第1章 古巣

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 三年前。

 ほんの数日離れただけでも落ち着かず、郷里から戻ってくるなり登城した、あの残暑の日を思い出す。自宅に立ち寄ることすらもどかしく、西陵せいりょう城を目指して一途に馬を駆った。城門をくぐると、白光のする石畳が大切な主人のもとへと自分を導いてくれたものだ。

 それが、三年。この城門をくぐることなく、石畳を踏むこともないまま、三年という時間を過ごした。信じがたいことであったが、これも時勢のなせる業であった。

 自分はもはや、西陵城主の親衛隊長ではない。自身が城主であり、そして同時に、二十七歳の若さにして国王の名代を務める御嶺ごりょうの君と呼ばれる立場なのだ。

 そういうわけで城門には、かつての同僚たちが夏の陽射しの中にずらりと整列し、臣下の礼で出迎えている。

「ご無事のご帰還、心よりお慶び申し上げる」

 正面で待ち構えていた城代が折り目正しく立礼をすると、立ち並んでいた将たちも一斉に従った。

 アモイは咳払いをし、気まずさをごまかした。実際のところ、彼は公には一日として城主としての仕事をしていない。三年前、都で正式な就任式を終えた直後に先王が急死、紆余曲折の末そのまま王宮に留まることになってしまった。都と国全体の政務で手いっぱいで、西陵のことは人任せにならざるを得なかったのだ。

 だが城下町でも、民衆は盛んに彼をもてはやした。アモイさま、御嶺さま、と歓声があがる中に、「姫婿さま」という呼び声もあった。これにはさすがにどのような顔をするべきかわからず、苦笑するしかなかった。

 とは言え、古巣である西陵の府が相変わらず活気に満ちているというのはありがたいことだ。前城主が八年をかけて豊かにしたものを、代替わりと同時に廃らせてしまったのでは、申し訳が立たない。それもこれも、城の仲間たちがしかと留守を固めてくれているおかげだ。

 城に戻ったアモイが最初にしたことは、一人ひとりの将官に声をかけ、その感謝の気持ちを伝えることだった。

 中には新しく登用したとおぼしき若人の姿も交じっているが、ほとんどは懐かしい顔ぶれだ。タカス・ルイの精悍な姿もある。テシカガ・シウロの色白な細面もある。相変わらず季節感のない苔色の長衣をまとっているのは、城代のムカワ・フモン。かつては取っつきにくい印象ばかりが際立っていたが、こうして久々に会ってみれば、やはり身内だという心地がする。

 この城に仕える者は皆、自分と同じ主君に忠誠を誓った同志だ。前城主──今は妻と呼ばなければならない立場ではあるが──マツバ姫の下に集い合った仲間だからこその連帯。この感覚は、王宮にいてはとても味わえない。

 もっとも、都の人事も以前とは様変わりした。隠居同然だった国老イノウ・レキシュウを復職させて宮臣たちの監督を任せ、軍の編成を大幅に見直しもした。先王の妃であったテイネの御方おんかたに取り入って地位を得たような輩は一掃し、骨のありそうな人材の登用を進めたつもりだ。

 ただ残念ながら、人手はまったく足りていない。先の戦から長い時が経ち、経験の豊かな将の多くは第一線を退いている。才気ある若手を育てるには、時間が必要だ。腐敗の温床になっていた中堅層が抜けてしまったことで、人数的にかなりの打撃を受けたのは否めない。

──致しかたあるまい。量と質のいずれを保つべきかと問えば、答えは知れている。

 マツバ姫はそう言って支持してくれたが、この荒療治が吉凶いずれに帰するかは、まだ予断を許さなかった。

「せめて叔父御に宮軍の総督を頼めたなら、随分と心強いのですが」

 アモイはぼやきながら、冷茶の入った碗を手に取った。

 差し向かいに座ったムカワ・フモンは返事をせずに、手元に広げた地図を眺めていた。いつから使い始めたものか、片眼鏡を右目にかけて、国境の砦・四関しのせきのあたりを注視する。彼の叔父であるムカワ・カウン将軍が、今はそこで隣国への睨みを利かせているのだった。

