1-2
女官たちの声は華やいでいる。二人、いや、三人。外廊下の欄干にしがみつき、外を向いて寄り集まっている、その視線の先を追えば、馬場で調練をしている若武者の姿があった。
「こっちを向いたわ!」
「あ、手を振ってくださってる!」
「タカスさま、ああ、タカスさま……!」
──やれやれ、こちらも三年前と変わらずか。
アモイが軽く咳払いをすると、女官たちは驚いて振り向いた。
「まあ、
それぞれに赤く染まった顔を伏せる。油を売っていたことを咎められるとでも思ったのか、挨拶を済ませるなり足早に館の奥へ去っていった。
アモイは欄干に手を置いて、外に視線を向ける。女たちの憧れの貴公子が、ちょうど騎乗のまま馬場を出て、こちらへ向かって近づいてくるところだった。
「相変わらずの罪作りだな、タカス」
声の届くところまで来るのを待って、アモイはそう話しかけた。
騎馬隊長タカス・ルイは健やかに日焼けした頬に清々しい笑みを含んで、
「これはこれは御嶺の君、ご機嫌麗しゅう」
「よせ。おまえのお世辞など、虫酸が走る」
「ひどい言い草だな。よくもそれで、
タカスは笑いながら、額の汗を袖でぬぐった。夏の盛りの陽射しに、馬の背からも陽炎が立っている。
「甥御どのとの密会は済んだのか」
「変な言いかたをするな。夕方の会議にそなえて、軽く打ち合わせをしただけだ」
「軽い打ち合わせでも、気は重かった。そんな顔をしているぞ」
話の内容はあえて問わずに、タカスは冗談を飛ばす。
「というほどでもない。久しぶりに会えば、誰であれ懐かしく思えるものだ」
「そんなものかな。あの単刀直入なのか回りくどいのかよくわからん語り口が懐かしくなるのに、三年は短い気もするが。私なら三十年はかかる」
「声が高いぞ。少しは気を遣え」
アモイは苦笑して、一歳年下の朋友をたしなめた。
直情径行を旨とする武官連中には、ムカワに苦手意識を持つ者が多い。嫌悪というよりは畏怖の部類なのだが、恐れているなどとは認めたくないもので、つい揶揄するような言いかたをしてしまう。タカスもそうだし、かつてのアモイもそうだった。
「前例だの習わしだのを持ち出しては時間を浪費する宮臣のお歴々に比べれば、甥御どのはよほど話が通るほうだ。都に行ってから、それがよくわかったよ」
「ほう。次期の王位継承者も楽ではないようだな」
「王位の話は勘弁してくれ。最近、そればかり聞かされて閉口している」
「宮臣から、即位を迫られているのか?」
「民の間に不安が広がっている今、人心を束ねるにはそれが一番だと口々に言う。しかし私に言わせれば、新しい砦を一刻も早く完成させること、それに人手不足を解消する手立てを急ぐこと、こちらのほうがよほど重要だ。国の護りが整えば、おのずと動揺は鎮まる。命ずる者の肩書など、さほどの問題とは思えん」
欲のないやつだな、とタカスは溜め息混じりにつぶやいた。王座に就く好機をみすみす見送るなど、信じられないとでも言いたげな表情だ。
もしも自分ではなく、この男がマツバ姫の婿になっていたら──。アモイはふと、そんな思いを抱いた。
実際、その可能性もなかったわけではない。マツバ姫が継母の陰謀に対抗するために婿を取ると宣言したあの日、タカスは自ら候補として立ち上がった。もしもアモイが譲っていたら。姫が彼のほうを選んでいたら。今ごろは、どうなっていただろう。
タカスなら、マツバ姫や重臣たちの期待に沿う決断をしたのではないか。請われて王位に就くのは
それにこの男なら、マツバ姫と夫婦の契りを結ぶことも……。
「どうした。私の顔に、何か付いているか」
タカスから不審そうに問いかけられて、我に返る。「いや、別に」と言葉を濁してから、気まずさをごまかすように、
「近ごろ都で噂の的になっている色男の顔を、よく拝んでおこうと思っただけだ」
「噂?」
「聞いたぞ。キサラどのに、頻繁に贈り物をしているそうだな」
「ああ、そのことか」
