休章
10
穏やかな陽射しを照り返す水面に、秋の雲が映っている。連なった
水際には、少女が一人。仕立てのいい、しかし簡素な筒袖を着て、布で包んだ棒状のものを腰に差している。
かつてここには、たくさんの花が咲き誇っていた。丈の高い草が密集し、小さな人影を完全に覆い隠すほどであった。
しかし今、池のほとりには常緑の灌木が植えられ、すっかり見晴らしがよくなっている。これなら仮に曲者が忍びこんでも、身を隠せない。同時に、子どもが大人の目を盗んで
だからこの少女が独り佇んでいる姿も、すぐに大人の目に留まる。
「ユウ」
自らを呼ぶ声に、少女は目を輝かせて振り返る。そこには鮮やかな紅の衣を身につけた、敬愛する主人の姿があった。
「かようなところで、いかがした」
「ここ、好きなんです。何となく、落ち着くので」
「そうか」
「あとは、笛の練習をしたり」
少女は腰に差した布包みに、手を当てながら答える。
「わたしも幼いころは、一人でよくここにいたな」
「そうなんですか」
少女は先を訊きたそうな顔をするが、その人はそれ以上、思い出を語りはしなかった。懐かしげな眼差しに混じる、一抹の憂い。
遠くで鳶の声がする。
「そうだ。今日あたり、
不意に明るい声で主人は言う。それを聞くと、少女は頬を上気させた。
「行きますか?」
「支度をして参れ。よいか、誰にも見咎められるなよ」
その人はわざと声を低めて、片目を瞑ってみせた。
*
(その人が婿を迎えたのと、父王を亡くしたのがほぼ同時期であったことは、どうやら史実であるらしい。
婿は王位に就かないまま王宮に居を移し、
もっとも表面的には、両国の同盟関係はもう少し続く。摂政王太子が妃を娶った際には、様々な祝い品を贈った記録が残されている。これに対し、
一方で、国内の情勢は大きく変わった。国境を守っていた第一王子は乱心により失脚、その母も力を失って王宮を離れ、第二王子のもとに身を寄せる。この第二王子は野心のない人物であったため、内紛は一応の決着を見た。
もとは『紅鷹君伝』から散逸した章の一部だったのではないかと目されている次の逸話は、それからまもなくの出来事であろう。もちろん、歴史的文献による裏づけはない。)
*
その朝、王宮に客人が訪ねてきた。
いつか隣国の太子と対面した謁見の間に、夫と共に並んで座る。向かい側には、丸々とした体格の若者が、不器用に胡坐をかいていた。
その隣には、齢十五、六ばかりの小柄な娘が正座している。指をついて深く礼をし、ゆったりと頭をもたげて、「ウララと申します」と名乗った。
広い額のなだらかな生え際、小さな鼻と耳、ふっくらとした唇。頬がほのかに赤く染まり、柔らかそうな髪が肩にかかっている。黒目がちの、仔猫のように丸い目。淡黄色の衣をふわりとまとった令嬢は、誰の目にも愛らしい乙女であった。
「ねえさま。ウララはかわいいでしょう」
いつものように、東原城主は満面の笑顔だ。
「わたしは、ウララがすきです。ねえさまとおなじくらい、すきです」
「まあ」
少し恥ずかしそうに、娘が
「ねえさまは、どうですか。ウララがすきですか」
「若さま。わたくしと姉上さまは、今日、初めてお会いしたのですよ」
袖をそっと引きながら、優しくたしなめる。育ちのよさが透いて見える、たおやかな口調だ。
おっとりとして、悪くすれば、鈍そうでもある。しかし、何と言おうか。怜悧、才気煥発、そういった鋭い知性とはまた別の、温かな光のような聡明さが、世間話に応じる言葉の端々からにじんでくる。義弟と並んで微笑む姿には邪気がなく、存外に似合いの二人であった。
「ハルどの。わたしも、ウララどのを気に入りました」
その人は答えた。すると義弟はにっこりと笑ったまま、さらに尋ねた。
「わたしのことは、すきになりましたか」
