9-4

 青い海原に白い波、水平線に浮かぶ小さな島々の影──。

 結婚祝いの一つとして、公子クドオから贈られた風景画だ。美浜でも高名な画家の作らしいが、なるほど、海を見たことのない者の目にも見映えのするものには違いなかった。

 しかしその絵がマツバ姫の私室の壁に掛けられているというのは、アモイにとって気分のよいものではない。まるで公子がこの場に居合わせているかのような感じがする。

 もっとも現実主義者のマツバ姫は、「ただの絵ではないか」と笑って取り合わなかった。 

「キサラどのは、実家に戻してやるのがよかろうな」

 タカスからの密書を読み終えて、姫は言った。

「では、一の若君との離縁を?」

「ゆくゆくはそうなろう。が、本人が何を望んでいるのか、言葉を失ったままではしかとはわからぬ。まずは安らいだ暮らしと、よい医者にかかることだ」

「では、早々に迎えに行かせましょう」

「そうだな。あまり長くタカスのそばに置いておくのも心配だ」

 マツバ姫は冗談めかして笑い飛ばす。アモイは曖昧に頷いた。

 向かい合って座る二人の前には膳があり、酒と肴が置かれている。先ほどまではイセホが酌をしていたが、密談の気配を察したか、口実を設けて中座した。つまり、夫婦水入らず、である。

 すぐ脇にある衝立の向こうは、祝言の後に酔いつぶされ、寝かされた寝所だ。その苦い記憶があるので、いきおい杯を運ぶのも慎重になった。

「いかがした。何か言いたげな顔だな」

 姫が目ざとく見とがめて、問いただす。実のところ、アモイはそれを待っていたのだった。

 彼は懐から白布の包みを取り出した。中から現れたのは、細く畳まれた薄紙。それは、姫にも見覚えがあるはずだ。

「陛下の、ご遺言状にございます。今朝、王宮みやへ上がった折に、ご老公からお預かりいたしました」

 マツバ姫は眼を大きく開いて、アモイの顔を見返した。

「今となっては、このご遺言は見つからなかったことにするよりほかにない……それが、ご老公始め重臣一同のお考えです」

「焼くのか」

「ご老公が、すべての責を負うと」

「そうか。やむを得まいな」

 あくまで平坦な口調で言って、姫は手酌で杯を満たす。

「一の若が幽閉の身となった今、そんなものがあっては、東の若を王と仰がねばならなくなる。早々に処分するしかあるまい。陛下もお病みつきの上とは言え、面倒なものを残してくれたものだ」

「そうでしょうか」

 アモイは薄紙をそっと手に取り、姫に向けて開いて見せた。

「何の真似だ」

「この文面、今一度よくご覧ください」

 姫は怪訝そうに眉をひそめる。だがその表情は、作り物だ、と直感した。

「王位継承は、厳に御大法の定めに従うべし──。恐れながら、マツバさま。御大法の家督相続に関する条文を、そらんじておられましょうか?」

「からかっているのか。童でも知っている」

「私もそのつもりではありましたが、昨夜、改めて細部まで読み直してみました。曰く──一家の跡取りは、正腹か妾腹かを問わず、実子のうち年長の者より任ずべし。おおよそ、そういう内容でした」

「記憶と相違があったか」

「いいえ。しかし、発見はありました」

「発見?」

「今まで見落としていたことに、気づいたのです。つまり、御大法には、跡取りを男子に限るとは一言も書かれていないと」

 アモイが言うと、姫の眼が白刃のように鋭く光った。だが怯むことなく、彼は言葉を継ぐ。

「陛下の実子にして、最も年高なる者とは、本当に一の若君を指しているのでしょうか。若君はマツバさまと同年ですが、数か月遅れてお生まれになった。これは動かしようのない事実です」

「……」

「してみれば、世継ぎとして指名されたのは、そもそも一の若君ではなかった。東の若君でも、ましてや婿養子である私などでもない。陛下は、貴女を――紛れもないウリュウの血を引く第一子たるマツバさまをこそ、選ばれたのではありませんか?」

「愚かを申せ」

 姫はうつむき加減で、低くつぶやく。

「始祖ウリュウ・ソウウン公が御大法を定めたのは、大昔のことだ。そのかみは、女子おなごが世継ぎになるなど、考えるまでもなくありえぬことだった。ゆえに条文に記す必要もなかったのだ」

