9-5

「奥方はいかがなされた?」

 公子クドオの問いに、忌中のため見送りは遠慮したのだと、アモイは答えた。

 相手の後ろにはヒヤマが控え、さらに向こうには、故国への土産物を積んだ荷駄隊が出立の時を待っている。馬のいななきと白い呼気が、交互に青空へ溶けていった。

 王宮の前庭には他に、彼らを国境まで送る護衛の隊も控えている。隊長にはテシカガを任命してあった。数日間、客人の世話役を務めた実績からすれば、適役であろう。もっとも、落馬の恐れは依然として拭いきれないが。

 見送る側はアモイ以下、イノウやミヤノ総督、ムカワ将軍といった宮臣たちだ。数日前にやってきたときは慶賀の使者とその従者であった客人は、今は弔問の来賓である。まして葬祭の場では事態の収拾に力添えをしてもらった手前、それなりの礼をもって見送ることになったのだ。

「よもや、夫婦喧嘩でもなされたのではあるまいな?」

 冗談めかして探りを入れてくる公子クドオに「まさか」と笑ってみせながら、内心ひやりとする。マツバ姫の私室に飾られた、海の絵画を思い出した。

 昨夜のあの口論は、言われてみれば、初めての夫婦喧嘩と呼べるものだったかもしれない。主従であったころにもたびたび議論はしたが、物別れに終わったことは一度としてなかった。結論を出すのはマツバ姫の仕事であり、どんな内容であれ従うのがアモイの務めだったからだ。

 もっとも、姫がこの場にいないのは兼ねてからの打ち合わせどおりで、内輪揉めが原因というわけでもない。

「くれぐれも道中お気をつけてお帰りあそばすようにと、妻も申しておりました」

「さようか」

 公子もそれ以上は追及してこなかった。

「もう一度お会いしたかったが、致しかたなきこと。是非とも、よろしくお伝え願いたい。もしもいつの日か、我が国を訪れる機会があれば、できうるかぎりのおもてなしをいたす所存だと」

 微笑みを絶やさずに答えてから、視線を景色に巡らせた。今朝方にまた雪が降り、遠くの峰から足元に至るまで、山峡やまかいの国土は白く覆われていた。

「美しきものに恵まれた国だ。中でもあのお人は──」

「は?」

「貴殿の奥方は、格別に美しい。今後とも大切になさるがよろしかろう」

 言われるまでもないことだ。アモイは硬い笑みでごまかしながら、心中につぶやいた。

 居並ぶ山峡の宮臣に見送られ、テシカガの護衛隊に先導されて、美浜みはまの主従は帰途に着いた。四関しのせきではタカスが待ちかまえ、彼らが出国するのをしっかりと見届けるはずだ。やはり、信頼の置ける者に要所を任せられるというのは心強い。テイネの御方おんかたの息のかかった者では、こうはいかなかったろう。

 さて見送りの後には、またイノウと重臣たちとの面会が予定されている。用件は昨日と同じだが、今回は形式的な固辞では解放してもらえないかもしれない。早々に即位式を執り行い、人心の安定を図りたいというのが、彼らの総意だ。

 しかしアモイは話し合いの時間を少し後らせるように願い出て、独り、本殿の上階へ向かった。

 階段を昇って、南に面した外廊下へ出てみると、マツバ姫の姿があった。そこからは、つい先ほどまで客人の見送りをしていた前庭を眼下に望むことができる。

 彼女は欄干にもたれるようにしながら、美浜の主従が去っていった正門の先を眺めていた。灰褐色の外套が風に揺れ、裾から紅の袴がわずかにのぞく。耳朶に下がる銀の環が、朝日に照らされて光っていた。

 そっと歩み寄り、隣に立って欄干をつかむ。しかし氷のような冷たさにすぐ手を離し、姫の横顔に向き直った。

「ご覧になっておいででしたか」

 マツバ姫の頬は、冷気のために赤みが差している。

「公子クドオに、奥方はいかがしたかと聞かれました」

「夫婦喧嘩か、とでも言われたか?」

「いや、それは」

「冗談だ」

 そう言いながら、マツバ姫はまだ南方の景色を眺めている。

「マツバさまのことを、美しいと」

「うん?」

「公子が言っておりました」

「何だ、それは」

「そのままの意味ではありませんか」

「ただの世辞か」

「『ただの』かどうかは……。もしもかの国を訪ねる機会があれば、できるかぎりのもてなしをしてくれるとのことでした」

「まことに食えぬお人よな」

 姫はわずかに含みのある笑みを浮かべたが、すぐに表情を改めてアモイを振り返る。

「さような些事を伝えに上がって参ったのではあるまい。話があるなら申せ」

「……はい、それでは」

 アモイは懐から、一通の書状を取り出した。例の遺書ではなく、昨夜、新たに届いた西府さいふからの便りである。 

 表書きの文字は几帳面に整列し、あたかも型で押したかのようだ。その筆跡を一瞥したマツバ姫は、差出人の署名を確かめるまでもなく、「フモンか」とつぶやいた。

「いかにも、昨夜に届いた甥御どのからの便りです。中身をお目通しいただけませんか」

 マツバ姫はしばらくアモイの差し出す書状を見つめていたが、やがて吐息を一つ漏らして、それを手に取った。表紙を開くと、幾重にも折り畳まれた長い書面が現れる。あやつは文になると饒舌でかなわぬ、と苦笑しながら読み始めた姫の表情は、まもなく真顔に変わった。

