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地図で見ると、
国土は広いが、その大半を湖と山が占め、居住できる領域は狭かった。その分、人口も少ないが、資源には恵まれた土地だった。それを
殊に建築や工芸など、ものづくりの分野では美浜にも引けをとらず、湖面に映える首都の美観は「天界の鏡像」とまで称えられた。
しかしそれらすべては、過去形でしか語ることができない。
美浜軍の侵攻を受けた北湖国は始めこそ徹底抗戦の構えを見せていたものの、結局は半年ほどで降伏を余儀なくされた。侵略者は他の町村や城塞には目もくれず、あくまで湖畔の都だけを目指して兵を進め、その美しい街並みを破壊し尽くしたのだ。無惨に崩れ果て焼け落ちた廃墟を目の当たりにした北湖の兵士たちは戦意を喪失し、全軍の士気が瞬く間に下がっていった。
かくして北湖の国土は、都以外はほとんど無傷のまま、名実ともに美浜のものとなった。湖も森林も山岳地帯も、それらがもたらす豊かな資源も。王家は離散し、今では前髪を青く染めた領事たちが各地の統治を行っているという。
山峡国にとっても他人事ではない。ほとんど交通は断絶していても、北湖は隣国に違いなかった。彼らの領域が美浜に飲みこまれてしまった今、盆地は寄るべなき孤島だ。
そのような状況下であるから、アモイの
しかし対策が完了する前に、期限は訪れようとしている。
「それで、美浜の若殿は一体、何を言って参ったのですか」
広間に集まった若武者たちは皆、身を乗り出すようにして話を聴いている。その先頭にいるのは、騎馬隊長のタカスだ。アモイが城主となった今、彼が
彼の正面に当たる上座に腰を落ち着けたアモイは、傍らに控えるムカワに目配せをする。城代は黙って片眼鏡を装着すると、手元にある巻き紙を紐解いて、中身を読み上げ始めた。
それは先般、公子クドオから送られてきた書状の文面を写したものだ。品のある文体、流れるような筆致、穏当な言葉選び。だがそれらが伝えている内容は、まったく穏やかならぬものだ。
曰く──我々はまさに新しい時代を迎えようとしている。両国ともおおよそ世代交代を果たした今、諍いは過去のものとなり、お互いにとって円満な未来へ歩みだす機は熟したはずだ。我が国はかねてより、友好の手を差しのべてきた。が、虚しく宙をつかむばかりで、一向に手応えはない。貴国におかれては、我らとの誼など無用とお考えなのだろうか……。
文面だけを読めば、まるで美浜からの親善の申し出を、山峡が拒絶したかのような言い草だ。
心当たりがないわけでもない。昨年、美浜では、公子クドオの父である王の生誕五十年式典が挙行された。その直前、公子クドオは唐突に、アモイとマツバ姫への招待状を送りつけてきたのだ。夫婦は丁重に辞退を申し入れ、代わりに慶賀の使者を立てることにした。どうもこのことを指して、交誼を拒まれたと言いたてているらしい。
三年前に公子が自ら緊張関係にある山峡を訪れ、先の王の葬祭に参列したことは、民衆にも知れわたっている。我が国の若殿が危険を顧みずに歩み寄ってみせたというのに、鍋底の山猿どもは返礼もしないつもりか……そんな非難の声が、美浜の臣民の中から上がっているという。
仕組まれたような怒りだ、とアモイは直感する。そもそも宴への招待からして、断られるのを承知の上だったように思えてならない。何であれ難癖をつけて喧嘩をふっかける、それが彼らの常套手段なのだ。
善き属国であったはずの北湖との関係が急速に冷えこんだのも、美浜側が一方的に朝貢の加増を要求し、渋る相手を糾弾し始めたのが発端だった。公子クドオが腹心のヒヤマ・ゼンと共に山峡を訪ねてきたのはちょうどその時期で、つまりは戦を始める前に、余計な横槍が入らないよう牽制しに来たというわけだ。やがて帰国した公子の結婚式が催されるに及んで、充分な祝意を示さなかった属国にいよいよ叛意ありと見なし、開戦の口実としたのである。