今度はタカスのほうが、ばつの悪い顔をする番だった。女性関係についてはいつもあっけらかんとして悪びれる様子のない彼にしては、珍しい反応だ。
「変な気を起こすなよ。あのかたは、今もまだ一の若君の奥方だ。女官や町娘とは違うのだぞ」
「わかっているとも。もう戻ってくる見込みのないご乱心の君の、ご正室だ。軽はずみに口説くほど、私は見境のない男じゃない」
「ならば、何のために」
「目的などない。行きがかり上、気にかかっているというだけのことだ。何せ、あのかたを
それだけではあるまい。いかに世事に疎いと言われるアモイでも、さすがに納得はしなかった。が、これ以上の追及をしてもしかたがないだろうとも思う。
三年前、四関の屋根裏に身を潜めていたところをタカスに救い出されたキサラは、まもなく彼に伴われて都の実家に戻った。家族も周囲も皆、謀反人として幽閉された夫・シュトクとの離縁を勧めたが、当人からは一切の意思表示がない。だから今も罪人の妻として、ひっそりと暮らしている。数年前の流産をきっかけとする緘黙症のほうも、改善は見られないようだ。
そんなキサラに、タカスははるばる
「おっ、見ろアモイ。
タカスが殊更に明るい声をあげて、馬場のほうを指さした。先ほど彼自身の出てきた通用口から、小柄な鹿毛馬に騎乗した男が姿を現す。そのまま並足で、二人のほうへ向かってくるようだ。
「テシカガ」
声をかけると、馬上の男は片手を挙げてみせた。が、すぐに手を下ろし、真剣な表情で手綱を操りながら近寄ってくる。やがて少し離れたところで鐙から降り、タカスの馬からやや距離を置いて欄干に繋ぐと、ようやく笑顔で二人に向き直った。
「いやあ、懐かしいなあ。お二人がこうして並んでいるのを見るのは、久しぶりです」
そろそろ三十路に差しかかっているはずのテシカガ・シウロだが、顔を見ればやはり青二才然として、とても年上には思えない。しかし体格のほうは、前よりもいくらかたくましくなった。細身には違いないが、肩や腰の厚みに鍛練の成果が表れている。竪琴奏者にしか見えなかった細腕も、今なら太鼓くらいは運べそうだ。
「テシカガ、おまえの愛馬を御嶺の君によくお見せしたらどうだ」
「あ、そうか。アモイどのはまだ、豆駒を直にご覧になっていなかったのですね。どうぞ」
と言われて、アモイは繋がれた馬の近くに歩み寄った。
騎馬隊長の名馬と並べてみるとさすがに小ぶりだが、豆駒という名の印象ほどではなかった。胴回りは、普通の馬とさして変わらない。ただ脚がやや短く太いので、全体にずんぐりとした感じに見える。
「毛足が少し長いようだな」
「寒さに強いのが売りですが、この季節は少し暑そうです」
「本来は荷駄馬だろう。乗り心地はどうなのだ」
「それが、意外にいいんです。若いうちから訓練をしたやつは、そこそこの速さで走れますしね。まあ、騎馬隊長どのの目から見れば速いうちに入らないでしょうけれど」
タカスはにやにやと笑うだけで、黙っている。言わずもがな、というところだろう。何しろ彼の率いる騎馬隊は、国内でも随一の機動力を誇る。三年前の内紛では都から国境へ瞬く間に馳せ参じ、注目を集めたものだ。
それがきっかけというわけでもないが、国内の各軍では現在、軍馬の増強に力を注いでいる。砦の防衛こそがこの国の戦の主眼ではあるのは昔から変わらないが、人や物や情報をいかに速く運べるかが、今後はより重要になってくるからだ。
ただ残念ながら、今は人手と同様に馬も不足している。そこで西陵では、北部の山間で古くから飼われてきた短躯種の子馬を多数買い上げ、軍馬として育てることにした。城代であるムカワの発案である。
アモイはその馬種について話だけは聞いていたが、実物を見るのはこれが初めてだった。素直で落ち着きのある佇まいは、なるほど騎馬隊には向かないかもしれないが、物資の輸送には重宝しそうだ。