 無理もない。手紙の冒頭に御大法という文字を発見したときは、アモイも度肝を抜かれた。西府にいるムカワ・フモンには、葬祭の最終夜の出来事については大まかに報告したものの、先王の遺書の内容までは伝えていない。まして、昨夜の夫婦間の会話など知る由もないはずだ。

 にも関わらず彼の手紙は、王位を巡ってマツバ姫とアモイの間で意見が分かれているという事態を前提として書かれていた。その上で、思いもよらない持論を提案しているのである。

 その論というのを、順を追って記せばこうだ。ここ数か月というもの、アモイを世継ぎにふさわしい婿養子として世間に認めさせるために、様々な策を講じてきた。その一環として、マツバ姫は公の場から退いて自らの存在感を減じ、相対的にアモイが引き立つように仕向けてきた。おかげで、一の若君が失脚した今、彼は王位継承者の第一候補と見られるまでになった。この期に及んで、彼が国務を司ることを拒み、妻であるマツバ姫を王座に就けようとしても、世の混乱を招くばかりであろう。

 ……とは言え。

 アモイが正式に王家に婿入りして、わずか数日である。まだ完全に評価も定まらぬうちに、あまり性急に事を進めるというのもまた、安定感を欠くものではなかろうか。

 で、あるならば。

りょう?」

 手紙を読み進めるマツバ姫が、小さくつぶやいた。「嶺」とは、今は廃れてしまった大昔の官職である。正統な王位継承者が存在しないとき、一時的にその政務を代行する者。王が幼少病弱のときに補佐する「ろく」と並んで、大法の附則に定義されている。

「はい。甥御どのは私に、正式に王位を継ぐのではなく、当面は『嶺』を名乗って政務を執ってはどうかと」

 それならば、世の風潮が変わるのを待ち、またマツバ姫自身の決心がつくまでの時間稼ぎができるかもしれない。アモイはこの案に、ひと筋の光明を見出だしていた。

「そなた、フモンの理屈に便乗するつもりか」

「誰かが陛下の御跡を継いで、まつりごとを行わなければならない。しかし私は、御大法に従えという、陛下のご遺志を無視することもできません。とすれば、御大法にも定めのある古い官職を蘇らせるということも、一つの手かと思うのです」

「ただの一時しのぎではないか」

「そう、真にふさわしきかたを王と仰ぐ日までのとして、時をしのぐ……それが私にできる、最大限の妥協でございます」

「王座を空にしたまま、国が治まると思うか。あの美浜の若殿から、民を守れるとでも?」

「守ってみせます。国も王座も、マツバさま以外の者には、決して渡しません」

「……」

 アモイの熱意に気圧されたように、姫は黙った。

 この機を逃してはならない。彼は懐から、もう一枚の紙を取り出した。

 夫婦喧嘩の元凶となった、あの遺書である。昨夜、アモイは寝床の上で、東の空の白むまで二通の書状を見比べていた。確かにムカワの提案は、根本的な解決にならない。その点は、理知的な彼らしからぬ策ではあった。が、何度か読み直すうちに、気づいたのだ。彼もまた、自分と同じ思いを秘めているのだと。我らが主君を、いつか日の当たる場所へ──その未練を、彼も捨て切れていないのだ。

 そう思い至ったとき、西陵せいりょう城の執務室にしかつめらしく座っているであろうムカワの細面が妙に懐かしく、まぶたの裏に浮かんだのだった。

 マツバ姫もその顔を思い出しているのだろうか、うつむき加減で渋い表情をしている。アモイは彼女の前に義父の遺書を両手に捧げ持ち、言葉を重ねた。

「焼き捨てよとの仰せでしたが、私には従いかねますゆえ、これはお預けいたします。どうぞ、お気の召すままに処分なさいませ。ただし、その前に、私と離縁してください。そして、マツバさまのお望みどおりに、喜んで王座を譲り受ける者を新たに夫としてお迎えください」

「アモイ。そなた……」

「何でしょう」

 濃く白い息が、マツバ姫の唇から漏れた。蒸気の向こうの表情が、少しだけ緩んだように見えた。赤みの差した頬に、皮肉めいた笑みを含む。

「いつから、さように頑固になった?」

「夫婦は似るものと申します」

「わたしに似たか。ならば、そなたばかりを責めもできぬ」

 姫は肩をすくめて、顔を逸らした。寒空を仰ぐように面を上げて、舌打ちをする。

「フモンのやつめ。仲裁役にでもなったつもりか」

「仲裁?」

「西府を発つ前に、あやつは申したのだ。アモイはいずれ必ず、わたしに代わって国を継ぐことを拒む。そのときになって無理強いをするのは理不尽というもの、なぜなら、そういう男とわかって選んだはずだからだと。しかしよもや、かような小賢しい文を寄越すとはな」

