第2章 面影

2-1

 あれ、今、音を外したかな。

 横笛の吹き口から唇を離すと、川のせせらぎが耳に押し寄せてきた。

 西陵せいりょう城の通用門を出て、市場へ向かう坂道を下っていくと、一条の小川にぶつかる。橋の周辺は流れが速くて水遊びには向かないが、はやを釣ったり沢蟹を獲ったりしている子どもたちをちらほら見かけることもある。ユウはいつもそこを素通りして、もう少し先、熊笹と柳の木々が川面を隠しているあたりまで土手を歩いていく。笹藪を横目に見ながら注意深く進むと、やがて獣道に通じる草の切れ目が現れる。秘密基地への入り口だった。

 ひときわ大きな柳の木が、川面に覆い被さるように枝を伸ばしている。その根本のある水際には大きな岩があり、昼過ぎにはちょうどよい具合に木陰に入る。増水時には近寄れないが、晴れていればその上に座って、心おきなく笛の練習ができた。

 目白の声が聞こえる。柳の枝先がしなやかに揺れ、小さな鳥影が膝の上を横切った。

 笛の中に溜まった唾を振り落としながら、ユウは光る川面を眺めた。下っていけばこの川は、山峡国やまかいのくに最大の河川である大風水おおかざみに合流するという。

 北西の山並みから袈裟懸けに国土を渡る大河は、冷たい疾風を伴って盆地の中央、都のすぐ脇を通過する。そして東原とうげんを蛇行した後、四関しのせきのある東南の方角から、盆地の外へと流れ出していく。

 数日前にその川を、たくさんの舟が下っていった。西陵城が備蓄している兵糧や武具の類いを、東原へ送るためだ。城に養われている童の中で力のありそうな少年たちが何人か、手伝いに駆り出されたと聞いている。

 一方で、ユウの日常は平穏そのものだった。西府さいふに帰ってきてからは大っぴらに剣の稽古もできるし、時にはこうして外で羽を伸ばす時間もあって、窮屈な都での暮らしよりもずっといい。

 もちろんマツバ姫のそばにいられるなら、どこに住んでも文句を言うつもりはない。ただ奥御殿にいるときの姫は、城主だったころとは別人のようにおとなしくて、どうにも物足りないのだ。何をしているのかは知らないが、一日のほとんどを部屋に引きこもって過ごしていた。たまに人前に姿を見せても、腰には剣を帯びていなくて、何となくがっかりする。

 西陵に帰ってきて、真っ先に演武場へ足を運ぶ彼女を見たときは、思わず胸が弾んだものだ。もっともそれも最初の数日だけで、腕がなまっていないことをひととおり確認した後は、また深窓の姫君然とした生活に戻ってしまったのだが……。 

 しばし川面のきらめきを眺めていたユウは、再び木笛を口にあてがい、また同じ曲を吹き始めた。

 ごく簡単な曲はいくつか吹けるようになったが、今練習している童謡は、一筋縄ではいかない。二月ばかりも秘密の特訓をしているが、とても他人に聞かせられるような出来映えではなかった。それでも、マツバ姫とイセホが幼いころによく一緒に歌った曲と聞けば、あきらめるわけにはいかない。絶対に会得して、二人の前で披露するのだと心に決めている。

