9-3

 冬陽が白く照らす石畳の上で、アモイは立ち止まった。

 最初は空耳かと疑い、次に風の音かと思い直した。ひゅうひゅうという頼りない雑音は、しかし、どうも自然のものとは聞こえない。

 西陵せいりょう城主別邸の表玄関へ向かう道を逸れて、アモイは庭のほうへ歩いていった。久しぶりに暖かく、日陰の雪さえ解けてなくなっている。土の匂いの漂う木立の間を抜けて裏庭をのぞくと、謎の音の出所はすぐに見つかった。

 縁側に腰かけて、横笛の吹き口に息を吹きこんでいる少女の姿。小さな指で懸命に穴を塞ごうとしているが、どこかから空気が漏れているらしい。調子外れの音が、葉の落ちた木々の梢をさ迷っている。

 橋場はしば市街いちまちへ出かけた際に、買ってもらったものらしい。吹けるようになったらマツバ姫に聞かせる約束なのだと言って、毎日のように練習しているという話だけは聞いていた。

 剣にしろ笛にしろ、相変わらず健気なことだ。ついちょっかいをかけたくなったが、思いとどまる。西府さいふで戯れ合っていたころとは違うのだ。一抹の寂しさを感じながら、引き返そうと踵を返した。

 すると、背後のひゅうひゅうという音が止み、「アモイ」と呼ぶ声がした。

 振り返ると、ユウが立ち上がってこちらを見ている。向こうから話しかけてくるのは、久しぶりのことだった。

「すまんな。邪魔をしたか」

 若干の気まずさを覚えながら、アモイは言った。

「別に……」

 相手のほうも、どのような態度で接するべきか、決めかねている様子だ。

王宮おみやに行ってたんでしょ」

「ああ、今、帰ってきたところだ」

「早かったんだね」

「まあ、少しばかり、話をしてきただけだからな」

 朝一番でアモイを王宮へ呼び出したのは、イノウと重臣たちである。用件は、行く前からわかっていた。葬祭の明くる日である今日は、王位継承の内示を申し渡す期限とされているからだ。

 先代が生前に正式な世継ぎとして指名していたなら、面倒な手続きは必要ない。しかしそうでない場合、つまり今回のように臣下側から即位を乞われた時には、一旦はへりくだって辞退すべしという不文律がある。

 だから今日のところは、王位に就いてほしいと言われ、力不足だからと断る、という形式的なやりとりを交わしたに過ぎない。用件はすぐに終わり、まだ昼にもならないうちに帰ってきたのだった。

「王さまになるんだね」

 神妙な面持ちで問いかけられて、答えに窮する。

「みんな、噂してるよ。都が焼かれずに済んだのも、国境が無事だったのも、全部アモイのおかげだって。他にふさわしい人はいないって」

「おおかた、テシカガあたりが言いふらしているのだろう」

「でも、本当なんでしょ」

「どうかな」

「格好つけちゃって」

「こいつ、生意気な口を」

 ふふ、とユウが笑った。アモイの前で笑顔を見せるのも、これまた数か月ぶりだ。

「いいんじゃないの。なれば。そしたら、あたしが代わりにマツバさまのお供をするから」

「馬鹿を言え。私の役目は、生涯、マツバさまをお守りすることだ。おまえなどに譲ってたまるか」

「王さまになったらそれだけで忙しくて、きっと他のことなんてできない。マツバさまのことも、あたしのことも、かまってなんかいられないよ」

「誰が王座になど就くものか」

 思わず、本音が口を突いて出た。ユウが丸い目を大きく見開く。

 アモイは急いで周りを注意深く見回した。窓の中、廊下の奥にも、声の届きそうな範囲に人の気配はなさそうだった。

「ユウ。誰が何と言おうと、私には王になるつもりはない。たとえそれが、マツバさまのお望みだったとしてもな」

「……」

「この話は終わりだ」

 ユウは戸惑いの表情を浮かべながらも、こくりと頷いた。

 どこかから、啄木鳥の幹を打つ音が響いてきた。のどかな小春日和の静けさが、二人を包む。

 次にこの少女とまともに話すのは、いつになるだろう。アモイはほとんど無意識に、夏よりもいくらか髪の伸びた頭に手を置いた。汚い手で触るな、とは、今日のユウは言わない。ただおとなしくうつむいているだけだ。