 顔を外に向けたまま、マツバ姫は左手でムカワの手紙を差し返してきた。

 アモイはその分厚い折り紙を黙って受け取り、薄紙の遺書と重ねる。しばし姫の横顔を見守っていたが、やがて、二通の書をそっと懐に収めた。

「お許しください」

 深く頭を下げた。

 長い間があった。

 風が枯れ枝を揺らす。マツバ姫の長い髪の舞うさまが、床に映る影でわかった。

「許すも何もあるものか。別れ話など切り出されて、何が言える。わたしはそなたの妻なのだぞ」

 姫の声が降ってきた。なおも下を向いていると、

「よせ。人目がある」

 顔を上げ、欄干の下の前庭に目をやると、見送りのために設営した諸々の物品を片づける人々の姿がある。誰しも作業に集中しているように見えるが、中には階上の二人を盗み見ている者もあるかもしれない。

 いや、一人、あからさまにこちらを注視している中年男がいた。その冴えない背格好は、遠目からも見当がつく。シバだ。

 王の沓取りであった彼は、もともとがただの下男に過ぎない。主人が亡くなり、テイネの御方も頼りにできなくなった以上、すぐにお役御免となってもおかしくない立場だった。そこを何となく城の雑用をしながら、のらりくらりと居座っているのは、さすがのふてぶてしさとでも言おうか。

「面倒なやつに見られたな。新婚早々、不和などという噂を立てられても厄介だ」

 そう言って、マツバ姫は体ごと、夫に向き直る。そしてアモイがその意味を測りかねている間に、長い腕を伸ばして夫の両肩をつかみ、そのまま身体を寄せてきた。

 頬と頬とがすれ違う。

 二つの影が、一つになる。

 アモイには、何が起こったのかわからない。しかし確かなことは、彼女の手が背に回され、彼女の体温が胸に届き、彼女の呼気が首筋に触れている。銀の耳環が揺れるたびに、アモイの耳にも冷たい感触が走る。

「あ、あの、マツバさま」

「何をしている。あの狸に、見せつけてやれ」

「……あ、なるほど。では、その、失礼いたします」

 とは答えたものの、ためらいを払拭するのに数秒を要した。腹を決めて、恐る恐る腕を開き、姫の肩の後ろに回す。ほのかな薄荷はっかの香が鼻腔を刺激した。

 アモイの口から、白い息が空へ立ち昇る。

 あの残暑の日からずっと、姫に触れるのを避けてきた。主従として守るべき距離を超えたとき、自分の中にどのような感情が生まれるか、それによって今まで築き上げてきた彼女との絆がどうなってしまうのか、不安でしかたがなかったのだ。

 しかし今、アモイの胸にこみ上げてくる昂揚は、恐れていたような類いのものではなかった。

 言葉にすれば無礼に当たるかもしれないが、女を抱いているという感覚ではない。と言って、朋友と肩を組み合うような感じとも違う。何か人ならぬもの、この上なく貴いもの、しかしながら壊れやすいものではなく、無尽の生命力を湛えた崇高なもの。そう、たとえば――王家の紋章に描かれている、炎の翼を持った伝説の大鳥。あるいは、泥にまみれた孤児みなしごの少女の前に、ある日突如として舞い降りた神。

「生前に陛下の為したことは、どれもろくなものではなかった。したが、一つだけ感謝していることがある」

 耳の後ろで、神がささやく。

「八年前、そなたと引き合わせてくだされたことだ」

「もったいないお言葉」

 それだけしか答えられなかった。

 マツバ姫が、静かに身を離す。触れられていた肩の温もりが、冷気の中へ急速に散っていく。

 前庭にいた中年男の姿は、いつの間にか消え去っていた。

「しかし、そなたにはそなたの未来がある。婿に取られて泣く娘はおらぬと申しておったが、もしも想い合う者が現れたら、遠慮なく妻として迎えるがよい。正室の座は譲ってやれぬが、わたしはそなたの幸いを願っている」

「私のことより、ご自身はいかがなのです」

「わたしか」 

「マツバさまの幸いこそ、私の願いです」

「さて……幸いと災いは紙一重」

 はぐらかすように言って、姫はまた欄干にもたれかかり、遠い空を見る。久しぶりに、広く晴れわたった青天であった。国土を取り巻く山々の、雪を頂いた峰がその空に映える。

「会いたくもあり、会いたくもない」

「それは、どういう意味です?」

「そなたは、知らずともよいことだ」

 不得要領といった面持ちの夫を横目に、マツバ姫はからからと笑う。何が可笑しいのかわからなかったが、ともあれ久々の明るい表情に、胸の空くような思いがした。

 笑いを収めると、姫は欄干から手を離して背筋を伸ばし、東南に視線を向ける。その先に彼女が何を見据えているか、アモイにもすぐに察しがついた。

 彼もまた、姫と共に、同じ方角を向いて立つ。

「次に会うのは、戦場となろうな」

 二人の見つめる先の青空は、屹立する国境の山脈の上に、冷たく冴えわたっていた。

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