほかに誰がある?」

 アモイはその場に立ち上がった。マツバ姫も他の二人も、目を見開いて彼を仰ぎ見る。

「私がおります」

 絞り出すようにそう言うと、ええっ、とテシカガがまた頓狂な声をあげた。

 マツバ姫は無表情のままだ。その片頬を、行灯の明かりが赤く照らしている。

「貴女をみすみす敵地へ行かせるぐらいなら、私が代わりに行きます」

「アモイ。私情を除けよと言ったはずだ」

「除けられるわけがないでしょう。どうしても行くと言われるなら、私もお供します。私の役目は、マツバさまをお守りすることです。十一年前のあの日から、ずっと」

 彼女と祝言を挙げたのも、結果としてこの国の頂点に立つことになったのも、元はと言えばそのための方便だったはずだ──。

 だがいつしか、自身を取り巻く現実は胸中の想いを浸食していく。彼は今や山峡やまかい軍の総大将であり、現実問題として、この戦場を離れられない。それは彼自身、嫌というほどわかっていた。

 居心地の悪い沈黙が、薄闇の中に満ちる。と同時に、遠い雨音が耳に染み入ってきた。そのおぼろげな響きは、彼の信念を支えてきた柱に亀裂が走り、砂のように崩れ落ちていくさまを思わせた。

「アモイ。ここにいる私は、ウリュウ・マツバではない」

 やがて姫が穏やかに言う。

「そなたの守るべき妻は、しかと西の城にいるのだ」

「おっしゃっている意味が、わかりません」

「先王の一の姫は、かつて手のつけられぬじゃじゃ馬娘であった。しかし結婚を機に行いを改め、しとやかなる深窓の奥方に生まれ変わった。今ごろは一人静かに部屋に籠もり、一途に夫の武運を祈っていることであろう」

 その言葉を聞き終えたとき、アモイの脳裏を雷のような光が走った。

 浮かんできたのは、イセホの姿だった。出陣前に会ったとき、彼女はマツバ姫が常々そうしているように、長い黒髪を一つに結い上げていた。遠目ならばアモイですら見間違うほど、従妹によく似た──いや、似せた風貌。

 一方では、奥御殿の窓のない部屋で密かに鍛錬を続けつつも、人前にはめっきり姿を現さなくなったマツバ姫の、日増しに白くなっていった肌の色。

 アモイはめまいを覚える。

 かつてイノウはマツバ姫に、人目につくことはすべて婿に任せ、妻としての務めに専念するようにと忠告した。この三年間の、およそ彼女らしからぬ暮らしぶりは、まさしくその言葉に素直に従っているかのように見えた。本人を直に知らない世間の人々の目には、なるほど深窓の奥方と映りもしただろう。

 だがその背景には、妻女としての慎みなどとはまったく正反対の意図が隠されていた。彼女はいずれこのような日が来ると予期して、いつイセホを代役に立ててもごまかしが利くようにと、あえて控えめな生活を送っていたのだ。ようやくそこに思い至って、アモイは愕然とした。

──私が行くと決めているものを、覆せる者があるか。

 先刻のマツバ姫の言葉が耳によみがえる。自分だけは例外だと、アモイは信じたかった。

 しかし一点の逡巡もない彼女の眼差しを前にすると、声になる前の言葉が絡み合い、塊となって喉を塞ぐ。息苦しさの中で、彼はただ頭を横に振ることしかできなかった。

「まあ、要は、あれだろ。どっちが命じる側なのかって、そういうことだろ」

 唐突に、バンケイがぼそりと口を挟んだ。

「旦那は、オヤカタに命令できんのかい。それとも、オヤカタの命に従う側かい」

 王は従える者であって、従う者であってはならない──これもイノウが言っていたことだ。

 だが、アモイは結局、王となることを選ばなかった。あくまでも、マツバ姫が王位に就く道を残すことにこだわった。だとすれば、バンケイの問いに対する答えはすでに出ているのではないか。