いくらか手順は異なるが、山峡に対してもやり口は似たようなものだ。強引に非礼をあげつらった挙げ句、落とし前として、毎年の貢ぎ物を約束せよという。それを彼らは友好と呼び、従わない者は敵として扱うのだ。
──麗しの鏡の都が無惨にも焼け落ちるさまは、思い起こしても胸の痛む光景だった。ぜひとも貴国には、かけがえのない宝を失うことのないよう願っている。
公子からの親書は、そう結ばれていた。
ムカワが紙を置いて片眼鏡を外す微かな音が、広間に響いた。それほどに、男たちは静まり返っていた。
「……それで、
ややあって、タカスが言葉を発した。その声は怒りに震えている。
「まさか、言われるがまま、貢ぎ物を差し出すということはありますまいな」
「冗談ではない。かかる屈辱を受けて、どうして黙っていられましょう」
「我らは北湖とは違う。たとえ都を潰されようと、西の城があるかぎり、
「日ごろの鍛練の成果を見せてくれましょう」
他の将たちの口からも、堰を切ったように熱い心情があふれ出てきた。
ここはよい、というマツバ姫の言葉を思い出す。宮臣たちに同じ文面を読み聞かせたときも長い沈黙が訪れたが、その表情はまったく違っていた。予期してはいたものの、できうるなら避けられないかと願っていた国難が現実になり、彼らはしばし呆然自失となった。しかし西陵の若武者たちは、むしろ昂る思いを必死で抑えようとしている様子だ。
「私も、皆と同じ気持ちだ」
アモイはそう言って、ひとまず将たちを落ち着かせる。
「わかっていると思うが、美浜が真に求めているものは、貢ぎではない。服従の証だ。つまり問題は、金品を差し出すか否かではなく、剣を抜くか兜を脱ぐかということだ」
男たちは口を結んでアモイの言葉に聞き入っている。静かな熱気が、室内に充満していた。
「今、挑発に乗ってこちらから剣を抜けば、向こうに大義名分を与えてしまうことになりはしないか。そう案ずる者もある。だがいずれ避けて通れぬ道ならば、立ち止まっているわけにもいかん。そして服従か抗戦か、道が二つしかない以上、進むべき方向は決まっている」
「それでは……」
「都では、すでに、戦の準備を始めさせている」
溜め息のような、唸りのような重低音が、男たちの中から湧き上がった。
「
「説き伏せるのに苦労したがな」
アモイは苦笑して頷いた。実際、家老であるイノウ・レキシュウの口添えがなければ、結論が出るまでにもっと時間がかかっただろう。
決着がつくまで、何年かかるかもわからない。人手不足、馬不足、軍需物資とてまだ充分な蓄えがあるわけではなく、新しい砦の建設もまだ終わっていないという状況で、開戦は無謀だと考える者がいるのは当然だ。一旦は貢ぎ物を差し出して時間稼ぎをするべきだという主張も、臆病だと笑うことはできなかった。
しかし、アモイは公子クドオと直に対面し、相手の人物を多少なりとも知っている。ごまかしの通用する相手ではない。たとえ面従腹背のつもりでいても、ひとたび譲歩すれば彼はその機を逃さないだろう。後になって抵抗などできないよう、潰しにかかってくるのは目に見えている。
──公子クドオに、この国は渡さぬ。
この場にはいないマツバ姫の声が、アモイの心からあらゆる迷いを取り払う。生まれて初めての本格的な戦に意気込む若者たちそれぞれの胸にも、彼女の声は響いているようだった。
先ほどムカワにも見せた地図を取り出し、早速、軍議を始めることにした。まずは前線である四関と司令本部を置く
「タカス、四関へ配備する隊については、おまえが率いていってくれ。まっすぐに国境まで向かい、ムカワ・カウン将軍の指揮下に入るように」
「はっ」
「東原と襲堰への援軍は、私と共に出陣する。一度、都に戻り、宮軍と合流してから
応、承知、と部屋中から威勢のよい応答が返ってきた。アモイは頷いて、最後に西陵城を指さす。
