1-3

 的の中央部は赤く塗られている。その円のちょうど真下、わずかに外縁にかかる位置に、矢は突き立った。

 観衆から拍手が起こる。弓場はむせるような熱気で満ちていた。

 城館の東側に広がる演武場の中央には、二階建ての小さな建物がある。鍛錬する将兵の休憩室と、警備兵の宿直室を兼ねたこの棟は、かつて音曲と茶の香り漂う典雅な離れだった。マツバ姫が城主として着任する以前、この一画は大庭園を為しており、四季の移ろいをこの離れから愛でることができた。先任の城主は、あまり体は丈夫でなかったが、そのせいかどうか、風流な人物だったらしい。

 しかし残念なことに、十二歳で赴任した後任者は、頑健にして合理主義だった。彼女は館の西側にある松の庭と、あと少々の中庭や前庭があれば、ゆとりの空間は充分と考えた。離れは改築され、四季の庭は馬場や弓場、剣道場、格技場に生まれ変わった。総じて演武場と呼ばれるようになったこの一画は、今は将兵の調練に使われるほか、城に仕える者なら誰でも利用できる自己鍛錬の場となっている。

 今は休憩所も馬場も剣道場もいつになく閑散として、代わりに弓場に人がたかっている。男たちが息を詰めて注視する中で、また一本の矢が、風を切り裂いて飛んだ。

 この一矢は、見事に赤い円の中心を射抜く。小気味よい音が響いて、周囲から歓声があがった。

 参りました、と、先に矢を放った若者が立礼をし、人だかりの中へ退いていった。後に射た人物は観衆を見渡して、

「さあ、次は誰か? 腕に覚えのある者は?」

 と澄んだ声で呼ばわった。応、と何人かが声をあげ、挑戦を受けて立とうと身を乗り出してくる。

 その中の誰を次の相手に選ぼうかと、彼女は視線を巡らす。と、そこでようやく、人混みに紛れこんだ夫の顔に目を留めた。

「おお、我が殿、お出ましであったか」

 悪びれもせず、彼女は快活に笑った。

 長身を包んだ家紋入りの胴着。束ねられた黒髪。やや皮肉めいた笑み。そして何より、鋭く切れた眼に浮かぶ強い光。

 その耳に銀の環が揺れていなかったなら、いよいよ三年前に戻ったかと錯覚を起こしたことだろう。

 周囲もアモイに気づいて、ざわめきが静まった。身を乗り出していた若者たちも、人混みの中に退いた。タカスがしつこく背を押してくるので、アモイはしかたなく前に出る。

「ここで夫婦の腕比べというのも、また一興だな」

 マツバ姫はそう言うと、担いでいた大弓を夫のほうへ片手で差し出した。おおっ……と、観衆にどよめきが広がる。

 その挑発に乗るべきか否か、一瞬の逡巡があった。すると彼女は、すぐにそれを察したらしい。素早く手を引き戻して、

「と言いたいところだが、御嶺ごりょうの君ともあろうおかたに、万が一にも恥をかかせてしまっては申し訳ない。やめておこうか」

 と笑ってみせた。そして観衆の不満げな吐息を尻目に後ろを振り返り、「手拭いを」と命じた。

「はいっ」

 少し離れたところに控えていた童女がはしっこい足取りで駆け寄ってきて、弓を預かり、手拭いを捧げた。

「おっ、あの娘、ユウじゃないか」

「ええ、大きくなりましたね」

 アモイの背後ではタカスとテシカガが、まるで親戚の子でも見るような口ぶりで話している。

 三年前までこの城で養われていた孤児みなしごの童女は、今は王宮の奥御殿で小間使いとして暮らしている。歳は十二、三くらいになっただろうか。久々に見れば成長ぶりを感じられるのかもしれないが、アモイの目にはそれほど大きくなったようには見えない。

 ただ髪の毛のほうは、随分伸びた。うなじの位置で左右に分けて束ねた毛先が、烏の尾羽のようだ。短く刈り上げていたときの少年のような風貌に比べると、いくらか娘らしくなったように見える。

 もっとも、負けん気の強い性格はそのままだ。大弓を両腕で抱える様子はいかにも危なっかしいが、誰かに手助けされることを全身で拒んでいる。腰には細い棒状の革袋を差していて、まるで短剣でも帯びているように勇ましい。中身は木製の笛なのだが、いつぞやそれを武器に悪漢に立ち向かったこともあるとかで、肌身離さず持ち歩いているのだった。

