2-3
残暑も過ぎ去り、盆地に秋の気配が漂い始めたある日のこと。
最後通牒を突きつけてからやや間があったのは、
しかしいよいよ、相手もしびれを切らしたらしい。国境に最も近い美浜側の砦城を出て、
先鋒隊、と言っても、かなりの兵力だ。まさに三年前の冬の夜を彷彿とさせる大軍が、今度は白昼堂々、整然と旗をなびかせて押し寄せてくる。
これがほんの先触れに過ぎないとしたならば、公子クドオその人が率いてくるはずの本隊は、どれほどの規模になるものか。
タカスは四関の櫓に立ち、
武者震いを禁じえなかった。騎馬隊を率いて西陵の各地を駆け、山賊や悪党を相手に槍を振るってきた経験はあるが、砦に依って戦うのは初めてだ。しかも圧倒的な兵力を誇り、統制のとれた敵軍を迎え討つとなれば、どうしても肩に力が入る。
もっとも、隣に立つ男の張りきりようはタカスの比ではない。
「敵の先鋒は、オニビラか。成り上がりおって」
密偵から報告を受けたムカワ・カウン将軍はそう言って、むしろうれしそうに腕をぐるぐると回す。
「ご存じなのですか。豪傑という噂ですが」
「なに、猪武者よ。先の戦で、直に刀を交えた覚えがある。あのころは、お互いにまだ青二才だったがな」
二十年あまりも前の話だ。ムカワ将軍はまだ三十手前の小隊長で、オニビラという敵将もまた同じような立場の若武者だったらしい。
「大変な死闘だったと聞いております。敵兵がこの城壁の上まで登ってきて、危うく関が陥落するところだったと」
「おう。あの光景は忘れもせん。昼夜を分かたぬ総攻撃で、我が軍は矢も尽き果て、敵の入城を許してしまった。その後は白兵戦よ」
将軍は露台の上を見渡して、苦々しい顔をした。屋内外を問わず、砦の至るところが血の海となったという、当時の様子を思い出しているのだろう。
「あのあたりだ。
「アモイ・トウヤどのですね」
「目覚ましい奮戦ぶりであった。あの姿を見て、勇気づけられた味方の兵も多かったろう。援軍が来るまで持ちこたえられたのは、かれの手柄と言っても過言ではない」
まるで自らの功績であるかのように語る将軍に、タカスは黙って頷いた。
今、露台の上では、配下の将兵が忙しく立ち回り、大量の矢束や投石を準備している。三年前の賊団の戦法に倣って、大きな鼎に油を煮る用意もある。軍備にしても気構えにしても、二十年前と同じではない。
だが、アモイの父が命を落としたその場所に、明日には自分の亡骸が転がるかもしれないと思えば、自然と手のひらに汗がにじんでくるのも事実だった。
結局、先の戦では
「敵は余力を残して引き上げた。後で聞いた話では、何やら本国の政情に異変があったそうな。それがなければ、どうなっていたか……。我が軍の被害は甚大で、生き残った者も疲弊していた。もしもあのまま戦いが長引いたなら、わしもここにはおらなんだかもしれん」
彼にとっては、勝ち戦ではなかったのだ。だからこそ前線に立つことにこだわり、雪辱を果たそうとしている。タカスにはそう見える。
おそらく、アモイもムカワ将軍と同じく、自ら先陣を切って父の仇を討ちたいのではないか。そんな気もしている。まだ紅顔の少年だったころから、美浜との戦いの日を見据えて鍛錬に励んでいた朋友の姿を覚えているからだ。
都でも最も名のある道場兼学問所・国士塾で同期生として出会ったとき、タカスは十二歳、アモイは十三歳。学問でも武芸でも実力が拮抗していた二人は、互いによい競争相手だった。要領がよく人懐っこいタカスと、温厚で辛抱強いアモイと、性格が違う割には妙に馬が合い、行動を共にすることも多かった。
ただ当時のタカスから見て、アモイは少々真面目すぎるきらいがあった。
