8-4

 シュトクがマツバ姫に何事かを告げたようだった。しかしその内容を、アモイには聞き取ることができなかった。

 彼は今、目の前に迫った兵士の一撃をかわし、さらにもう一人の剣を鞘で払ったところだ。祭壇の前にいる姫のもとへ駆けつけるには、抜刀した十人の敵を先に何とかしなければならない。

 参列者の中にも、剣を抜いて身構えている宮臣が幾人かいる。しかし相変わらず壁際に張りついていて、あまり当てにはならないようだ。無理もない、武官の頂点にいるミヤノ総督が動こうとしないのだ。頼りになるような将は、ほとんど喪旗隊として外へ出ている。

 神聖な祭殿まつりどので殺生は避けたいところだが、自分だけで十人を相手にするとなれば、そうも言ってはいられない。アモイは腹を決めて、得物を抜いた。

 左右から、同時に敵が攻めかかってきた。右は袈裟懸けに斬ろうとし、左はまっすぐに突いてくる。その太刀筋を読んで足を踏み出そうとした瞬間、別の人間の気配が身近に滑りこんできた。

 右の兵士が剣を弾かれ、さらに顔面を殴打されて床に崩れ落ちる。左の敵は腕をつかみ上げられ、痛みに顔を歪める。自分の両側で一度に起こったその出来事を、アモイはつぶさに目撃した。

「ここは我らが」

 左の男の腕を捻り上げたまま、公子クドオが言った。右側ではヒヤマが、また二人の兵士をほぼ同時に打ち倒すところだ。

「早く、奥方のもとへ」

「かたじけない!」

 アモイはそう叫ぶと、美浜みはまの主従の援護を受けて敵の一団を突破し、祭壇へ向かって疾走した。

 しかし一の姫君と一の若君との対峙は、そのときすでに終わっていた。シュトクは身を翻してマツバ姫に背を向け、まったく別の方角へ駆けだしていたのだ。

 その先には、まだ床に倒れ伏したままのテイネの御方おんかたがいる。さらに傍らには、いつの間にかハルが屈みこんでいた。

「かあさま、ぐあいがわるいのですか?」

 そう言って母親の顔をのぞきこむ横で、シバが冷や汗を浮かべてオロオロしている。

 凶刃を手にした男は、まさにその三人をめがけて突進した。

 マツバ姫がその後を追う。アモイも急いで走る向きを変えたが、一刹那の後れをとった。ひっと声をあげて、シバが母子から離れる。

 直後、シュトクが怒声と共に、剣を振り上げた。その標的は──母親にすっかり気を取られている弟の、無防備に丸まった背中だった。

「ハル!」

 誰かが叫ぶのと、剣が振り下ろされるのがほぼ同時だった。

 その場にいる誰もが、息を飲む。

 血飛沫が、床に散る。近くにある炭鉢が、小さくジュッと鳴った。

 あああ。微かな声が漏れ、東原とうげん城主が目と口を大きく開いて、自分の前に立つ人物を見上げる。

 紺色の法衣をまとったその女は、肩口を手で押さえ、その掌から鮮血をあふれさせていた。

 あああ。それしか言えずにいる弟と、血に濡れた剣を握って立ち尽くす兄。

 その間で、彼女はゆっくりと、膝から崩れ落ちる。床が鈍い音を立て、静まり返った広間に響いた。

「……かあさまぁっ」

 ハルが金切り声をあげた。

 その声で、アモイは我を取り戻した。シュトクの背中に組みつき、「若君、ご乱心だ!」と叫ぶと、ようやく他の臣たちも金縛りが解けたように一斉に駆け寄ってきた。

 凶刃はたやすく床に落ちた。下手人は抵抗せず、脱力した様子で、なすがままに取り押さえられた。それを見届けると、アモイは他の者に彼を任せて立ち上がり、納刀して周囲を見渡した。

 シュトクが連れてきた部下たちは、すでに全員、床の上に倒れ伏している。美浜の主従はすでに抜き身を鞘に収め、少し離れた位置からこちらを見ている。目が合うと、公子クドオは相変わらずの穏やかな表情で頷いた。

 しかし、これで一件落着とはいかない。開かれたままの戸口から、息急ききって誰かが飛びこんできた。見ればそれは、喪旗隊に加わっているはずのテシカガだった。

やかたさま、大変です!」

 真っ青な顔をして広間の中へ入ってくると、彼らしくもない大声で急報を告げる。

四関しのせきの兵が、ムカワ将軍の制止を振りきって、都に雪崩れこんできました。この王宮の門前まで押しかけて、討ち入ろうとしています!」

 一瞬の間の後、斎場は再び混乱の渦と化した。男たちは互いに顔を見合わせて、信じられぬだの前代未聞だのと、埒のないことを喚いている。紺色の女たちは震え上がって、部屋の隅から動かない。神官たちは故人のためにではなく、神の加護を求めて祈り始める。祭殿全体が震撼しているのを、アモイは足元に感じた。

