9-2
揺り起こす人の手を感じて目を開くと、間近に女の顔があって仰天した。慌てて寝台の上に身を起こし、はだけた襟元を整える。
「お疲れのところ、お許しくださいませ」
申し訳なさそうに首を傾げたのは、イセホだった。寝台の傍らにひざまずいて、手に男物の着物を捧げ持っている。
「マツバさまとご一緒に、お出かけになるご用事がおありなのでしょう。そろそろお目覚めになりませんと」
「えっ」
そう言われて外の気配をうかがうと、いつしか陽射しが傾きかけている。仮眠のつもりだったのにと、体中の毛穴から冷や汗が噴き出てきた。
「ご安心くださいませ。身支度をする時間は充分にございますわ。お召し物、よろしければこちらを」
「かたじけない……助かります」
丁寧に畳まれた外出着をアモイに手渡すと、イセホはにっこりと笑って退室していった。ふと見れば、洗面のための水も手拭いも、抜かりなく用意されていた。
まさか故人の霊前でその長男が弟に刃を向け、母親に重傷を負わせ、あまつさえそれを隣国の太子に目撃されるとは。もはやこの事実は、闇に葬ることもできない。
しかしとりあえずシュトクは拘束され、彼が率いてきた反乱軍もミヤノ総督以下の──実際はほとんどムカワ将軍の──指揮する宮軍によりほどなく鎮圧された。その報告を受けた上で斎場と参列者を祓い清め、儀式が再開されたときには、もうすっかり夜も更けてしまっていた。
もとより葬祭の最終夜は暁まで祈り続けることになっていたため、儀礼の進行に大きな支障が出たわけではない。ただ故人の妻も息子も不在となり、近親者はマツバ姫とその夫であるアモイだけというのは、やはり異例ではあった。
夜が明けると男たちだけで棺を
「あっ、アモイどの」
身支度を整えて廊下に出ると、向こうから駆け寄ってくる男がある。武装しているので思わず身構えたが、すぐに見慣れた顔を認めて頬を緩めた。
「テシカガ。今、戻ったのか」
「はい、喪旗隊そのものは朝のうちに解散したのですが、ムカワ将軍が念のためにもう一度、見廻りをしようとおっしゃいまして。何しろ昨夜は混乱していましたから……」
「それはご苦労だったな」
テシカガは汗と埃に汚れた頬を不器用に歪めた。笑おうとしているらしいが、寒さと緊張で強張っているようだ。
「その血はどうした」
赤く染まった左袖を指差すと、えっ、とテシカガは狼狽する。自分でも今まで気づかなかったらしく、腕を恐る恐るさすりながら、
「私の血ではないみたいです。いつ、付いたんだろう」
「見たところ、返り血でもなさそうだ。誰か、負傷者を助け起こしたか」
「ああ、そう言えば、そんなこともあったかもしれません。夢中だったもので、何が何だか、よく覚えていないのですが」
「そうか、まあ、大きな怪我もないようでよかった。馬からは落ちなかっただろうな」
「あっ」
「落ちたのか」
「いいえ。落ちませんでした。あれだけ長いこと馬に乗って、落とされなかったのは初めてだ」
真面目な顔で言うのを見て、アモイは声を立てて笑った。それにつられてテシカガの顔にも、一瞬、本来の彼らしい柔和な笑みが戻りかけた。
「あ、いや、それどころではありませんよ、アモイどの。いや、
「どうした」
そう言えば昨夜も、彼はマツバ姫に向かって館さまと呼んでいたな、と思い出しながらアモイは聞き返す。
「見廻りをしていたら、タカスどのからの急使に出くわしたのです」
「タカスからの?」
「国境に向かう途中で驚くべき情報が入ったので、取り急ぎの報告をと。実は今、
そこでテシカガは言葉を切り、庭のほうへ目を泳がせた。離れにいる
「……美浜の軍勢が大挙して押し寄せ、国境を脅かしている、と」
真っ青な顔をアモイの耳元に近づけ、どうにか聞き取れるぐらいの低い声でささやく。
「ああ、そのことか」
対するアモイは、ごく普通の声で答えた。
「えっ……ご存知だったのですか⁉」
「昨夜、公子クドオから直に聞いた。心配は要らん、ただの脅しだ」