「何と?」
「ねえさまは、まえに、わたしをきらいだといいました」
「さようなこと、申した覚えは」
言い差して、その人は口をつぐむ。あの幼い日に、真っ赤に頬を腫らした少年の泣き顔が、目の前の陰りのない笑顔と重なった。
「仮に申したとしても、他愛ない戯れ言。まことに嫌いだなどと、思ったことはありませぬ」
「なあんだ。よかった」
そう言って無邪気に喜ぶ義弟に、彼女は言葉を詰まらせる。
「あら、いけない、忘れておりました。姉上さま、よろしければ、こちらを」
異母姉弟の間にふと訪れた沈黙を、可憐な娘が遠慮なく破った。
「お近づきの印に……わたくしのいちばん好きなお花ですの」
娘は薄絹で包んだ大きな花束を抱え、これから義姉となる相手の前へ進み出る。
その人は微笑みながら頷いて、ゆっくりと手を差し出した――が、まさしく花に触れようという間際に、一瞬の躊躇がある。
娘は不思議そうに、その人の顔をうかがい見た。
しかし彼女は何事もなかったかのように、何食わぬ顔で受け取って胸に抱く。長い腕の中で、白い秋桜の花束は奥ゆかしくも清々しい香りを放った。
*
(城主の任を降りて以降のその人に関しては、ほとんど歴史的記録が残っていない。
だがその穴を埋めるかのように、おびただしい伝承が生み出された。それらの多くは根拠が弱い、一貫性がない、信用に足りぬものだと歴史家は言うが、こうした批判は的を外している。
想像であれ妄想であれ、人々が語り継ぎたいと思うものが、確かに存在したという真実。それらはたとえあらゆる歴史書に見捨てられても、物語としてたくましく生き残っていく。
『紅鷹君伝』という物語もまた、歴史が黙殺しようとした真実を誰かに伝えようとして生まれたのだろう。読者たちはその中に、著者と同じ夢を見る。描かれた人物が実像を正確に写しているか否かなど、問題ではない。
史実であろうとなかろうと、彼女に魅入られた者たちには聞こえるのだ。はるか上空に翼を広げた大鳥の、雄々しい羽ばたきの音が。)
*
庭園に面した陽当たりのよい縁側に、女は一人で座っている。橙色の
そこへ、男がやってくる。二十代半ばにして一国を統治する、しかし王とは呼ばれないその男は、御殿のどこかにいるはずの妻の姿を探していた。
が、花を活ける女と目が合うと、急に思い当たって声をあげた。
「そうか、今日は祭市か……!」
「ええ。東の若君さまのご婚約記念の」
花瓶からこぼれるように咲く花の角度を調節しながら、女は答える。
男はあきらめた様子で、そのまま縁側に腰を下ろす。体は庭園に向けながら、横目に女の手元を眺めた。義弟の婚約者から妻へ贈られた秋桜の花弁は、陽だまりの中で白く輝いていた。
「また、あの小僧と二人だけで?」
「あの子に焼いていらっしゃいますの?」
「焼く……というわけではないが。私の後釜として連れ歩くには、未熟すぎる。護衛どころか、余計な騒動を起こして足を引っ張るのが落ちだ」
「もちろんあのかたも、おわかりですとも。アモイさまの代わりなど、どこを探してもいないということは」
聡明な侍女は、そう言って慰める。
「……貴方さまにとって、マツバさまがそうであるように」
不意に声が沈んだように思えて、妻によく似た女の顔を見る。するとすぐに、小春のようなあたたかい微笑みが返ってきた。男は頭をかきながら、目を逸らして外を眺める。
その視線の先を、一羽の鳥影が行き過ぎる。
花を活け終えた女もまた、男につられるように薄い雲のたなびく秋空を仰いだ。
黒々と両翼を広げた影は、風に乗って真一文字、はるか山並みへ向かって飛び去っていく。
あの鷹は、牝に違いない。
-第一部 白秋桜篇 了-
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