第2章 面影
2-1
あれ、今、音を外したかな。
横笛の吹き口から唇を離すと、川のせせらぎが耳に押し寄せてきた。
ひときわ大きな柳の木が、川面に覆い被さるように枝を伸ばしている。その根本のある水際には大きな岩があり、昼過ぎにはちょうどよい具合に木陰に入る。増水時には近寄れないが、晴れていればその上に座って、心おきなく笛の練習ができた。
目白の声が聞こえる。柳の枝先がしなやかに揺れ、小さな鳥影が膝の上を横切った。
笛の中に溜まった唾を振り落としながら、ユウは光る川面を眺めた。下っていけばこの川は、
北西の山並みから袈裟懸けに国土を渡る大河は、冷たい疾風を伴って盆地の中央、都のすぐ脇を通過する。そして
数日前にその川を、たくさんの舟が下っていった。西陵城が備蓄している兵糧や武具の類いを、東原へ送るためだ。城に養われている童の中で力のありそうな少年たちが何人か、手伝いに駆り出されたと聞いている。
一方で、ユウの日常は平穏そのものだった。
もちろんマツバ姫のそばにいられるなら、どこに住んでも文句を言うつもりはない。ただ奥御殿にいるときの姫は、城主だったころとは別人のようにおとなしくて、どうにも物足りないのだ。何をしているのかは知らないが、一日のほとんどを部屋に引きこもって過ごしていた。たまに人前に姿を見せても、腰には剣を帯びていなくて、何となくがっかりする。
西陵に帰ってきて、真っ先に演武場へ足を運ぶ彼女を見たときは、思わず胸が弾んだものだ。もっともそれも最初の数日だけで、腕がなまっていないことをひととおり確認した後は、また深窓の姫君然とした生活に戻ってしまったのだが……。
しばし川面のきらめきを眺めていたユウは、再び木笛を口にあてがい、また同じ曲を吹き始めた。
ごく簡単な曲はいくつか吹けるようになったが、今練習している童謡は、一筋縄ではいかない。二月ばかりも秘密の特訓をしているが、とても他人に聞かせられるような出来映えではなかった。それでも、マツバ姫とイセホが幼いころによく一緒に歌った曲と聞けば、あきらめるわけにはいかない。絶対に会得して、二人の前で披露するのだと心に決めている。
引っかかるのは、いつも同じ箇所だ。ユウはその苦手な節を、繰り返し繰り返し吹き直す。
何回目の「もう一度」のときだったか。ふと、妙な感覚に襲われた。音が二重になって聞こえる。それも同時ではなく、わずかにずれて、追走してくる影の音色がある。
最初は小鳥のさえずりかと思ったが、彼女が吹くのを止めれば影も止まるのだ。吹き始めれば、寄り添うようにまた現れる。音の出所は、ごく間近だ。
「誰だっ?」
それが誰かの口笛であるらしいことにようやく気づいて、ユウは岩の上に立ち上がった。前には川しかない。左右、後ろの草むらにも木陰にも、人の気配はない。
虫の羽音が耳のあたりにまといつき、頭を振って追い払う。
気のせいだったのだろうか――。
自分の聴覚へわずかな疑いを抱いたとき、
「ここだよ」
葉擦れの音に紛れて、微かな笑い声がした。
ユウは頭上に目を凝らした。水際に立つ大きな柳の木の、大きく川面に張り出した枝の途中に、男が座っている。片足を曲げて枝の上に載せ、片足は下に伸ばしている。履き古した草履、白茶けた暗褐色の袴からして、裕福な身分ではなさそうだ。袖無しの
とっさには何と反応していいかわからず、ユウはただ岩の上から、男を睨み上げていた。と、男は唇をすぼめて、口笛を吹いた。さっきまでユウが練習をしていた童謡の一節だ。
「何ていう曲なんだ?」
吹き終わると、男は尋ねた。
「教えてくれよ」
枝から落ちるのではないかと思うほど男が体を傾けたので、それまで日陰で見えづらかった相手の顔が、ようやくはっきりと像を結んだ。
どこかで会っただろうか。奇妙な既視感があった。だが、そんなはずはないと思い直す。男の左の頬には、目立つ傷跡があった。目のすぐ下から顎のあたりまで及ぶ、かなり古そうな切傷だ。こんな特徴がある顔を、見忘れるとは思えない。
もしかすると、誰か知り合いに似ているのかもしれない。そう思って改めて眺めれば、朗らかで柔和な雰囲気は、どことなくアモイを思い出させる。歳も大体、同じくらいではないか。
ひとまずそう仮定してみると、少し警戒心が解けた。短い黒髪の下の、丸みのある眉。少年のように邪気のない瞳。傷跡に気をとられると身構えてしまうが、屈託のない表情はやくざ者のようには見えなかった。
「
しかし人見知りの
「知らないの?」
「初めて聞いた。のどかな曲だな」
それは自分にはまだゆっくりとしか吹けないからで、本当はもっと軽快な童謡なのだ。そう言おうか迷って、結局黙っていた。男は勝手に感心している。
「あんたは、そこで何をしてるの?」
「何って」
男は樹上で体勢を変える。枝が大きく揺れるが、当人は気に留めるふうもない。折っていた膝を立て、枝の上から川岸の地面へ飛び降りた。鮮やかな身のこなしだ。
身長は、あまり高くなかった。細身な割にがっしりとした印象の体つきをしていて、間近に立たれるとまた少し警戒心が戻る。
と、男の背が急に低くなった。ユウの立つ岩の端に、ひょいと腰かけたのだった。