 二人は今、城主の執務室で対面している。何しろ城主と城代の打ち合わせであるから、当然、人払いがされていた。おかげで室内は、茶が喉を過ぎる音さえ響く静けさだ。

 城門で久しぶりに顔を見たときは懐かしいと思ったものの、こうして密室で向かい合ってみると、やはりどうにも気詰まりだった。よく考えれば当然で、そもそも上役であった彼とは、膝を突き合わせて語らうような間柄ではなかった。

 茶碗を置いて、所在なく視線を泳がせる。執務室の様子は、三年前とまったく同じだ。黒檀の机の上に並べ置かれた筆の順序さえ、寸分も変わっていないように見える。使われている形跡が一切感じられず、それでいて掃除は行き届いて、塵一つ落ちていなかった。

「清掃のとき以外は、鍵をかけさせている」

「は?」

「この部屋のことだ」

 ムカワがいきなり、アモイの心中の疑問に答えた。

「……しかし、それでは、普段はどちらに?」

「以前と同じだが」

「大部屋で、城主の代務をされているのですか」

「何か問題が?」

「いや、不便ではないかと思いまして」

「私には、机一つあればよろしい」

 と本人が言うなら、余計な口出しをする必要もないのだろう。もともとムカワは、いかに忙しい最中でも身辺の散らからない整頓術を身につけている。王宮で自身の仕事部屋のありさまに閉口しているアモイのほうこそ、相手を見習うべきなのかもしれなかった。

 アモイは咳払いをして、また茶を口に含んだ。するとムカワは片眼鏡を外しながら、

「武辺者は、大軍を指揮するよりも自ら前線に立ちたがるもの。叔父はさぞ張りきっていることであろう」

 と、また唐突に話題を戻した。いつもながら、会話の流れの読めない男だ。

「いかにも将軍は喜び勇んで前線へ赴かれましたが、まだまだ人員は手薄。この城から、かなりの人数を借りなければと思っています。いや、借りるというのもおかしな言いかたですが」

「そのために養った兵力だ。存分にお使いになられるがよい」

「助かります」

「かような日が来るのを見越して、あのかたは平時から人材を広く集め、武芸の鍛錬を奨励されてきた。私はそれを一時、預かっているに過ぎぬ」

 感謝されるのは筋違いとばかりの口ぶりで言うと、ムカワも茶碗を口に運んだ。

 そう、戦場になるはずの国境から最も遠いこの城に意気軒高な若武者たちが集まっているのは、現城主であるアモイの力でも、城代であるムカワの手柄でもない。マツバ姫が城主に就任した十一年前からの積み重ねが、今、ようやく生きようとしているのだ。その真実を世上の人々に広く知らせ、本当に王座に就くべき人物が誰なのかを訴えたいところだが、やはりこれも時勢が許さない。

――差し迫った国難を乗り越えたら、そのときこそは。

 アモイは独り、胸の中で自分に言い聞かせながら、ムカワが地図を元どおりに折り畳むのを見ていた。

「何はともあれ、領内が変わりないようで安心しました。城代からいつも報告は頂いていたものの、やはり自分の目で見ると感慨もひとしおです」

 きちんと角のそろえられた地図を受け取り、微笑んでみせる。変わらないと言えば、ムカワもそうだった。出迎えの挨拶では完璧な臣下の礼を示していたのに、一対一で話してみると、言葉遣いが昔のままなのだ。アモイも無意識のうちに、三年前に戻ったつもりで敬語で話していた。そのほうが、やはりしっくりくる。

 もしかすると、手紙のせいもあるかもしれない。この城代は実に筆まめな男で、頻繁に領内の出来事を書き送ってくるのだ。筆不精のアモイは忙しさも手伝って、ろくに返事を送れずにいるのだが、それでもムカワの書簡は定期的に、ほぼ毎回同じ分量でやってくる。内容は細かいものの文面は簡潔明瞭、ご機嫌うかがいなどとは無縁の素っ気ない語り口。それに慣れているせいか、今さら敬意など払われても心地が悪い。