 血の飛び散った床の上には、うごめく新種の生物のように、黒髪を乱して身悶えしている王妃の姿。それを目の当たりにしたハルはついに「うああああああっ」と耳をつんざくような奇声をあげ、ますます人々の狂乱ぶりに拍車をかけた。

 アモイは広間の中央に立ち、「各々がた、鎮まられよ!」と声を張り上げたが、耳を貸す者はない。

 これでは収集がつかない──焦りを覚えたそのとき、入り口近くに立つテシカガが、はっと息を飲んだ。時を同じくして、美浜の主従も目をみはる。壁際にいる他の者たちもだ。方々へ散っていた群衆の意識が、共通の一点へと瞬時に集約されていく。

 一体、何事が起こったのか。アモイは彼らの視線を追って、後ろを振り返った。

 途端に、葬祭の場には似つかわしくない、あまりにも鮮やかな紅色が、目に飛びこんできた。

──マツバさま。

 祭壇の前に、背筋を伸ばした立ち姿。その長身を覆っていた紺色の法衣を脱ぎ去り、右手で無造作につかんでいた。彼女が昔から最も好んできた色の上衣うえぎぬに袴、帯。裾と袖とを巻きしめた、活動的な装い。長くまっすぐな黒髪は一つに束ねられ、頬も額も、銀の環の光る耳も露わとなって、はっきりとした目鼻立ちを際立たせている。

 父親の死を悼む娘の姿ではない。戦を前にした勇者の佇まいだった。そう、人前に出るときは控えていたはずの愛剣も、当たり前のように腰に帯びている。

 人々の視線を一身に集めた彼女は、それをそのまま引き連れて、静かに歩きだす。まるで水面を波紋が走るように、騒いでいた者たちが口を閉ざしていく。

 うああああああ。最後に、ハルの泣き声だけが残った。

 血まみれの指を震わせているテイネの御方の傍らへ、マツバ姫はひざまずいた。手にした自らの法衣を継母の傷口に押し当て、耳元に唇を寄せる。お気を確かに、傷は浅うございます。小さなささやきであったが、その声は広間中に響くように思えた。

 それから姫は顔を上げ、近くの壁際に目をやった。炭鉢に隠れるようにしてうずくまり、様子をうかがっている中年男をそこに見出だす。ほとんど声にもならない唇の動きで、医者を、と命じた。

「は、はい、すぐに」

 シバはおぼつかない足取りで立ち上がり、まだ腰を抜かしながら、よたよたと広間を出ていった。

 次にマツバ姫は、継母の傷を押さえたまま後ろを振り返って、ハルを見た。彼の奇声は、いつの間にかやんでいる。姫はその体で、義弟の目から、傷ついた母親を覆い隠していたのだ。

 東原城主は鼻水を啜りながら、義姉の顔を見返す。すると姫は、その鋭い眼差しを和らげ、微笑んで見せた。

 強張っていたハルの顔の筋肉が、ふうっと脱力するのがわかった。

 そしてこの瞬間、斎場内の人々もまた金縛りから解かれたように動きだした。まずは片隅で震えていた紺色の女たちが、それぞれのするべきことを判断して散り始める。あるいはテイネの御方のそばに、あるいはハルのそばに。湯を沸かしに退室する者、飛び散った血の後始末をする者、神官を促して祭壇の清めを行う者。