「油を売っていたのさ。他に売るものがないからな」
そう言って下から見上げる笑顔は、やはり誰かに似ているように思えた。
「
「前はな。うまく行かなくて、東のほうから夜逃げしてきたのさ」
「夜逃げ……」
「この顔は商売には向かないみたいでな」
というのは、頬の古傷のことを指しているのだろう。頷いていいのかどうか、判断に困る。
「それ、見てもいいか?」
男は手を差し出した。ユウは少しためらいながらも、素直に木笛を渡した。
大きな手のひらだった。指も長く、ユウが押さえるのに苦労している穴をやすやすと塞いでみせる。そして彼が吹き口に唇をあてがうと、いきなり、清澄な低音が流れ出た。イセホでさえ要領をつかむのに幾度か練習を必要としたのに、この男はいとも簡単に、ひととおりの音階を吹きこなしてみせたのだ。
思わず男の傍らにしゃがみこんで、その指使いに見入る。音はやがて、探りながら、聞いたことのある旋律に移ろっていく。燕のうた──まさにユウが目指しているところの流暢で弾むような調べが、川のせせらぎと混じり合う。
「あんた、本当に商人?」
男が吹くのを中断したところで、ユウは尋ねた。
「楽士か何かじゃないの?」
「なるほど、そんな道もあるな。けど、楽士なんて、お召し抱えでもなけりゃ食っていけないからな。ここの城主さまは、芸事にはあまり興味がなさそうだし」
言いながら、笛を返して寄越す。もう少し吹いてもいいのに、とも思いつつ、ユウは黙って受け取った。
「第一、城は今、そんな場合じゃないだろうしな」
「何で?」
「何でって。戦が始まるからさ」
その言葉に、どきりとした。国中が噂している美浜との開戦は、ユウにとってはまだ曖昧な空想の断片に過ぎない。けれど男が発した戦という音声は、確かな現実感を伴って耳の中に落ちてきた。
戦が始まったら、笛なんて吹いてる場合じゃない、のか。
ふと訪れた沈黙を、男は何と思ったものか。傷のある頬に人好きのする笑みを浮かべて、童女の顔をのぞきこんだ。
「そんなに深刻な顔をするなよ。大丈夫、
「そうかな」
「そうさ。だから
「……」
「正直言えば俺も、できるだけ
「それって、ちょっと……」
「ん?」
「ずるくない? 城の人たちはみんな、戦うために出かけていったのに」
そう言うと、男はまじまじとユウの顔を見返した。非難されて気を悪くしたのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。小首をかしげて腕を組み、うーむと唸った。
「その発想はなかったな。他の国と戦うなんて、お上が勝手にやることだろう?」
「だけど、もしもこの国が負けちゃったら、どうするの。ここにいたって、結局みんな殺されちゃう」
「皆殺しなんてしないさ。
自分を安心させようとして言ってくれているのだろうと、ユウは思った。
しかし実際は、何の慰めにもならなかった。安全なところにいても、マツバ姫は紛れもない王家の血筋で、総大将であるアモイの妻。負け戦になれば、ただでは済まない。
そしてマツバ姫の身に何かあれば、ユウも生きてはいられないだろう。
「おい、おい、どうした。泣くなよ」
少女の目が潤むのを見て、男は狼狽した。
「泣いてないよ」
ユウは横を向いて、川に視線を向けた。薄雲が陽光を遮り、水面のきらめきは影を潜めている。
「もう、戦の話はやめにしよう」
「……うん」
「おまえ、名前は何ていうんだ」
強引に話題を切り替えようとして、男はそんなことを尋ねてきた。
「ユウ……」
「ユウか。なにユウだ?」
「苗字なんかない。ただのユウ」
「ただの?」
ユウは頷いた。すると男は、弾かれたように大声で笑いだした。
「何がおかしいのさ!」
「いや、悪い、悪い」
手のひらを振ってみせながら、まだ男は笑っている。ユウは頬が上気するのを感じた。
そもそもこの男とは、初対面なのだった。どこの誰ともわからない商人崩れの流れ者に、笛を貸したり名前を教えたりする筋合いなどなかったのだ。そう思うと、急にこの場にいるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
手に握っていた笛を腰の革袋に押しこんで、岩の上から飛び降りる。男がようやく笑いやめ、後ろから声をかけてきた。
「帰るのか?」
「遅くなると、叱られるから」
「そうか。じゃあ、頑張れよ。穴を塞ぐときは息が漏れないように、小指を寝かせてやるといい」
ユウは足を止めて振り返った。男は岩の上に斜めに腰かけて、こちらを見ている。折しも雲が流れて陽射しが戻り、木漏れ日が左頬の傷痕を白く照らしていた。
「あんたは?」
自分だけ名前を知られたままというのも、不公平だ。そう思い直して、尋ねてみた。
「名前、何ていうの?」
「俺か。ヒダカだ」
「ヒダカ、なに?」
風が走って、柳の枝と笹の葉が、ざあっと鳴った。男は片目をつぶってみせる。
「苗字しかないんだ。ただのヒダカさ」
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