「こいつは驚いた。しばらく見ないうちに、すっかり別嬪になったものだな」

 タカスがわざと本人に聞こえるように言い、周りの若者たちがどっと沸いた。ユウはうれしいのか恥ずかしいのか、パッと顔を赤く染める。そして、なぜかアモイを睨んできた。

「ユウ。その弓を貸してくれ」

 少女の照れ隠しには気づかないふりをして、アモイは言った。

 ユウは丸い目を見開いて、マツバ姫を振り返る。姫が頷くと、渋々、という顔を作ってみせてから、大弓を両手で差し出した。

 受け取った弓を手に、的の前に立つ。取り巻く観衆が、また静まり返った。テシカガが気を利かせて、矢を渡してくれた。

 弦に手挟んで、ゆっくりと構える。引き絞った弓がしなって、きりきりと鳴る。掌に汗が湧いた。

 試射ちはわざと的を外して、外側の畳に当てた。それで少しは勘がつかめるかと思ったが、手応えは心もとない。都では政務に追いたてられて、武芸の鍛錬に割く時間はめっきり減ってしまっている。が、よもや、この場で言い訳などできようはずもない。

 腹を決めて、本射ちの矢をつがえた。視界の隅に、腕を組んで見ているマツバ姫の顔が映った。

 弦が鳴る。唸りを上げて飛び出した矢は、次の瞬間にはかんと乾いた音を響かせる。

 マツバ姫が射た矢のすぐ隣にぴたりと並んで、アモイの矢もまた正鵠に突き立っていた。

 一瞬の沈黙の後に、歓声が沸いた。振り向くとマツバ姫も、テシカガもタカスも、かつてと寸分違わぬ笑顔だった。ユウの仏頂面もまた、あのころと何一つ変わらないように思えてならない。あるいは自己の願望が、そう見せているに過ぎないのだろうか。

 弓合戦はそれで解散した。アモイはタカスやテシカガと別れて、マツバ姫とともに城館の中へ戻る。奥の棟の二階、松の庭を見下ろす空室。マツバ姫とアモイが結婚の約束を交わした、因縁の部屋だ。

 あの日と同じく、真紅の装束に着替えた姫は、ユウの運んできた冷茶を啜っている。アモイも碗を手に取り、渇いた喉を潤した。イセホにはかなわないが、童女の淹れた茶もなかなかのものだった。

 ちなみにイセホは、今回の帰還には同行していない。暑気に中って、体調を崩してしまったらしい。奥御殿に居残り、回復を待って後から来る予定だという。その間、侍女の代役を仰せつかった童女は、いじらしいほどの張りきりようだった。

「甥御どのから、こんなものをお預かりしましたが」

 ユウが退出したのを見計らって、アモイはムカワから渡された書き付けを取り出した。

「フモンめ、さすが仕事が早いな」

 姫は紙片を受け取り、そこに書かれたいくつかの家系図にざっと目を通していく。

「これで一体、何を? いずれも、すでに絶えた旧家の系譜だとうかがいましたが」

「一つでよいと申したのだがな。選べるとなると、迷うものだ。さて、どれがあやつに似合うか……」

「あやつ?」

「バンだ」

 やはり、とアモイは思った。一昨日、単身で城を訪れ、城主に面会を求めたという謎の男。三年前にマツバ姫の密命を受けて四関しのせきを制圧し、わずかな兵で美浜みはまの大軍と対峙した、あの無頼漢だったのだ。 

 タカスに砦を明け渡した後はどこへともなく姿を消し、それきり何の消息もなかった。今になって、なぜ急に顔を見せたのだろうか。

「呼ばれて来た、と言っていたそうですが、マツバさまがお召しになったのですか」

「いや。そう言えば私が顔を出すと思うて、ハッタリを申したのであろう」

「いかにもあの男らしい。しかし、唐突にまた、何の気が向いてやってきたのでしょう」

「仕事があるなら引き受けてやるから、借金の肩代わりをしてくれと」

「あきれた言い分ですね」

 思わず苦笑したものの、それはあの男の真意ではない気がした。どうやら姫も、同じ考えでいるらしい。

 三年前、命がけの大仕事に対して彼が求めた報酬は、田舎に置き去りにしてきた家族の面倒を見てほしいというものだった。アモイとマツバ姫は約束どおり、彼の老母と妻、二人の娘の暮らす家を探し出し、食糧と薬を贈った。農耕馬とつがいの山羊も。それから人を遣って、潰れかけた小屋を建て直させ、井戸を修理させた。老母は地にひれ伏して繰り返し礼を言い、妻は「あの人がこれほどの手柄を立てたなんて」と泣き崩れた。

