第3章 隠密

3-1

「何を考えておられるのです」

 黒い兜を小脇に抱えたマツバ姫の前へ、アモイは詰め寄った。相手はまだテシカガの副官を演じ続けようとでもするかのように、しかつめらしい表情で佇立している。

「どういうおつもりです。そのようなお姿で、ここで何をなさっているのですか」

「あ、あの、アモイどの。まずは話をお聞きください」

 険悪な雰囲気に居たたまれなくなったか、テシカガが取りなしに入った。アモイの怒りは、彼の青い顔にも飛び火する。

「これが城代の託けだと言うのか? 私は彼に、マツバさまをお守りするよう、しかと頼んできたのだぞ」

「ええ、それはもちろん、城代も重々おわかりだと、ただその、何と言いますか、私もご命令を受けて参ったものですから」

「命令とは、誰のだ」

「それはもちろん、城代の……」

「馬鹿な。甥御どのが、進んでこのような命を下すものか。誰が言い出したのかは、決まりきっている」

 再びマツバ姫に視線を戻す。テシカガとは対照的に、彼女は平然としたものだ。珍しく苛立ちを露わにするアモイを、冴え冴えとした表情で見据えている。

 その鋭く怜悧な眼差しに正面から射抜かれると、荒ぶる心が急速に冷めていった。

 昔であれば、姫が意表を突く行動をとったからと言って、これほど感情的になることはなかった。彼女が自分の言うことをおとなしく聞いてくれるはずだという思いこみは、いつの間に生まれたのだろう。

 ふと黙りこんだアモイに対し、姫はやや皮肉めいた笑みを浮かべた。

「そなたの申すとおり、わたしがここに参ったのはテシカガの意思でもフモンの指図でもない。わかっているのならば、八つ当たりはよすがいい」

 アモイは言い返す言葉もなく、唇を噛む。

「わたしが行くと決めているものを、覆せる者があると思うか。縛られてどこぞへ押しこめられようと、きっとわたしは脱け出して、独りでもここへ来たであろうよ。とすれば、こうしてテシカガの副官を装わせたこと、フモンには採りうるかぎり最も安全な手立てであったと言わねばなるまい。かれらのことを悪く思うな」

「……」

「安心せよ。長居するつもりはない。用が済んだならば、すぐに往ぬるわ」

 いかにも人を食ったような、しかし妙に説得力のある口上を黙って聴きながら、アモイは胸に自問していた。そもそもなぜ、姫がここにいてはいけないのだったか。具足を纏い、身分を隠して辺境の砦へやってきた彼女を見て、なぜこんなにも心が騒ぐのだろう、と。

 行灯の火が、ちりちりと微かに唸っている。それに合わせて、壁に写し出されるいくつもの人影が小刻みに揺らめいた。

「取り乱したことは、お詫びします」

 アモイはそう言ってマツバ姫を、次いでテシカガの顔を見る。年上の部下はほっとした様子で、何度も頷いた。

「改めてお訊きしましょう。一体、何のために、このようなところまでおいでになったのです」

「話があるならふみでも送ればよい、と言いたげな顔をしているな。だが、そうもいかぬ事情が生じたのだ」

「事情?」

「これを見よ」

 マツバ姫は懐から、折り畳んだ紙を取り出す。受け取って開くと、何やら見覚えのある図が姿を現した。先ほどまで作戦室で眺めていた、四関しのせきから襲堰かさねぜきまでの間の布陣図を簡略化したものだった。

「そなたの描いたものに相違ないか」

「ええ。ここに着いてすぐ、私が甥御どのに書き送ったものです。この布陣に、何かお気になる点でも」

「問題は内容ではない」

「と、言われますと……」

「こちらはどうだ」

 次に差し出されたのは、宛名も差出人も記されていない、ごく平凡な白い封筒だった。それもまた、自分が密書を封入して使者に託したもののようだ。

「封字の字形が、いつもと少し違うように見える。また墨の濃さも、若干薄いようだと」

「封字、ですか」

「わたしには、違いというほどの違いにも見えなんだが、フモンがそう申すのでな」

 封筒を手に取り、くだんの封字をあらためる。固く封緘を施したのは覚えているが、封字にはさほど注意を払ったわけではない。普段の自分のと異なるのかどうか、はっきりとはわからなかった。