「脅し?」
「いや、美浜流の追悼の儀礼、だったかな。いずれにせよ、すでに軍勢は引き上げているはずだ。大事ない」
「しかし、しかしですよ、アモイどの。館さま」
「いちいち言い換えなくてもいい」
「それだけではないのです。得体の知れない賊の一団がどこからともなく現れて、四関を乗っ取ってしまったと。一の若君が留守に残していった補佐官も、生け捕りにされてしまって……。あれ」
アモイがまったく驚いていないのに、テシカガもようやく気づいたらしい。
「まさかこれも?」
「すまんな、テシカガ。その件も織りこみ済みだ。タカスが向こうに到着すれば、改めて知らせが来るだろう」
「はあ……。では、もう、すべて手は打ってあるということですか」
「昨夜から働きづめで疲れているところに、心労をかけたな。安心して休め」
テシカガの固く張った肩を、軽くたたいてやった。するとその華奢な身体は、まるで水に沈むように床の上にへたりこんだ。
「おい、テシカガ、どうした」
「大丈夫です……何か、ちょっと、気が抜けてしまって。あはは、足腰に力が入りません」
「しかたがないな。つかまれ」
「いえ。少し落ち着けば、自分で立てます。お出かけになるところだったのでしょう。私にはかまわずに、どうぞ」
「そうか」
初陣にしては、やや荷が重かったのだろう。しかし彼の働きは立派だったと、アモイは内心で見直している。人柄だけが取り柄ではないことを、自ら証明して見せたのだ。
そんなテシカガの意志を尊重して、手を貸すのはやめておくことにした。
「客人の世話は、他の者に申しつけてある。今日のところは、気兼ねせずに休めよ。ではな」
「あっ、アモイどの」
立ち去ろうとしたところを、背後から呼び止められた。
「ミヤノ総督が、アモイどのを褒めていらっしゃいました」
「ミヤノが?」
「兼ねてより高く評価していたが、予想以上の人物だと。王位を継ぐのにふさわしい器だと、もう絶賛でした」
変わり身が早いな、とアモイは苦笑した。金で将軍の地位を買い、テイネの
だがミヤノが態度を豹変させたのは、世の風向きが変わった証拠でもある。有り難いことだ、とアモイが答えると、テシカガは彼本来の人の好い笑顔で頷いた。
それからすぐにマツバ姫と連れ立って、王宮へ戻った。道すがらテシカガから聞いた話を報告すると、概ねアモイと同じような反応であった。美浜の進軍については公子の言葉をそのまま伝えてあったし、賊の件に至っては、そもそも姫自身が仕掛人なのであるから、当然と言えば当然だ。
「賊の頭領は補佐官を生け捕りにした……と申したな?」
そこだけは、心に留まったようだった。
「あの男、ああ見えて存外に律儀なのだな」
さて向かった先は、祭殿でも本殿でもない。奥御殿と本殿の間にある、中奥の館だ。その一室で、テイネの御方が床に伏していた。医師の見立てでは、命に別条はないもののかなりの重傷で、しばらくは起き上がれないだろうとのことだ。
二人が見舞いに訪れたとき、義母は薬の効き目が残っているのか、うっすらとまどろんでいる様子だった。
白い瓜実顔、豊かに波打つ髪――それは数か月前、初めて対面したときと変わらない。しかし、あのときアモイの呼吸さえ奪った圧倒的なまでの
浅い眠りの狭間で悪夢でも見ているらしく、御方は汗を浮かべ、微かな呻きを漏らしている。マツバ姫が耳に唇を寄せて、テイネどの、とささやきかけると、義母はゆっくりとまぶたを開いた。
「うなされておいででした」
御方の視線が宙をさまよって、誰かを探す。
「ハルどのならば、別室でお休みです。お呼びいたしましょうか」
「あの子は……」
「はい」
「シュトクは」
低い声はかすれて、ようやく聞き取れるという程度であった。
「一の若君は、幽閉されておいでです」
マツバ姫が告げると、義母はまた目を閉じ、大きな溜め息をついた。それが傷に響いたか、眉間に谷ができる。
