復章
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得体の知れない怪鳥の声を聞いた気がして、わたしは振り返った。
露台に続く扉には
文机の上に、手にしていた筆を置く。立ち上がって肩掛けを羽織り、硝子戸に歩み寄った。吹きこんでくる風に逆らって扉を押し開き、「いるのでしょう」と呼びかけてみる。
返事はない。
吹きさらしの露台へ踏み出すと、隙間風が入ったか、部屋の中の灯火が消えた。と同時に、走る雲が月を覆って、辺りはほとんど完全な闇に包まれる。
それを待っていたかのように、間近で男の声がした。
「相変わらずの宵っ張りだな」
男の姿は、闇に溶けこんで見えない。
「ご無沙汰だったのね。
「旦那から聞いたのか」
「まさか。そうじゃないかと思っただけ。ねえ、話を聴かせて。音に聞こえし鏡の都、どんなにか美しかったことでしょう」
「残念だが、またすぐに出かけなければならないんだ」
そう、と落胆してつぶやき、しかしすぐに、わたしの脳裏に新たな希望の光が浮かんだ。闇を見上げ、少しばかり勢いこんで尋ねる。
「もしかして、
「俺は、おまえの書き物の種を拾いに行くわけじゃないんだがな」
「わかっているわ。仕事が終わってからでかまわない。戻ってきたら、どんな些細なことでもいいから聴かせてほしいの――あの高名な、
当惑しているかのような沈黙があった。いくらか暗さに慣れてきた目を凝らすと、男はどうやら苦笑しているらしかった。
「何か可笑しい?」
「いいや」
庭先の梢の上を、
月明かりの下、男の顔が白々と照らし出される。左頬に、顎の近くまで伸びる大きな古い傷跡。
わたしは思わず目を逸らし、硝子戸に映る自分の姿を見た。無色透明の、幽霊のような女の影。その胸元に、鈍く赤い光が灯っている。首飾りの先に吊り下がった赤珊瑚が、月光を反射して輝いているのだった。
「帰ってきたら、また顔を出す」
男はささやいた。
「風邪を引くなよ」
声のするほうへ顔を戻したときには、すでに男の姿はない。
無意識に、胸元の赤い宝石へ手を重ねる。幼いころから直らない、わたしの癖だった。
*
(古書『
その物語の舞台とほぼ同時代に
それ以外は、名前にしても生い立ちにしても、本人の記述でしか知りようがない。物語の中に描かれた自画像を、ありのままの姿と見なすのはさすがに無理があるだろう。何しろ、人並み以上にたくましい想像力を持つ人物であったのは間違いないのだ。故意か否かはともかく、自らについて語る言葉にも、虚構が紛れこんでいる可能性は否定できない。
たとえば、彼女の出自に山峡国が深く関わっていると匂わせるような逸話がある。無論、隣国同士である以上は、まったくありえない話ではないかもしれない。とは言えおそらくは、自ら物語の主人公に選んだ人物――高名なる深山の姫君――に心を寄せるあまりの脚色、あるいは妄想の類であろうというのが定説となっている。)
*
枯葉色のボロ布が、音を立てて翻る。それは老人の小さな体を、今にも空へさらっていきそうに見えた。
見晴らしのよい丘の上にそびえる
混じり気のない白髪が、風になびいている。落ち窪んだ眼窩に、睫毛のほとんど抜けたまぶた。頬の皮膚は衰え、しみが目立つ。もしも彼が立っているのでなく横たわっているのであったら、亡骸と見間違えても無理はない。体を包む枯葉色の大布は、さしずめ死出の衣裳であった。
「爺さん」
呼ぶ声が風音に紛れたか、それとも耳が遠いのか、老人は身じろぎもしない。
「爺さん。また会えたな」
もう一度、男は呼びかけた。それでようやく老人は、風に押されるようにして、頼りない動作で振り返った。
威厳のある身なりをした、しかしまだ少壮の精悍な男が、山毛欅の幹に片手をかけて立っていた。少し離れたところには、数十騎の従者が整列して控えている。
「三年前に、この丘で会った。覚えているか」
問いかけて、男は辛抱強く応答を待つ。老人は石のように表情を変えないが、質問を確かに聞き取っており、やがて必ず答えるはずだと信じているのだった。
そしてそのとおり、長い沈黙の後に、老人は白く乾いた唇を開く。
「水を、お恵みくだされた」
しかしそれは声にもならない声であった。唇の動きと、わずかに漏れる息の気配で、何とか読みとるしかない。
「そう、水を飲んだその後に、おまえの言った言葉がずっと気にかかっていた」
――貴方さまは、ご出世なさるでございましょう……よい奥方を