「私が申し上げているのは、御大法の解釈ではございません。陛下のご遺言の、真意についてでございます。条文をあくまで文字どおりに読めば、マツバさまが第一の王位継承者であることは、疑いようがない。そしてご遺書には、従うべしとある……。どうぞ、お手に取って、もう一度ご覧ください」

 アモイが差し出した薄紙を、姫は一瞥しただけで、受け取ろうとはしない。手元の杯をぐいとあおると、やおら立ち上がって、衝立の向こうへ姿を消した。

 少し迷ってからアモイも立ち上がり、衝立の横に立って奥をのぞいた。そこは天蓋も紗布もない、簡素な寝所だった。中央には床よりも一段高くなった寝台があり、薄色の寝具が敷かれている。

 マツバ姫はこちらへ背を向けて、しとねの上に胡坐をかいていた。膳のそばにある燭台の明かりは、そこまでは届かない。薄暗がりの中から、香の匂いが漂ってくる。

 アモイにはそれ以上、奥へ踏み入ることはできない。遠い姫の背中を目がけて、声を投げかけた。

「ご存知だったのですね。父君のご遺志を」

 知らなかったはずがない。他人のアモイにわかることを、娘であるマツバ姫が気づかずにいられるものか。

 二人が病床の王を見舞い、婚儀の許しを得た日の記憶が、鮮やかによみがえる。あのとき、父王は娘の耳に、何事かをささやいた。その言葉に、姫は微かに、しかし確かに動揺していた。

 何を言われたのかと尋ねるアモイに、婿取りを許可する旨だと姫は答えた。だが、やはり、それだけではなかったのだ。聞こえなかったはずのあのささやきが、今ならはっきりと耳に響いてくるような気がする。

──婿を取るならば……嫁がずにウリュウの家に残るというなら、そなたがこの国を継いでくれるな?

 死期を悟った父の、最後の願望。それを今、娘は黙殺しようとしているのだ。

「陛下のご意思など、問題ではない。いつか、そなたに言わなんだか?」

 姫は背中を向けたままで言う。

「考えてもみよ。こたびの騒動のもとは、そもそも何だ。シュトクの乱行か。テイネどののはかりごとか。そうではあるまい。事の発端は、ひとえに陛下の優柔不断にある」

「優柔不断とは……お言葉が過ぎませんか」

「果断と申すか? もしも一の若を幼少より世継ぎと定め、正しく教え導いていたなら、育ちかたは異なっていたであろう。人徳者とまではならずとも、いま少し行状がまともであったなら、誰も異を唱えることなく、世の常のとおりに嫡男が国を継いで事は済んだ。しかるに、かれの立場を定めずしてわたしを格別に扱い、また一方ではテイネどのの言うがままにハルどのを引き立てるなど、いたずらに人心を惑わしたは陛下の落ち度だ」

「恐れながら、一の若君は、幼いころから残虐な遊びを好まれていたとうかがいました。その本性はいずれ変わりようがない……そう思われたからこそ、陛下は若君を選べなかったのではありませんか」

 マツバ姫は言い返さない。彼女もまた、同年の義弟の心根を正すのは難しいと、肌で感じていた一人だったのだろう。

 だとすれば、とアモイは思う。シュトクには早々に見切りをつけて、マツバ姫を世継ぎにすると生前から宣言してほしかった。それが無理なら、せめて遺書にそう明記してあればよかった。なぜ古法など引き合いに出して、暗示するに留めたのか。おかげで故人の真意はイノウにすら伝わらず、もしもアモイが見過ごしたなら、暗黙のうちに闇へ葬られてしまうところだった。

 しかしそれもまた、王の愛娘に対する配慮だったのだ。姫自身に国を継ぐ腹があれば、大法という確固とした根拠で反対派の口を封じることができる──逆にそれを望まない場合は、遺言の真意に気づかぬふりをしてやり過ごすこともできる。父は、あえて選択の余地を残して逝ったのだ。