「私など、すべての馬がこれくらいの大きさだったら、扱いやすくていいと思ってしまいますよ」
と言う割には必死の形相で手綱をつかんでいたテシカガだが、まるで馬商人にでもなったかのように豆駒を褒め称える。
「この高さならば、落馬しても大怪我をしないで済むからだろう」
堪えかねたようにタカスが混ぜっ返すと、「言われると思いましたよ」と、テシカガは否定もせずに微笑んだ。
「ところでテシカガ、剣を新調したのか」
アモイがふと気づいて、彼の腰のものを指さす。
「ああ、これですか。ええ、実は、妻があつらえてくれまして。また急に特別なお客さまのご接待役を申しつかるようなことがあったらいけないから、日ごろから見栄えのいいものを持つようにと」
「なるほど、なかなかのものだ。鞘の色もいい」
「私もそう思っていた。これを
「えっ、ほ、本当ですか」
テシカガの顔が一気に青ざめるのを見て、タカスはついに噴き出した。
「おいおい、情けない声を出すなよ。春にはまた子が増えるのだろう。少しは父親の威厳を示したらどうだ」
「何?」
それを聞いたアモイは欄干から身を乗り出し、テシカガの肩をつかんだ。
「三人目か!」
「ええ、実は、そうなんです」
テシカガは今にも溶けそうな笑みを浮かべる。確か、上の二人は女の子のはずだ。一人ぐらいは男子が欲しいと、かつて言っていたのは記憶にある。
「それはめでたいな」
アモイは心の底からそう言った。と同時に、一抹の影が脳裏をよぎる。マツバ姫との間に子が産まれるのを待ち望む声が世上に高まっているのを、つい思い出してしまったのだ。
実際その圧力は、王位継承への期待を超えるほどの強さだった。アモイは先王の婿養子であるが、実子ではない。しかしマツバ姫が男子を産めば、その子は文句なくウリュウの血脈を引く世継ぎとなる。王家の行く末も安泰、というわけだ。
思わず溜め息をつきそうになるところをぐっと我慢して、アモイは幸せ者の同僚を笑顔で祝福した。テシカガはそうとも知らずに、無邪気に感謝の言葉を述べた。
「それはそうと、アモイ。どこかへ行く途中だったのではないのか」
タカスに問われて、アモイは頷いた。
「ああ、マツバさまを探していた。館の中には見当たらなくてな」
預かった書き付けの件を聞くという用事もあるが、何より早く顔を見て安全を確かめたい。旧知の顔と話しているうちに、親衛隊長時代の習性が身の内にうずき始めていた。
「館さまですか。そう言えば、お迎えにもお出になっていませんでしたからね」
「まあ、今や、御嶺の君の奥方さまという立場だからな。我々のような男どもと並んで、城門の前に立つわけにはいかぬのだろう。ご帰還の日も、馬ではなく車に乗ってこられたしな」
「いや、それは……」
自分と結婚したせいで彼女が変わってしまった、と言われているようで心が痛む。アモイは弁明するかのように、
「私は人目などかまわず、剣でも馬でも自由にお使いになればよいと思っているのだ。奥御殿に引きこもって暮らすなど、まったくマツバさまらしくない。この城に戻っている間ぐらいは、少しぐらい羽を伸ばしていただきたいものなのだが」
都にあっては、この気持ちを理解してくれる者はほとんどない。しかしこの二人ならわかってくれるだろうと、つい愚痴のようになった。
ところがタカスもテシカガも、何か要領を得ない顔をしている。アモイは戸惑いつつ、「いや、悪いな。おまえたちに言ってもしかたのないことだ」と言い足した。
するとテシカガは、本当に何を言われているかわからない、という様子で、首を傾げながら教えてくれた。
「でも、アモイどの。館さまなら、戻られたその日から、毎日のように演武場へお出ましになっていますが」
「ちなみに今日は、若い衆と弓の腕比べをされると聞いているぞ」
弓場のほうを指さしながら、タカスが補足した。
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