それも覚えているか、と尋ねるが、これには返事がない。
もっとも男は、過去の会話にはさほど頓着しなかった。今、この老人が再び自分の前に姿を現したことのほうが、彼にとっては重要なのだ。
「実は今、ちょうど
「……」
「妻も、おまえと話したがっている」
老人の眼に、一瞬、強い光がひらめいたように見えた。擦りきれた
後ろに佇立する従者たちが警戒心をあらわにするのを、男は手で制した。
白髪頭の頂を見下ろせるほどに、老人は間近に近づいてきた。うつむいたまま、筋張った拳を持ち上げ、男の懐へ押し当てる。
「あのかたは、籠には飼えぬ鳥」
不意にはっきりとした口調で、そう言った。
「ひとたび羽ばたき始めたならば、止めることはできませぬ。天が落ち、地が裂けようとも」
「それは一体、どういう……」
男の問いが終わる前に、老人の肩が大きく傾いた。小さな体はそのまま、砂のこぼれるように足元へ崩れ落ちる。
男は驚いて膝をつき、老人を助け起こそうとした。しかしつかんだ腕のあまりの細さに、力をこめることもできない。どうにか大木の幹に背をもたせかけるようにして、「大丈夫か」と声をかける。
老人は黙って両目を見開き、視線を宙にさ迷わせていた。男はかつてその眼の奥に、不気味な赤い光を見たことがある。が、今はただ色の薄い瞳が二つ、虚空を映しているだけだ。
「教えてくれ。籠から飛び立った鳥は、その後どうなる」
もはやこの老人を城まで連れていくのは無理だろうと、男は察している。
質問に答える代わりに、老人は握ったままの拳をわずかに持ち上げる。枯れた指が力なく開かれて、何かが滑り落ちそうになるのを、男は片手に受け止めた。
薄汚れた紐の結わえられた、いびつな塊──。かつて老人が首から下げていた、艶めく血の色の宝石であった。
「これは……」
と男は言いさして、しかし途中で問いを変える。
「爺さん。おまえの名は」
ひび割れた唇の奥から、微かな呼気が漏れた。レースイ──という響きを、しかし男は聞き取れない。
折しも大きな鳥影が山毛欅の梢を行き過ぎて、その風をたたく羽音だけが耳に残った。
*
(美浜国に生まれ育った著者が、噂でしか知りえなかったはずの隣国の姫君にまつわる数々の逸話を書き遺したのは、一体なぜなのだろう。
もしも出自の上で山峡国に関わりがあったというのが事実なら、その縁があったからだろうか。あるいは夫の立場上、信頼できる情報源が身近にあって、興味をかきたてられたのだろうか。まさか本当に、常人には見えないものが視える血筋だった……などということは。
いや、いずれ推測の域を出ないのであれば、そんな仮定も悪くないかもしれない。
ただ確かに言えるのは、著者の生きていた環境において、『紅鷹君伝』という物語は決して歓迎されるような代物ではなかったこと、にもかかわらず彼女は書かずにいられなかったということだ。
おそらくこの物語こそが、彼女にとって唯一の真実であったがゆえに。
だとすれば今、我々に求められるのは外側の事情を云々することではない。そこに書かれたものを、書かれたままに受け止めることだ。
かつて山峡と呼ばれた一国の運命を背負い、波乱の生涯を過ごしたと言われる伝説の姫君の──あるいは幻の女王の雄姿を。)
*
わたしはまだ、露台にいる。
硝子戸に映る自分の姿と向き合って、独りで立ち尽くしていた。
胸元の首飾りに添えたままの左手。その手のひらの中で、赤珊瑚がほのかに熱を発しているように感じる。もちろん、錯覚に違いない。自分の体温が伝わって、ぬくみを帯びただけ──。
だとしたら、目の前に立つ鏡像の両眼が、赤い光を放っているように見えるのもまた気のせいだろうか?
わたしは何度も瞬きをする。そのたびに、世界は明瞭な輪郭を失っていく。怖くはなかった。物心がついて以来、数えきれないほど経験してきたことだから。
まもなく、わたしは覚醒したまま夢を見始めるだろう。何の夢かはわからない。麗しの鏡の都が見られるかもしれないし、またいつもの不気味な老人が出てくるかもしれない。
だが、何となくいい予感がする。もしかしたら、あの人の夢かもしれない。
真紅の装束に長身を包み、まっすぐな黒髪をきりりと束ねて、腰には立派な剣を差した、あの人。音に聞く深山の姫君の、あくまで想像でしかない姿が幻影となって浮かび上がってくるのを、わたしは冷たい風の中で待った。
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