 しかし一方で、金子については「使い道がない」と言って、頑として受け取らなかった。より住みやすい町に屋敷を用意すると言っても、丁重に断ってきた。

──そろそろ、あの宿六が帰ってくるころかもしれないから。

 だから今も、痩せた土地を耕しながら細々と暮らしているはずだ。

「あれから、妻子には会いに行ったのでしょうか。お訊きになりましたか」

「今さら顔など出せるものか、と申しておった。が、あれはどうも、隠れて様子を見に行っているな。今の暮らしぶりを知っているような口ぶりであったわ」

「なるほど」

 彼の家族が暮らしている田舎は、東原とうげんの外れにある窪沼くぼぬまという村だ。新しい砦を建設中の襲堰かさねぜきとは、目と鼻の先にある。最近になって足を運んだとしたら、迫りくる戦の気配を肌で感じたとしても不思議はない。

 戦になる──実入りのいい仕事をする好機をとらえたのだろうか。いや、それよりも彼の頭にあるのは、妻子の暮らしが脅かされるかもしれないという危惧ではないか。仮に四関が破られて襲堰が戦場になれば、窪沼もただでは済まない。

 それで、わざわざマツバ姫に会いに来た。奥御殿にいる間は接触のしようがないので、西陵せいりょう城に滞在している今が狙い目だと踏んだのだろう。

「それで、あの男を雇うおつもりなのですか」

「あれは使のある男だからな。本人がその気なら、断る理由はあるまい。ただ、バンという名のままでは具合が悪い」

「確かに、四関を強奪した賊団の頭領ですからね。ああ、それで、新たな名を与えてやろうというわけですか」

「すでに絶えた家名なら、文句も出るまいと思うてな。フモンに調べさせた。……見よ、これなら、あやつに似合いそうだ」

 と言って姫が指し示した紙には、「バンケイ」という名字が記されていた。

「……もとの名前に似すぎでは?」

「万が一、誤ってバンと呼んでも、ごまかしが利くではないか」

「まあ、他のに比べて、違和感が少ないのは確かですね」

「決まりだな」

 借金まみれの賊の頭領は、こうしてあっさりと旧家の後胤に生まれ変わった。実際のところ名前より、彼にどんな仕事を任せるのかのほうが重要だ。

 マツバ姫は書き付けを床に放り出すと、茶を飲み干して立ち上がった。窓辺に寄って、外の景色を見る。そのまっすぐに背筋の通った、姿勢のよい後ろ姿。

 かつては、姫のそんな姿ばかりを見ていた気がする。遠い山並みの空を眺め、ふと沈黙するときの、音もなく燃える炎のような佇まい。奥御殿で暮らすようになってからは影を潜めてしまった彼女らしさを、この場所は引き出してくれる。

 あの鷹は、牡であろうか、牝であろうか――。彼女の口癖だった問いが、アモイの耳によみがえる。あれを最後に聞いたのは、いつだったろう。

西陵ここはよい」

 姫は格子窓の向こうに目を向けたまま、不意につぶやく。アモイは「はい」と相づちを打った。

「戦場から最も遠く、城主かみも不在だと言うに、この城の者は他のどこよりも士気が高い。さらば、城下の民とて荒むことはない。フモンのやつ、器用なことをする」

「甥御どのなら、マツバさまの築いた礎があってこそ、とおっしゃるでしょう」

「片眼鏡を光らせながら、か?」

「あれはお似合いでした。しかし、右目をどうかされたのでしょうか。ご本人には訊きそびれてしまいましたが」

「急に見えが悪くなってきたらしい。まだ老眼でもあるまいから、城代になって読み物が増えたせいかもしれぬ。テシカガに言って、実家の店から適当なものを取り寄せてやった」

「そうでしたか」

 涼しい顔をしていたが、やはりムカワの負担は大きいのだろう。もともと城に仕える家臣団の筆頭としての務めもある上に、西陵の地全体の行政も同時に行うなど、常人のなせる業ではない。無論、部下に仕事を割り振ってこなしているはずだが、それを統括するだけでも大変な労を要するというのは、アモイも身にしみてわかっている。

「あやつに報いてやるための道は、一つしかない。たゆまずに武芸を磨き続ける将兵にも、城に仕える他の者たちにも、我らを信じてついてくる領民たちにも。皆の想いに応える唯一の道は、戦に勝つことだけだ」

「はい」

 姫は窓辺から振り返り、射るような眼差しで夫を見下ろした。胸を貫くような、鋭い光。この光を大きく切れた眼に宿しているかぎり、彼女は自分の知っているウリュウ・マツバその人なのだと、アモイは思う。

 顔を上げて、まっすぐに姫を見返す。血色のよい唇が、彼の思い描いたとおりに動いた。

「美浜国に――公子クドオに、この国は渡さぬ」

 まもなく城内で、西陵の将官全員を集めた重大会議が開かれる時刻であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る