 引っかかるのは、いつも同じ箇所だ。ユウはその苦手な節を、繰り返し繰り返し吹き直す。

 何回目の「もう一度」のときだったか。ふと、妙な感覚に襲われた。音が二重になって聞こえる。それも同時ではなく、わずかにずれて、追走してくる影の音色がある。

 最初は小鳥のさえずりかと思ったが、彼女が吹くのを止めれば影も止まるのだ。吹き始めれば、寄り添うようにまた現れる。音の出所は、ごく間近だ。

「誰だっ?」

 それが誰かの口笛であるらしいことにようやく気づいて、ユウは岩の上に立ち上がった。前には川しかない。左右、後ろの草むらにも木陰にも、人の気配はない。

 虫の羽音が耳のあたりにまといつき、頭を振って追い払う。

 気のせいだったのだろうか――。

 自分の聴覚へわずかな疑いを抱いたとき、

「ここだよ」

 葉擦れの音に紛れて、微かな笑い声がした。

 ユウは頭上に目を凝らした。水際に立つ大きな柳の木の、大きく川面に張り出した枝の途中に、男が座っている。片足を曲げて枝の上に載せ、片足は下に伸ばしている。履き古した草履、白茶けた暗褐色の袴からして、裕福な身分ではなさそうだ。袖無しの単衣ひとえから突き出た腕はそれほど太くはないが、引きしまった筋肉が見えて若々しい。その腕を枝の節にかけて、器用に平衡を保ちながら上半身を乗り出し、こちらを見下ろしている。

 とっさには何と反応していいかわからず、ユウはただ岩の上から、男を睨み上げていた。と、男は唇をすぼめて、口笛を吹いた。さっきまでユウが練習をしていた童謡の一節だ。

「何ていう曲なんだ?」

 吹き終わると、男は尋ねた。

「教えてくれよ」

 枝から落ちるのではないかと思うほど男が体を傾けたので、それまで日陰で見えづらかった相手の顔が、ようやくはっきりと像を結んだ。

 どこかで会っただろうか。奇妙な既視感があった。だが、そんなはずはないと思い直す。男の左の頬には、目立つ傷跡があった。目のすぐ下から顎のあたりまで及ぶ、かなり古そうな切傷だ。こんな特徴がある顔を、見忘れるとは思えない。

 もしかすると、誰か知り合いに似ているのかもしれない。そう思って改めて眺めれば、朗らかで柔和な雰囲気は、どことなくアモイを思い出させる。歳も大体、同じくらいではないか。

 ひとまずそう仮定してみると、少し警戒心が解けた。短い黒髪の下の、丸みのある眉。少年のように邪気のない瞳。傷跡に気をとられると身構えてしまうが、屈託のない表情はやくざ者のようには見えなかった。

つばくろのうた」

 しかし人見知りのさがで、答える声音はつい不機嫌な調子になる。

「知らないの?」

「初めて聞いた。のどかな曲だな」

 それは自分にはまだゆっくりとしか吹けないからで、本当はもっと軽快な童謡なのだ。そう言おうか迷って、結局黙っていた。男は勝手に感心している。

「あんたは、そこで何をしてるの?」

「何って」

 男は樹上で体勢を変える。枝が大きく揺れるが、当人は気に留めるふうもない。折っていた膝を立て、枝の上から川岸の地面へ飛び降りた。鮮やかな身のこなしだ。

 身長は、あまり高くなかった。細身な割にがっしりとした印象の体つきをしていて、間近に立たれるとまた少し警戒心が戻る。

 と、男の背が急に低くなった。ユウの立つ岩の端に、ひょいと腰かけたのだった。

「油を売っていたのさ。他に売るものがないからな」

 そう言って下から見上げる笑顔は、やはり誰かに似ているように思えた。

商人あきんどなの?」

「前はな。うまく行かなくて、東のほうから夜逃げしてきたのさ」

「夜逃げ……」

「この顔は商売には向かないみたいでな」

 というのは、頬の古傷のことを指しているのだろう。頷いていいのかどうか、判断に困る。

「それ、見てもいいか?」

 男は手を差し出した。ユウは少しためらいながらも、素直に木笛を渡した。

 大きな手のひらだった。指も長く、ユウが押さえるのに苦労している穴をやすやすと塞いでみせる。そして彼が吹き口に唇をあてがうと、いきなり、清澄な低音が流れ出た。イセホでさえ要領をつかむのに幾度か練習を必要としたのに、この男はいとも簡単に、ひととおりの音階を吹きこなしてみせたのだ。

 思わず男の傍らにしゃがみこんで、その指使いに見入る。音はやがて、探りながら、聞いたことのある旋律に移ろっていく。燕のうた──まさにユウが目指しているところの流暢で弾むような調べが、川のせせらぎと混じり合う。