いや、苦悶の理由は肉体ではなく、その内側にあった。重たげなまぶたの下から涙がとめどなくあふれて、枕へと流れ落ちていく。
「笑うがよい。西の姫」
ほとんど声にならない声で、ようやくそう言った。姫はしばらく黙っていたが、やがておもむろに、
「いちばんになってみせる、と」
テイネの御方はわずかに首を動かして、継娘に目を向ける。
「若君が、申されました。あのとき、祭壇の前で」
「いちばん……?」
「はい。確かに、そのように」
「……」
何か思い出そうとするように、御方は濡れた睫毛の先にある中空を見つめる。
「一体どのような意味か、わたくしにはわかりませぬが」
「わかるまいな」
血色の失せた頬が、引きつったように持ち上がる。笑っていた。苦しげな自嘲だった。
「わかるまい。そなたさまにはわかるまい。そなたさまは生まれながらにして、揺るぎなく、いちばんであった。わかるはずがない」
「……」
「されど、わらわとて、いちばんだったはずなのじゃ。そなたさまの母君さえおらなんだら……そなたさまがかようにも、母君に似ておらねば」
姫は、これには何も答えなかった。
弟さえいなければ。おそらくはシュトクも、そう思ったのだろう。彼は狂人だが、蒙昧ではなかった。母親の真の狙いを、とっくに知っていたのだ。
彼は、最初から道具だった。かつては正妃の座を手に入れるための、そして後には、最愛の息子へ王位をつなぐための。一の若という呼称は、彼には皮肉でしかなかったのかもしれない。
「貴女と一の若君こそ、よく似ていらっしゃいます」
マツバ姫の言葉は、独り言のようだった。冷たく突き放すようにも、憐れんでいるようにも聞こえる。アモイには、その心情はうかがい知れなかった。
「テイネどの。一つだけ、お聞き届けいただけませぬか」
「今やすべては、そなたさまの手の内にあろう……わらわに、何を望む」
「東の若君を──ハルどのを、そばでお見守りください。誰ぞの企みで、つまらぬ争いに担ぎ出されることのなきように。いつまでも、平穏にお暮らしいただけるように」
「……ハルを」
「お願い申します」
テイネの御方はまぶたを閉ざし、両の目尻からまたひと筋ずつの涙をこぼす。そして姫とアモイが退室するまで、その目を開くことはなかった。
二人はその後、別室にいる
マツバ姫は世話役の侍女を下がらせて、義弟の顔をのぞきこむ。
「若君」
「あ……ねえさま」
義姉の姿が視界に入ると、ハルの顔はわずかに生気を取り戻した。
「ねえさま。かあさまは、だいじょうぶでしょうか。まだ、あいにいってはいけないのでしょうか」
「お心を静めて、しっかりと養生をなされば、じきによくなりましょう。しばらく我慢して、お言いつけをお守りなさい。母君のお体が回復したら、お城にお連れして、ゆっくりお話をなさるとよい」
ハルは、落ち着きのない目をして姫を見上げた。言われている意味が、よくわからないようだ。
「東の城で、ご一緒に暮らすのです」
「かあさまと、いっしょに?」
マツバ姫は、義弟の目をまっすぐに見返して、頷いた。途端に、ハルの頬は桃のように赤く染まった。
「ほんとうに?」
「本当ですとも」
「でも……わたしはそのうち、みやこにかえらなくてはいけないって……それまでは、いっしょにくらせないって、まえにかあさまがいっていました」
「前のときとは、話が変わったのです。ハルどののお役目は、これからもご自分のお城を、しっかりと守ること」
「じゃあ、ねえさま、それじゃあ」
ハルは細い目をいっそう細め、嬉々として義姉にしがみつく。
「わたしは、おうさまにならなくても、いい?」
マツバ姫もアモイも、言葉を失った。そんな二人を前にして、義弟は澄んだ笑みを満面に浮かべる。
じゃあ、ねえさまも、いつか、いっしょにくらしましょう。かあさまも、にいさまも、とうさまも、わたしも。みんなで、なかよく。
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