「我が領内はかなり手薄になる。城代には苦労をかけるが、どうか留守をよろしく頼む」
と振り返ると、ムカワはいつの間にか再び片眼鏡を右目にかけて、公子からの書簡の写しを読み返していた。
「城代。何か気になることが?」
紙面から顔を上げて、ムカワは「いいえ」と言った。
「この難局を乗りきるには、皆が心を一つにして事に当たらなければならん。考えがあるならば、包み隠さずに言ってほしい」
あえて問い詰める。三年前にこの部屋でマツバ姫とアモイの婚約について明かしたときも、ムカワは独り、他の将たちとは違う次元で思案をしていた。そのときに姫はアモイに、フモンの使いかたに慣れろ、と助言したのだった。
「なぜ今なのかと、考えておりました」
ムカワは簡潔に答える。
「なぜ今か……というのは?」
「戦は国力を消耗する。いかに大国とは言え、北湖の平定からわずか二年で新たな戦を始めようとするのは、いささか性急に過ぎるのではないかと」
今にも出陣せんばかりの熱気に包まれていた将たちは、冷や水を浴びせられたような表情になる。お互いに顔を見合わせ、やがてタカスが口を開いた。
「それは私も思いましたが……。しかし北湖との戦いは、非常に短かった。都を破壊した後は、ほとんど戦らしい戦にはならなかったと聞いています。国力の消耗など、ごくわずかだったのでは?」
「都を征圧しただけの短き戦ならば、なおさら、その後の地盤固めには時間がかかる。国は降伏しても、人心が落ち着くまでは目を離せないはず。各地に散った残党も、まだ捕らえきれてはいまい」
タカスは頭を掻いた。
「敵には、敵の事情があるのでしょう。いずれにしても今、我らのなすべきことは変わらないのではありませんか」
血気にはやる将たちは、タカスの言葉に頷いている。一方でアモイは、ムカワの発言の意味を必死で探っていた。マツバ姫なら、彼の疑念を無下には扱わないような気がしたのだ。
「敵の事情、なるほど」
ふと思いついて、アモイは言った。
「美浜には戦を急がなければならないような事情があるのではないかと、城代は言われるのだな。それを知ることは、敵の弱みをつかむことになるかもしれないと」
「さて、そこまでは」
せっかく言い当てたと思ったのに、ムカワの反応は素っ気ない。
「しかし戦をする理由と、戦をやめる理由は表裏一体と言えましょう。向こうが手を引けば、我が国とて要らぬ犠牲を払う謂れはありますまい」
と、また皆の士気を削ぐようなことを言う。だが、彼の洞察に一理あるのも確かだった。
アモイは立ち上がって、広間を見渡した。
「タカスの申すとおり、敵の真意はどうあれ、我々がなすべきことは変わらん。各々、すぐに出陣準備にかかってくれ。国を挙げての戦だが、実際、命運を握っているのは、今ここにいる我々だと言っていい。そのつもりで頼む」
総大将の言葉に、男たちはすぐ活気を取り戻す。それを見届けてから、アモイはムカワに向き直り、
「城代、その事情とやら、少し探ってみてくれるか。もちろん、領内の
「御意」
「それから戦の間、妻はこの城に留めておこうと思う」
ムカワの片眼鏡が、ちらりと光った。
戦場から最も遠い城に家族を移すのは、ごく普通の安全策に見えるだろう。しかし、マツバ姫は普通の妻ではない。夫であるアモイすら知らない情報筋を、いくつも抱えている。おかげで奥御殿にひっそりと暮らしているように見せながら、今も相変わらずの情報通だ。ムカワが敵の内情を探ろうとするなら、大きな助けになるだろう。
それに何より、マツバ姫にはやはり、この城にいるのがよく似合う。
「護ってくれ。何があっても」
ムカワはアモイの意図を察したのかどうか、ゆっくりと頭を垂れて、「しかと承ってござる」と平坦に答えた。
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