「あんた、本当に商人?」

 男が吹くのを中断したところで、ユウは尋ねた。

「楽士か何かじゃないの?」

「なるほど、そんな道もあるな。けど、楽士なんて、お召し抱えでもなけりゃ食っていけないからな。ここの城主さまは、芸事にはあまり興味がなさそうだし」

 言いながら、笛を返して寄越す。もう少し吹いてもいいのに、とも思いつつ、ユウは黙って受け取った。

「第一、城は今、そんな場合じゃないだろうしな」

「何で?」

「何でって。戦が始まるからさ」

 その言葉に、どきりとした。国中が噂している美浜との開戦は、ユウにとってはまだ曖昧な空想の断片に過ぎない。けれど男が発した戦という音声は、確かな現実感を伴って耳の中に落ちてきた。

 戦が始まったら、笛なんて吹いてる場合じゃない、のか。

 ふと訪れた沈黙を、男は何と思ったものか。傷のある頬に人好きのする笑みを浮かべて、童女の顔をのぞきこんだ。

「そんなに深刻な顔をするなよ。大丈夫、西府ここにいれば危険はないさ」

「そうかな」

「そうさ。だから御嶺ごりょうさまだって、奥方を留め置かれたんだろう」

「……」

「正直言えば俺も、できるだけ戦場いくさばから離れようと思って、こっちへ移ってきたんだ。巻きこまれるのはまっぴらだからな」

「それって、ちょっと……」

「ん?」

「ずるくない? 城の人たちはみんな、戦うために出かけていったのに」

 そう言うと、男はまじまじとユウの顔を見返した。非難されて気を悪くしたのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。小首をかしげて腕を組み、うーむと唸った。

「その発想はなかったな。他の国と戦うなんて、お上が勝手にやることだろう?」

「だけど、もしもこの国が負けちゃったら、どうするの。ここにいたって、結局みんな殺されちゃう」

「皆殺しなんてしないさ。北湖きたうみがいい例だ。下々の民は、ほとんど元のままの暮らしをしてる。追放されたり殺されたりするのは、王さまやその取り巻きだけさ」

 自分を安心させようとして言ってくれているのだろうと、ユウは思った。

 しかし実際は、何の慰めにもならなかった。安全なところにいても、マツバ姫は紛れもない王家の血筋で、総大将であるアモイの妻。負け戦になれば、ただでは済まない。

 そしてマツバ姫の身に何かあれば、ユウも生きてはいられないだろう。

「おい、おい、どうした。泣くなよ」

 少女の目が潤むのを見て、男は狼狽した。

「泣いてないよ」

 ユウは横を向いて、川に視線を向けた。薄雲が陽光を遮り、水面のきらめきは影を潜めている。

「もう、戦の話はやめにしよう」

「……うん」

「おまえ、名前は何ていうんだ」

 強引に話題を切り替えようとして、男はそんなことを尋ねてきた。

「ユウ……」

「ユウか。ユウだ?」

「苗字なんかない。ただのユウ」

「ただの?」

 ユウは頷いた。すると男は、弾かれたように大声で笑いだした。

「何がおかしいのさ!」

「いや、悪い、悪い」

 手のひらを振ってみせながら、まだ男は笑っている。ユウは頬が上気するのを感じた。

 そもそもこの男とは、初対面なのだった。どこの誰ともわからない商人崩れの流れ者に、笛を貸したり名前を教えたりする筋合いなどなかったのだ。そう思うと、急にこの場にいるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

 手に握っていた笛を腰の革袋に押しこんで、岩の上から飛び降りる。男がようやく笑いやめ、後ろから声をかけてきた。

「帰るのか?」

「遅くなると、叱られるから」

「そうか。じゃあ、頑張れよ。穴を塞ぐときは息が漏れないように、小指を寝かせてやるといい」

 ユウは足を止めて振り返った。男は岩の上に斜めに腰かけて、こちらを見ている。折しも雲が流れて陽射しが戻り、木漏れ日が左頬の傷痕を白く照らしていた。

「あんたは?」

 自分だけ名前を知られたままというのも、不公平だ。そう思い直して、尋ねてみた。

「名前、何ていうの?」

「俺か。ヒダカだ」

「ヒダカ、なに?」

 風が走って、柳の枝と笹の葉が、ざあっと鳴った。男は片目をつぶってみせる。

「苗字しかないんだ。ヒダカさ」

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