タカスはまずまず裕福な高官の末子で、年の離れた異腹の兄姉たちからあれこれと知恵をつけられて育ったせいか、アモイの実直さをすぐには理解できなかった。自分にとっては学ぶことも鍛えることも、いずれ大人になったときに身を立てるための手段でしかない。だが一つ上の友にとっては、もっと大きな意味があるようだった。
亡父が先の戦で命を落としたこと。しかしその死に際に挙げた大功のおかげで、遺族である彼や母や妹は国から生活を保証され、こうして都に出てしかるべき教育を受けられるまでになったこと。だからこそ顔も覚えていない父にも、父の功を認めてくれた国にも、恩を返さなければならないということ。
そしていつか美浜国と戦う日が来たら、命に代えても父の無念を晴らすのだ……。
アモイの朗らかな笑顔の奥に、そんな悲壮な決意が秘められていたのを知ったのは、付き合い始めて数年後。彼が成人し、西陵城に赴任する王女の親衛隊の一人に取り立てられたときのことだ。名誉ある抜擢に喜ぶどころか、むしろ憮然としているのを不審に思って尋ねたところ、ようやく真情を吐露したのだった。
もちろんその後、彼はマツバ姫という人物に心から惚れこんで、ついには結婚にまで至ったのだから、無闇に前線に立つわけにはいかない現在の立場を悔やんではいないだろう。
とは言え、今、彼がいるのは奇しくも故郷・襲堰に新設した砦である。老母と妹夫婦が父の墓を守って暮らす、そのすぐそばにあって、どのような思いで戦の時を迎えようとしているのか。
「禍根は、ここで断ちましょう」
タカスが言うと、ムカワ将軍は眉間にしわを寄せたまま、「おう」と頷いた。
敵が攻撃を開始したのは、その数日後だった。
公子クドオの率いる本隊は、まだ姿形も見えない。自軍だけで先制攻撃を仕掛けてくるあたり、先鋒のオニビラという人物、ムカワ将軍に負けず劣らず血の気が多いようだ。
しかし四関は守るに堅く、攻めるに難い城だ。高い城壁の下は垂直に近い角度に切り立っている。通関を許される使者や旅人は、横へ迂回しながら何度も折り返す坂道を登ってくるが、荷車がようやく一台通れるほどの道幅しかない。
その細路をまどろっこしくも一列になって駆け上がってくるか、それとも道なき急斜面を一斉によじ登ってくるか。いずれにしても、四関の上で弓を構える山峡軍から見れば、格好の的になる。
問題は矢切れと体力の消耗だ。倒しても倒しても次の兵が攻めてくる、という状況では、さすがに根負けする。だからこそこの三年間で、四関には大量の矢と食糧が備蓄された。兵士については常置できる数に限度があるので、襲堰の砦との間にいくつかの陣を設け、臨機応変に補充や交代ができるように人員を控えさせている。
この態勢で、美浜の全軍を完全に防ぎきれるかどうかについては、予断を許さない。が、オニビラの先鋒隊だけならば、太刀打ちできないことはないはずだ。
案の定、敵は真っ向から崖を登ってきたが、投石と矢でしばらく応戦すると、大きな被害を出す前に退却した。翌日は朝早くにやってきて、昼過ぎまで粘ったが、雨が降り出すに及んで引き下がった。
それから十日ほど、敵兵は何度も崖下に姿を現したが、これと言った戦果もないまま攻めあぐねている様子だった。
「おかしい」
ムカワ将軍が、腕を組んでつぶやいた。
「小手調べにしても、長すぎる」
「敵は、本隊が来るまでの時間稼ぎをしているのではありませんか」
タカスは推測を述べた。すると将軍の浅黒い顔が、横に振られた。
「あのオニビラが、そんな弱気でいるとは思えん。むしろ、公子クドオが到着するまでに関を落として、功名を誇ろうとするような男だ。待っているとすれば、何か別のことだろう」
「別のこと、というと……」
「奴の功名心を満足させるような、何かだ」
二人は