 もちろん、人前では城主としてきちんと立ててくれている。実際はほとんど放置しているも同然の民衆が、諸手を挙げてアモイを敬愛してくれるのは、ムカワの配慮のおかげに違いなかった。王宮にいても、西に足を向けては寝られない。

 そういう気持ちから思わずこぼれた微笑みだったが、もちろんムカワは笑い返しなどしない。代わりにアモイの顔を正面からじっと見て、おもむろに口を開く。

「そろそろ王座に就かれる頃合いではないかと」

 アモイは思わず茶を噴いた。

「な……何を言われるのですか、出し抜けに」

「貴公が嶺の任に就いて、三年になる。この間に都は治まり、東原とうげんの景気も安定し、国境の備えも着々と進んでいる。幽閉された一の若君を担ぎ出そうとする者など、もはや現れまい。今なら正式に王を名乗っても、誰も異論は申さぬ」

「待ってください。私が今、嶺を務めているのは、そもそも貴方が……」

 三年前、重臣たちから国を継ぐように迫られたアモイに、嶺すなわち王の名代として政務を行うという方便を提案したのは、誰あろうムカワだ。そうして時間稼ぎをしている間に、何とかしてマツバ姫を王に立てる準備を整えたいという目論見を、彼は理解していたはずだ。

 今になって、手の平を返すつもりか。思わず詰め寄ろうとしたアモイに、ムカワは涼しい顔で付け加える。

「領民が、さように噂しているようだ」

「え。領民、が?」

 ムカワは泰然として冷茶を啜る。そうして茶托に碗を戻してから、細い目をアモイに向けた。

「変わったことと言えば、その程度であろうな。あとは貴公の申すとおり、領内にさしたる変事はない」

「……ああ、なるほど」

 冷や汗で流した水分を、アモイは茶で補った。いくつかの言葉を口中に転がしては飲みこみ、結局は黙っておくにとどめる。

 一方のムカワはこちらの思惑など意に介さず、平然と次の話に進む。

「もう一つ、これは城内のことだが」

「は。何かありましたか」

「一昨日だったか、直に城主に会いたいと、男が一人訪ねてきた」

「一人で、ですか」

「どうも柄のよくない者だったらしい。対応した者が、城主は留守だと追い返そうとした。が、呼ばれて来たと言い張るので、私に知らせが来た」

「会われたのですか」

「いや。ちょうど近くにおられた館さまが、心当たりがあると」

「マツバさまが応対を?」

 するとムカワは懐から数枚の書き付けらしきものを取り出して床に置き、アモイのほうへ押して寄越した。

「その後、戻ってこられたあのかたに頼まれたものだ。貴公にも目を通してもらいたいとの仰せであった」

 紙片を開くと、家系図の抄本らしきものがいくつか目に飛びこんできた。それも、聞き覚えのない家名ばかりだ。

「何なのです、これは」

「この西陵にかつて栄え、しかし今は断絶している武家の系譜だ。何に使うおつもりかは聞いておらぬ。詳しくはご本人にうかがうがよかろう」

 そうします、とアモイが答える前に、ムカワは深々と礼をして退出の態勢に入る。「ああ、では、また後ほど」と、なぜか城主のほうから慌てて挨拶を述べて、密談は終わった。

 アモイは独り、空になった湯呑みと共に残された。手元には自分が都から持参した地図と、マツバ姫の指示で作られたという書き付け。

 彼女は数日前、先にこの城へ戻ってきていた。当初は夫婦そろって帰還する予定だったが、王宮での重臣会議が長引いたため、アモイのみ出立を遅らせたのだった。

 城門での出迎えに姫の姿はなく、到着してすぐにこの部屋へ入ったので、まだ顔を合わせてもいなかった。この城に仕えていたころは、たとえ溝鼠どぶねずみのような風体を笑われても、真っ先に会いに行ったものだったが。

「館さま、か」

 変わらないムカワの使った、変わらないその呼称を、声に出してみる。

 それから勢いよく立ち上がり、彼女の居場所を探すために部屋を後にした。

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