2-2
窓のない殺風景な部屋の真ん中に、女は独りで立っている。
視線の先には、壁に備えつけられた大きな姿見。映し出された自らの鏡像と向き合い、身じろぎもしない。その横顔に普段の柔和な雰囲気はなく、どこか悲壮な緊張感が漂っているようにも思える。
アモイはしばらくの間、声をかけるのをためらって、扉の隙間から黙って様子を見ていた。
しかし、彼も出陣準備で忙しい身だ。話をするなら、今しかない。軽く咳払いをしてから、そっと名を呼んでみた。
「イセホ」
彼女は瞬時、びくりと肩をすくめた。が、ゆっくりと振り向いた顔には、すでに穏やかな笑みをたたえている。
「お帰りなさいませ、アモイさま」
「起きていて、平気なのか」
「ご心配をおかけいたしました」
イセホは静かに頭を下げてから、どうぞ、と部屋の中へアモイを招いた。彼が入るかどうか迷っている間に、隅に置かれた敷物を持ってきて手際よく床に延べ、座る場所を設えてくれる。
「いや、あまり気を遣わずに。病み上がりなのだから」
「そうおっしゃられても、
微笑むイセホの白い頬には、まずまず健康的な血色が戻っているようだった。もっとも暑気に
いや、それだけではない。いつもの彼女と、顔つきが違っている理由は。
「貴女が髪を束ねているところを、初めて見た気がする」
「あら」
イセホは少し恥ずかしそうに後頭部へ手を回し、結い上げていた髪を解いた。長い黒髪はさらりと舞い落ちて、細い肩を包む。するとアモイもよく知っている、温和な眼差しが戻った。
「手仕事をするときなどは、たまに結うこともあるのですけれど。でも、マツバさまと間違えられてしまうので……」
「確かに、
「お茶をお持ちしますわね。どうぞ、お座りになってお待ちくださいませ」
橙色の裾がふわりと揺れて、イセホは部屋を出ていく。ほのかな残り香が、鼻腔をくすぐった。
用意された敷物に腰を下ろしてみても、どうにも落ち着かない。アモイはすぐに立ち上がって、部屋の中を所在なく歩き回った。
三年前までは、テイネの
──しかたがあるまい。外でやれば、女官どもの目に触れる。つまらぬ噂を立てられてはかなわぬからな。
姫はそう言って、木刀を振ったり筋力を鍛えたりするのに、この部屋を使っていた。結婚前にイノウに言われた、人目につくことはすべて婿に任せよというあの忠告を、どうやら律儀に守ろうとしているらしい。とは言え長年鍛練してきた体を鈍らせるのは惜しくもあり、こうして秘密の稽古場を設けたというわけだ。
扉には錠が付いている。大声でも出さなければ、外にいる者には室内の様子がわからない。おかげで彼女が今も武芸に磨きをかけていることを知るのは、都ではおそらくアモイとイセホぐらいのものだ。
しかも外にあまり出なくなった分、姫の肌の色は生来の白さを取り戻している。その印象もあって、他の者の目には、結婚前よりもしとやかになったように見えているのかもしれない。戦略としては、成功なのだろう。だがアモイの心中には、どこか釈然としないものも残っている。
彼は今、壁際に設えられた姿見の前に立っていた。先ほどイセホが見入っていた、あの鏡だ。
眉をひそめる。そこに映し出されていたのは、彼自身の姿だけではなかった。その背景に、青い海が広がっていたのだ。
振り返ると、鏡と反対側の壁に、一幅の絵画が飾られている。三年前、マツバ姫との婚儀に際して、公子クドオから贈られた祝いの品だった。
白い砂浜、白い波飛沫、白い海鳥。
遠くにうっすらと霞む、小さな島々の影。
そしてあとは、広大無辺の青海原……。
「これが、海というものなのでしょう」
いつの間にか、イセホが戻っていた。円い盆の上に、冷茶の入った碗を載せている。
「そうらしい。私も、見たことはないが」
言いながらアモイは茶を受け取り、口に運んだ。
やはり、ユウの淹れたものとは違う。香りが深く、味が出過ぎず、口当たりが柔らかい。
美味い、と思わずつぶやくと、イセホはにっこりと微笑んだ。その笑顔にたじろいで、ごまかすように視線をまた絵画に戻す。
「これはまことの海ではないと、マツバさまはおっしゃっていました」
イセホが言う。
「海ではない?」
「はい。まことの海が、かようにうららかな様子であるはずがない。これはただの絵だ、と」
「ただの絵……」
「ええ。ですからわたくし、まことの海とはどのようなものなのかとお訊きしましたの」
「マツバさまは、何と」
「『知らぬ。まだこの目で見てはおらぬゆえ』って」
物心ついたときから一緒にいるだけあって、さすがイセホは姫の口真似が上手い。
「でもきっと、見たことがなくても、マツバさまには何かが見えているのですわ。わたくしには見えないものが。たとえば、これも……」
と言って彼女は、帯に挟んだものを取り出した。それはこの部屋の合鍵だったが、見せようとしているのは、結びつけられた
まだ姫が
「わたくしは美しいと思って、こうしてお土産に買ってきてくださるのを楽しみにしているのですけれど。マツバさまは、脱け殻を見て何が面白いのかわからない、自分は中身にしか興味がないとおっしゃるのです。でも、貝殻飾りに、中身など入っていては困りますでしょう」
「いかにも、あのかたらしい」
アモイは笑って、ようやく敷物の上に腰を下ろした。自分が立っているかぎり、イセホも座ろうとしないのに気づいたのだ。
彼女も傍らに正座し、盆を横に置いた。そうして、アモイが冷茶をすする様子を、黙って見守っている。できるだけゆっくりと飲もうとしたが、あっという間に茶碗は空になってしまった。
さて、何を話したらよいか。特段に用事があるわけではなかった。まだ寝込んでいるなら見舞いという名目が立ったのだが、茶まで淹れてもらって対面した以上は、何かしら中身のある言葉をかけるべきなのだろう。
「実は、マツバさまに」
と言いかけて、すぐに後悔する。しかし相手の反応は早かった。
「マツバさまが、いかがなさいました?」
「あ、いや……何でもない」
「もしかして、マツバさまがおっしゃったのですか。わたくしを見舞うようにと」
あっさりと図星を突かれて、アモイは口ごもる。イセホは少し気まずそうな顔をして、膝の上にそろえた自分の指先に目を落とした。
――よいか、アモイ。出陣前に、必ずイセホと話をするのだぞ。
――話とは、一体、何の?