 となると、次は男たちだ。

 動きだした女たちに継母と義弟を引き継いだマツバ姫は、立ち上がって眼差しをアモイに向けた。するとその眼差しをたどるようにして、衆人の視線が彼のもとに集まってきた。

 アモイは姫に向かって頷いた。そして周囲を見渡し、最初に命令を下すべき相手を呼んだ。

「ミヤノ総督」

 仕立てのよい喪服を着た男が、壁際でびくりと身を縮める。

「総督。四関の兵どもを、すぐにも征圧しなければなりませぬ」

「し、四関の兵。征圧」

「ムカワ将軍が、すでに喪旗隊をもって応戦しておられるはず。すぐに近衛の兵を連れ、援軍に向かっていただきたい」

「援軍、と言われても……」

「もっとも、戦らしき戦にはなりますまい。総大将を捕らえたと知らせてやれば、敵は戦意を失うはず」

 噛んで含めるように諭すと、貴族上がりの総督の顔色が少しよくなった。

「テシカガ。先導して差し上げよ」

「はっ。では総督、こちらへおいでください」

 ここでも、テシカガの腰の低さが役に立つ。慇懃な応対を受けて、ミヤノはどうにか矜持を取り戻したようだ。

「心得た。すぐに参ろう」

 虚勢を張ってそう言い、祭壇に黙礼すると、肩をそびやかして広間を出ていった。

 アモイはさらに他の将の名をいくつか呼んで、都の治安確保と民衆の保護を命じる。また、テイネの御方を奥の間へ運ぶこと、ハルをそれとは別の部屋で休ませること、倒れている狼藉者たち──気絶している者と、怪我をして動けない状態の者と──を牢に連行すること、本殿にいるイノウら重臣たちに状況を報告することなどを、矢継ぎ早に指示した。

 こうして男たちも、それぞれ役割を得て動きだした。その場に留まっているのは、アモイとマツバ姫、美浜の主従、そしてシュトクと彼を拘束している者たちだけだ。

「先ほどはご助勢、かたじけのうござった」

 アモイは公子クドオに歩み寄って礼を述べた。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ない。儀式の再開まで、控えの間にてしばしお待ちくださらぬか」

 シュトクの処遇を決める前に席を外させようという意図もあって、そう伝えた。公子はそれを察しているのかどうか、如才なく応じる。

「お力になれることがあれば、何なりと」

「お志のみ、有り難く頂戴いたす」

「ならば、邪魔はするまい。また後ほど」

 そう言って主従は立ち去ろうとしたが、出口の扉の前でふと足を止め、振り返った。

「アモイどの。一つ、言い忘れていたが」

「何事でござろう」

「いや、大したことではない。実は我が国でも、我らなりの流儀で、お義父ちち君のご冥福をお祈り申したくてな。国境に一軍を遣わし、夜を徹して喪に服すようにと命じておいた」

「国境に……?」

「貴国の砦の手前にある平地──我らは磐割いわりの原と呼んでいるが、昨夜、そこに我が国の将兵が夜営をしたはずだ。もっとも夜明けと共に撤収し、今は城に戻っているだろう」

 アモイが思わず眉根を寄せたのに気づいたのか、公子クドオはわずかに笑みを含んで付け足した。

「我らが国内で勝手に為したこと、ご多用のところにわざわざ断りを入れるほどのこともあるまいと思い、あえてお伝えしなかった。しかし非常時というものは、あらぬ疑惑を生みやすい。念のため、お耳に入れておき申す」

 もぬけの殻となった四関の前に、美浜の軍勢が大挙して押し寄せるさまが、アモイの脳裏に浮かんだ。弔いのためだけの行軍、そんなことがあるものか。穏やかならぬ感情が、心中にこみ上げてくる。

 今日、この祭殿で起こったことは、彼らにだけは見られたくなかった。にも関わらず、ほぼ一部始終を目撃され、さらに借りまでも作ってしまった。感謝の言葉を告げるだけでも、内心は忸怩たる思いなのだ。この上、白々しい口実で揺さぶりをかけるような真似をされて、心安くいられるはずもない。

 だが、そこは外交だ。アモイは苛立ちを顔色に出さないように抑えこみ、努めて冷静に言葉を選んだ。そうして口を開きかけたそのとき、背後から再び悲鳴があがった。

 顧みれば、シュトクを取り押さえていた二人の宮臣が、今しも腕から血を噴いて飛びのくところだった。その中間に、ゆっくりと立ち上がる男の手には、刃が光っていた。

 彼が母を斬った刀剣は、すでに回収されている。懐に、短剣を隠し持っていたか。

 公子クドオと、ヒヤマと、アモイと、ほとんど同時に、剣の柄に手をかける。しかし三人が動きだす前に、男はその刃を自らの頸部に当てた。

 あっ、と、声をあげたのは自分だったか、クドオだったか。次の瞬間、鋭い金属音が広間に反響する。

 狂人の短剣が車輪のように回転して、壁に突き刺さった。

「……なぜだ」

 自死すらも失敗した男は、もはやただ呆然と立ち尽くすしかない。

 間一髪のところで彼の手から刃を弾き飛ばしたのは、マツバ姫の剣だった。磨き抜かれたその刀身を鞘を納めると、紅の女剣士は大きく切れたまなじりから、静かな眼差しを男に向ける。

 たとえようもなく深い、哀れみの色。

「……うああああああっ」

 まるで幼子のように、あるいは弟のように、シュトクは大きな泣き声をあげて、その場に崩れ落ちた。


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