果たして、四関の北にそびえる国境の峰に、敵の小隊が潜んでいるのが発覚した。タカスはすぐさま配下を引き連れて、先制攻撃をしかけた。隊長以下の数人を生け捕り、連れ帰って取り調べると、やはりオニビラの放った工作隊だった。
四関は海側の守備に特化しており、そのほかの方面からの攻撃は基本的に想定していない。山岳が立ちはだかる側面や、味方の出入りのために開かれる国内側の門は、いきおい守りが甘くなっている。
敵はそこを突こうとした。防備の薄い箇所から忍びこんで砦の内部に火を放ち、混乱に陥ったところを外から攻めかかる。そういう算段だったのだろう。
「正面攻撃は、陽動作戦でしたか。敵将も、さすがに二十余年を経て、知恵をつけたようですね」
「先の戦よりも少ない被害で、この砦を落としてみせるつもりでおったのだろう。見くびりおって」
ムカワ将軍はいまいましげに吐き捨てた。
「帰ってオニビラに伝えるがいい。小細工を弄さず、落とせるものなら落としてみよ。それができぬなら、おとなしく総大将の到着を待つがよい。もともと、我らの敵は公子クドオただ一人ぞ」
そう罵って捕虜たちの武具防具をすべて剥ぎ取り、下帯一つで城門から追い払った。
転がり落ちるように捕虜たちが駆け戻っていった、その日の夕方。敵陣に、猛々しい太鼓の音が鳴り響いた。
美浜の兵士たちが、再び崖下に整列した。松明の明かりは谷を埋め尽くし、星空も霞むほどの明るさだ。その先頭に一騎、ものものしい甲冑を身につけた将が進み出る。薄闇の中にもそれとわかる、筋骨たくましい壮年の男。オニビラだった。
ムカワ将軍の挑発に腹を立てたか、それとも奇襲策が封じられて開き直ったか。いよいよ敵は、本気で四関を攻め落とす腹を決めたようだった。
山峡側も城壁の上に多くの篝火を灯し、弓矢や投石が見やすくなるよう備えた。今回は鼎に油も煮て、その熱気もあってか、将兵の顔がどれも汗ばんでいるようだ。
タカスが砦内の各所を見回ってから櫓に戻ると、ムカワ将軍は一人、櫓の上で佇んでいた。拳を握り、瞬きもせずに、光に満ちた平野を見下ろしている。
――死守。
将軍の念頭には、この二字しかなかった。
建設途中の襲堰の新砦や、その途中に張った何箇所かの陣に、敵軍を防ぎきる力はない。四関を破られたなら、敵はもはや街道を行くがごとく、我が国を
だが、と、タカスは思う。確かに、先人たちは今までその一手で、危機を乗り越えてきた。とは言え、果たしてそれがいつまでも通じるものだろうか。
もう一つ、手はあるのではないか。敵軍の戦意をくじき、退却に追いこむ方策が。それは、ほとんど賭けと言えるかもしれない。しかし実際のところ、後顧の憂いを絶つために、最も望みのある道は。
――公子クドオ。あの男の首さえ取れば。
もちろんそれには、敵の本隊が来るまで持ちこたえなければ話にならない。オニビラごときに、この関を渡すわけにいかないのは確かだった。
死守する。文字どおり、命を失うことになっても。
それはつまり、二度と彼女に会えないことを意味する、が。
儚げな女の顔が脳裏に思い浮かんだとき、突如、周囲が静まったように思えた。敵軍の灯火も、櫓に掲げられた旗も、すべての揺らぎが瞬時、凍りついたかのような錯覚があった。
続いて、どうっと山を震わすような轟きが、四関の露台を駆け抜けた。
風が吹いたのだった。先ほどまでと向きが違う。海側から、獣の咆哮のような音とともに、旗竿を折らんばかりの強風が吹き上げてきた。
向かい風――敵にとっては、追い風。
タカスは唇を噛んだ。
オニビラが何事か怒鳴って、腕を挙げる。美浜軍の中から空に向けて、火矢が放たれた。
敵兵たちが喚声をあげて、突撃を開始する。
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