「ねえ」

 ややあって、再びユウが口を開いた。

「鏡の都って知ってる?」

北湖国きたうみのくにの都が、どうかしたか」

「きれいなところなんだよね」

「そういう評判だ。私も見たわけではないが」

「ふうん」

 アモイは少女の頭から手を離し、中腰になって相手と目を合わせた。

「鏡の都の、何が気になる?」

「気になるっていうか。あの人たちが、話してたから」

「あの人たち?」

「公子クドオ、だっけ。あと、もう一人の……」

「ヒヤマ・ゼンか」

 昨日のテシカガと同じで、思わず声量が下がる。噂の当人たちに聞こえるはずはないとわかっているが、つい離れの方角に視線が向いた。

 美浜の主従は、明朝、帰国の途につく予定になっている。その前に市中を見物してみたいと言うので、テシカガを案内につけて橋場の市街へ送り出した。葬祭の間は休業していた店も今朝から再開しているはずなので、そこそこ時間はつぶせるはずだ。まだしばらくは、帰ってこない。

「二人が、北湖の話を? どんな内容だった」

「どんなって……美しいものは、人を惹きつけるって話」

「何だ、それだけか」

 拍子抜けして、アモイは体を起こした。

「あと、戦をするときにも大事だって」

「戦?」

「うん。でも、正直、あたしにはよくわかんなかった。戦の勝ち負けに、美しさが何か関係するの?」

 さあな、としかアモイにも答えられない。いずれにしても、子どもが立ち聞きできるような場所でのやりとりなど、ただの世間話だろう。特に気にかけるものでもなさそうだ。

 小間遣いがアモイを探しに来たので、それで会話は終わりになった。「その笛、早くまともな音を出せるように頑張れよ」と言って、少女に背を向ける。

「吹けるようになったって、あんたには聞かせてやらない」

 威勢のいい憎まれ口が後ろから飛んできて、アモイは思わず破顔した。

 さて小間遣いから書簡を受け取って、書斎へ向かう。炭鉢に赤々としたものが見え、部屋の中は暖まっていた。例によってイセホの気配りだろうか、きっとそうだろうと心の中で手を合わせる。

 文机の前に座り、書簡を開いた。予想どおり、四関しのせきに入ったタカスからの報告書だ。

 もぬけの殻だと聞いて駆けつけた四関が、行ってみれば賊の一団に占拠されていた。しかし蔵の酒を勝手に飲んだというほかには特段の被害もなく、投降の呼びかけにも素直に応じたため、厳重注意の上で放免した──と、格式張った文章で書かれている。

 それにしても、紙が妙に分厚い。と思って探ってみれば、薄紙が裏張りされていた。慎重に剥がしていくと、薄墨で記されたもう一つの文面が現れる。こちらは略字も多く、表現もくだけたものだった。

 そこには、彼が騎馬隊を率いて国境に到着してから翌朝までに遭遇した出来事が、日記のように書き連ねられている。バンと名乗る賊の頭目と意気投合し、砦の明け渡しはごく平和裡に片づいたようだ。

 手下たちのほうは最初こそ警戒していたが、頭目とタカスが親しげに話す様子を見て、何かしら察するところがあったのだろう。もっとも彼らは報酬さえもらえればあとはどうでもいいという姿勢であったから、誰も表立って事情を質そうとはしなかった。

 タカスは蔵を開いて賊たちに金品を分け与え、酒食でねぎらい、望む者には仕官を許すと伝えた。何人かは応じたが、大半の者はバンに倣って、翌朝早々に国境を去っていった。

 そのため今はまた人手不足に陥っているが、まもなく東原とうげんからの補充人員が到着する見込みだという。

──美浜の主従が帰国のために関を通過するときまでには、何としても態勢を整えておかなければ。

 これ以上、美浜に弱味を見せたくないという気持ちは、タカスにも共通しているようだった。

 密書にはもう一つ、気になることが書かれていた。シュトクの妃、キサラのことだ。罪人の妻とは言え本人には何の咎もない、むしろ夫の乱行に苦しめられてきた憐れな身の上に免じて、何とぞ寛大な沙汰を下されたい……。内容はもっともだが、庇っている相手が若い女人だというのが、一抹の不安を感じさせる。

「いや、まさかな」

 さすがのタカスも、幽閉された大罪人の妻に手を出すほど、見境のない振る舞いはするまい。そう自分に言い聞かせて、アモイは二通の書状を畳んで文机に置いた。

 そして一呼吸を置き、気持ちを切り替えてから、懐の奥へ手を差し入れる。取り出したものは、白布の包みだ。布の角を摘まんで、丁寧に開いていくと、また一枚の薄紙が姿を現した。

 今は亡き義父、ウリュウ・タイセイの遺書。

──厳に御大法の定めに従うべし。

 その短い文面を、アモイは長い間、黙って見つめていた。彼はこの後に、自分にとって最も手強い相手との戦いを控えている。

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