 代わりに、それとは別の微妙な違和感が、手の中に湧いてきた。この紙の厚み、表面のざらつき。あえて疑ってみるならば、記憶にあるものとどこか違う気がする。

 それはつまり、どういうことか。

「中身はそのままで、封筒だけが入れ替わっている、とおっしゃるのですか?」

「仮にそうだとすれば、考えられるのは一つしかない」

「まさか……」

「そのまさかであった」

 マツバ姫とムカワ・フモンは密書に疑いを持つと、ただちにそれを持参した使者を呼び、取り調べを行ったという。

 使者は始め、封書は間違いなくアモイから預かったものをそのまま届けたと請け合った。しかしよくよく思い出させてみると、ごく短い間ではあるが、封筒の入った小箱を見失った時間があった。

 色を失って探そうとしたところ、すぐ足元に落ちているのを発見し、中身も無事であることを確認した。封も切られておらず、ほっと胸を撫で下ろした。そんな出来事があったらしい。

「おそらく曲者は、使者の隙を見て密書を盗み読んだ。その上で、開封したのを気取られぬよう、予め用意した封筒に入れ替えて戻したのであろう。ご丁寧に、そなたの蹟に似せた封字まで記してな」

「曲者というのは、美浜みはまの細作」

「他には考えられまい」

 敵軍に、陣の配置が漏れている――。アモイは小さく唸った。事実ならば、作戦室で検討された策の大半は前提を覆されることになる。

 無論、自分たちも美浜の領内に手の者を潜入させて、本隊の位置や兵力を逐次報告させている。である以上、敵方から探りを入れられるのは想定の範囲内だ。

 とは言え、布陣図を丸ごと読み取られるとは。実地を偵察されるならばまだしも、国境から最も離れた西府さいふに送ったものを狙われるとは、予期していなかった。

「我が領内には、よほど手練れの忍びが潜んでいると見えるな」

 マツバ姫は他人事のように言った。

「使者は、城下で難に遭ったのですか」

「いや。その少し手前の街道での出来事だったそうな。だがいずれにしても、曲者があえて西陵せいりょう城に目をつけたのは間違いあるまい」

「公子クドオの差し金、ですね」

 アモイが心底から信頼し、機密を伝えそうな人物が誰なのか、相手にはとうにお見通しというわけだ。

 三年前、マツバ姫の婚儀を祝うためと称して自ら乗りこんできた隣国の太子の、温厚な笑顔を思い出す。口では友好を騙りながら、抜け目なく内情を探っていたのだろう。

 そして姫の周辺に張りこむよう指示された細作は、彼女が奥御殿から西陵に移るのに合わせて城下にやってきた。しかし他のどこよりも隙のない造りと隙のない城代とに守られた城、さしもの手練れも簡単には忍びこめなかったのだろう。ゆえに城へ向かう使者に狙いを定め、街道で工作に及んだ。おおよそこのような経緯であろうと、アモイと姫は頷き合う。

「曲者の足取りは、まだつかめていないのですね」

「フモンが見廻りを強めておるが、何しろ向こうも人が足らぬものでな。捜索に手を取られて、城の守りがおろそかになっては元も子もない」

「もしもまだ城下に手練れの忍びが潜んでいるなら、また盗み見られる恐れがある。なるほど、手紙では話せない事情というのは、合点が行きました」

 アモイはひとまず認める。

「ですが、だからと言って御自ら、そのようなお姿でここへ……」

「苦労したのだぞ。姿の見えぬ敵の目をいかにごまかすか、怪しまれずに城下を抜けるか。そなたにも見せてやりたかったわ、馬商人を装って豆駒を率いてゆくテシカガの姿を」

「困りますよ、館さま。その話はアモイどのには内緒でと、お願いしたではありませんか」

「おっと、そうであったな」

 気まずそうに頭を掻くテシカガを、マツバ姫はからからと笑い飛ばす。アモイはこの件について追及することをあきらめた。

「それで」

 仕切り直すつもりで、アモイは声を発する。マツバ姫とテシカガは、表情を改めて彼を見た。

「はるばるここまで来られて、よもやその一件だけを伝えて帰るおつもりでもありますまい。この際ですから、一切をお聞きしましょう。そこにいる豪傑のことも気になりますし」

 そう言って、壁際にいる男のほうを見た。姫と共に入室した、もう一人の副官である。黒い具足からはみ出すほど筋骨のたくましい、髭面の大男。アモイは前に一度、その顔を見たことがある。

 バン――いや、バンケイという名を新たに与えられたばかりのその男は、いつの間にやら敷物の上にあぐらをかき、退屈そうに鼻の穴をほじくっていた。

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