――何でもよい。ともかく、二人で会う時間を作れ。
西陵城を出る前に、アモイはマツバ姫からいつになく強い語調で命じられたのだった。
――戦に出るとは、生きて帰らぬかもしれぬということ。それを座して待つ女心も思うてみよ。
――はあ……。
――だが、今生の別れなどと口にするではないぞ。必ず帰ると、約束してやれ。
――私が、イセホにですか?
真顔で尋ねると、姫はさもあきれたような表情で舌打ちをして、何も答えてはくれなかった。自分の愚鈍を恥じ入るべきなのか、いや、むしろ、自らの侍女と密会するよう夫に勧める妻こそ非常識と言うべきではないのか。
それはともかく、アモイも内心ではイセホの体調を案じていたので、命令されたからしかたなく見舞ったのだと思われるのは不本意だった。
「ただの風邪でしたのに……。ご出陣前のお忙しいときに、お心を煩わせてしまって申し訳のう存じます」
「いやいや、夏風邪は甘く見ないほうがよい。冬の風邪よりも、かえって
失点を挽回しようとして、毒にも薬にもならない言葉を長々と連ねてしまう。
するとイセホはうつむいたまま、不意に両手を口に添えて、くすくすと笑いだした。自分の腹の底を見透かされた気がして、アモイは気が気でない。
「……何か、可笑しいことを言ったかな?」
「いいえ、ごめんなさい。違うのです。可笑しいのはわたくし」
イセホは破顔したまま、アモイの目を見つめ返した。
「こんな暑い季節に風邪を引いてしまうなんて。またマツバさまに、せっかちだとあきれられてしまいますわ」
「せっかち? 貴女が?」
「ええ。マツバさまのおっしゃるには、わたくしは何事にも、気が早すぎるそうなのです。昔からよく言われたものですわ。半年も先に産まれてきてしまうなんて、性急にもほどがある、と」
「ああ、なるほど」
イセホとマツバ姫とは一歳違いだが、実際の誕生時期は一年も離れていないらしい。二人はほとんど双子の姉妹のような感覚で育てられたというから、そんな理不尽な批判も成り立つのだろう。
「しかし貴女の側から見れば、マツバさまのほうこそのんびり屋だということになるのでは?」
「あら。そうですわね。今度、そう言い返してみますわ」
イセホはそう言って、また小春のような笑みを浮かべる。
こうしてマツバ姫の話をしてさえいれば、二人の間には何の気詰まりもない。ようやく心の緊張がほぐれてきて、ふとアモイは彼女に伝えるべきことを思い出した。
おもむろに懐から携帯用の巾着袋を取り出し、中をのぞく。懐紙やら
「イセホ。近々、西の城へ行くのだろう」
「ええ、明日にでも」
「では、これを持っていってくれないか」
手のひらの上に載せて見せたのは、古びた紐の結ばれた、いびつな赤い石だった。
西陵城へ帰還する直前、その近郊にある
アモイの結婚、それによって彼が現在の地位に就くことを言い当てた老人は、橋場の市でマツバ姫にも何かしらの予言を授けたようだ。詳細は聞かされていないが、彼女もそれ以来、名も知らぬ老人のことを気にかけていた。
だから老人と再会したこと、そして図らずもアモイがその死を看取ることになったことを、本来ならばマツバ姫に報告するべきだった。だが城では間近に迫った戦の件で持ちきりで、つい話しそびれてしまった。老人の遺品となった、この赤い石の首飾りのことも、すっかり忘れてしまっていたのだった。
「貴女の手から、マツバさまにお渡ししてほしいのだ」
「マツバさまに?」
「ある者の形見なのだが……。おそらく、あのかたにお持ちいただくべきものではないかと思う」
イセホはしばらく口を閉ざして、アモイの手のひらの上にあるそれを見つめていた。
が、やがて静かに両手を持ち上げ、差し出されたアモイの手を包みこむように握りしめた。
「えっ……」
虚を突かれたアモイがどぎまぎしていると、イセホは彼の手をつかんだまま、ゆっくりと押し返してきた。
「お預かりできません。どうぞ、御自らの手で、マツバさまにお渡しくださいませ」
そして黒く潤んだ瞳で、じっとアモイの目を見る。その手からは、微かな震えが伝わってくるようだ。
形見という言葉が、よくなかったのだろうか。自分が死を覚悟していて、心残りを片づけようとしているかのように見えたのだろうか。「生きて帰ると約束してやれ」というマツバ姫の命令が、耳によみがえる。
だが、こうして手を触れ、間近で見つめ合うと、何も言葉は出てこない。
アモイにできたのは、次第に震えが激しくなっていく細い肩を、そっと抱き寄せることだけだった。
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