「陛下は、マツバさまの幸いを心から願っておいでだったのでしょう。なぜそのお気持ちを、お認めにならないのです」

「わたしの幸い?」

 姫はゆっくりと顎を動かして、顔だけをわずかにこちらに向けた。常に増して、平坦で無感情な横顔。しかしその奥から、未だかつて見せたことのない激情があふれ出てくるようで、アモイは体の芯に震えを覚えた。

「さような私事のために国を分裂の危機にさらして、何の幸いがあろう。きみ国民くにたみの父でなければならぬ、娘の父である前に。仮にこの国の滅びるようなことがあれば、王家の血筋たるわたしも生きてはおられぬのだからな。それすらわからぬ了見で親心を振りかざすのならば、テイネどのと変わらぬわ」

「……」

「見誤るなアモイ。陛下の行いは、まことわたしを慈しむものではない。ただ御自らの心を慰めるものに過ぎぬ。何となれば」

 そこでマツバ姫は、ふっと自嘲するように息を吐く。

「わたしは、亡き母の写し絵に過ぎなかったのだ。陛下はテイネどのを側室に迎えた後も、母を寵愛されていた。母が十六年前に病死したとき、御心を乱された陛下は、わたしのことなどまるで目に入らぬありさまだった。無論、一の若も、ハルどのを産み落とされたばかりのテイネどのもな。そう、わたしたちは誰も、ではなかった」

「マツバさま……」

 アモイには、故人を擁護するための言葉を見つけられない。何より、彼は無力感に打ちのめされていた。姫の実父に対する冷淡さの奥に、これほどまでの深い憤りがあるのを知らずにいた自分が、情けなくてしかたがない。

「もしや……ご自身の受け継いだご血脈を、呪っていらっしゃるのですか」

 この身にも、狂気の血が流れている。いつか彼女がイノウに告げた言葉を、不意に思い出す。

「それゆえに、あえて血の繋がらない者を、王にしようとお考えになったのですか?」

 マツバ姫は答えなかった。寝台の上で体ごと向き直り、衝立の横に立つ夫を見上げる。激情の面影はすでになく、穏やかな表情を取り戻していた。

「いずれにせよその紙切れは、病みつかれた者のうわ言に過ぎぬ。老公の申すとおり、早々に焼き捨てることだ。よいな?」

 有無を言わせない眼差しだった。

 それは命令だ。彼女を主君と仰ぐ以上は、逆らうことは許されない。従わないとすれば、形式だけでなく本質的に、二人の関係は変わってしまう。それだけは避けなければならない、とアモイは思う。

 にも関わらず、どうしても首を縦に振ることができなかった。

「恐れながら、できません」

 姫の眉根に険しい谷ができる。

「何ゆえに?」

「父君のお言葉と思われますな。これは天意にございます。私はいつか申し上げました、世界が貴女に追いつく日、この国の主とおなりくださいますようにと。この遺書が、今この手にあることを、運命さだめと呼ばずして何としましょう」

「運命はそなたを選んだ。イノウも重臣どももな。されば、民とて納得する」

「誰が何と言おうと、お引き受けする気はございません」

「聞き分けがないぞアモイ。そなたらしくもない」

「私にはできません」

 そう言いきって、相手の鋭い視線をまっすぐに受け止める。

 マツバ姫は威圧するかのように、しばらく黙っていた。が、やがて呆れ顔で「是非もないな」とつぶやいて、おもむろに褥の上で居住まいを正した。そして、思いも寄らないことを口にする。

「アモイ。こちらへ参れ。夫婦めおとの証立てをする」

「……は?」

「さすればそなたも覚悟が決まるはず。この身も国ももろともに、おのがものとするがよい。それが男子の本懐と言うものであろう」

 体内に、恐ろしい速さで血が駆けめぐる。怒りのような、そうでないような激しい感情が、アモイから呼吸と言葉とを奪った。頭の中に無数の想念が浮かび、そのどれもがまともな像を結ばない。

 やがて永遠にも思える一瞬の後、

「これ以上は、お話しすることはありません」

 ようやくそう言って、アモイは寝台に背を向けた。そのまま振り返らず、荒々しく床を踏んで戸口まで進む。

 部屋を出る直前、視界の片隅に、あの青い海の絵がちらりと映った。躍る白波があたかも嘲笑あざわらっているかのように見え、知らず、扉を閉める手に力が入った。


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