「私は、貴女をお守りすることができない……」

 口の中でつぶやくだけで、引きつるような痛みを覚える。

「それなのに、貴女は行くと、おっしゃるのですか」

 マツバ姫の鋭い眼光が、いたわりの色を湛えたように見えた。行灯に照らし出された人影が、ゆっくりと立ち上がる。長い腕が伸びてきて、手のひらがアモイの肩に置かれた。紅を引かない唇が動いて、すまぬ、と言ったようだった。

 残りの二人は床の上から神妙な面持ちでその様子を見守っていたが、不意にテシカガが、

「あのう……一つよろしいでしょうか」

 巣穴から顔を出す小動物のように、そろそろと腰を上げた。

「お許しをいただけるなら、私が、代わりに参ります」

「ああん? よせやい、こんなときに、つまらねえ冗談は。おまえさんにオヤカタの代わりが務まるかよ」

 バンケイの野次を無視して、テシカガは姿勢を正し、こう続けた。

「館さま。どうか私を、、ご親衛としてお連れください。もともと私は布陣されるべき戦力に数えられていないのですから、今ここから姿を消したとて、敵からも味方からも怪しまれることはありません」

「テシカガ。おまえ、本気か」

 アモイが問うと、テシカガはいっそう青ざめた顔で頷いた。

「わかっています。私などでは頼りないと思われるでしょう。ですがアモイどの、貴方の率いる親衛隊に加わって館さまをお守りするのが、ずっと私の目標でした。お二人が都へ出ていってしまわれた後も、いつかお役に立てる日が来るはずだと信じて、これでも毎日、鍛錬を積んできたのです」

「……」

「奇襲作戦を成功に導くような力は、私にはありません。でも館さまなら、きっとその難事を成し遂げられるでしょう。御自らの危険など顧みずに……。ですから、私が代わって館さまの御身をお守りします。アモイどの、このテシカガ・シウロを信じて、お任せいただけませんか」

 これほど決意に満ちたテシカガを見るのは、初めてだった。アモイはまたも、説き伏せる言葉を見つけられない。

 バンケイが、へっ、と妙な声を出し、やおら大きな身振りで立ち上がった。そしてテシカガの背を、厚ぼったい手で勢いよくたたく。細い体はその衝撃に耐え、体勢を崩すことなく佇立していた。

 いずれも、二人の娘を持つ父親。ましてテシカガは、身重の妻までも抱えているというのに。

 身の内からせり上がってくる感情に耐えかねて、アモイは自らの手を胸元に当てた。すると指先に思いがけず硬い感触があり、はっと思い出して懐に手を入れる。

 西府さいふ近くの丘の上、山毛欅ぶなの古木の下で、末期の老人から託された遺品。城で姫に渡しそびれ、奥御殿でイセホに預けられず、ついにここ襲堰かさねぜきまで持ち歩いてきた赤い石の首飾りが、巾着袋から転がり出た。

──あのかたは、籠には飼えぬ鳥。ひとたび羽ばたき始めたならば、止めることはできませぬ。

 老人の遺した言葉は、確かに予言だった。誰のことを指しているのか、聞いた瞬間から察しはついていた。

 だからこそ、アモイは彼女を戦場から遠く離れた西陵せいりょうに留めようとした。今までこの石を渡せずにいたのも、本当は忘れていたせいではない。老人の遺品が彼女の手に渡る瞬間、あの予言が現実になってしまいそうで恐ろしかった。それで、自分の手からはどうしても差し出す気になれなかったのだ。

「マツバさま。これだけは約束してください」

 汗ばんだ手のひらの中で湿り気を帯びた首飾りを見つめながら、アモイはわずかに声を震わせる。

「何があっても必ず、生きてお帰りになると。そしてご生還の暁には、その時こそ、貴女がこの国の主となられることを」

 マツバ姫もまた、夫の掌中にあるものを注視した。いびつな形をした、不透明な血の色の塊。行灯の揺らめく光を浴びて、表面には危うげな艶が浮かんでいる。

 彼女はそれをアモイの手からそっと拾い上げ、右手に握りしめる。そしてごく静かな声で、わかった、と短く答えた。

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