8-3

 祭殿まつりどのの外廊下には、置き行灯の明かりに惹かれて、夏虫がひまなく飛び寄ってきていた。胡坐をかいた足元に落ちてくる羽虫を、一匹、また一匹と、少年は指でつぶしていった。

 まだ幼い少年は、紺色の法衣で全身を覆っていた。喪装は無論、虫たちのためでなく、彼の親族――と言っても血縁はないが――の葬祭に出席するために着せられているものだ。

 しかし、まだ四歳の子どもだ。葬礼も三日目となれば、退屈も苦痛の域に達してくる。むずかるたびに、「若君、あちらでお休みしましょう」と広間から追い出された。もっとも、控え室にも特に面白いものはない。しかも暑い。それで勝手に廊下へ出て、行灯のそばで暇つぶしをしているのだった。

 小さな指はもう、虫の体液で真っ黒に汚れている。夕餉を終えてから長い間、彼はこのむごい遊びを繰り返していた。それでも、いつもと違って、口うるさい侍女たちが咎めることはなかった。誰も彼も慌ただしく辺りを駆け回っており、少年は祭殿の縁側の暗がりに、いつまでも放っておかれた。

 やがて廊下の先に現れた人影に気づいたとき、誰か大人が迎えに来たのだろうと、彼は思った。

 だがそれにしては、薄暗い明かりに照らし出された影は小さく、彼と大して変わらない子どものようだった。同じく紺の法衣をまとったその人影は、厠のほうからやってきて、広間のほうへ歩いていく途中で、不意に立ち止まった。

 喪装の後ろ姿が、震えている。廊下の真ん中に立ち尽くし、声を殺して泣いているようだった。

 それが誰か、彼にはわかった。妹姫――と、侍女たちには教えられたが、実際は同い年、それも幾月か年長の異母姉であることも彼は知っていた。

 会話をしたことはない。同じ御殿の中に住みながら、顔を合わせることもほとんどなかった。彼の母親や侍女たちは、その少女に近づくことを禁じていた。彼女は自分の敵であること、その理由は、彼女の母が自分の母の敵だからだということを、四歳の彼はすでにたたきこまれていた。

 だからその少女については、噂でしか知らない。母の侍女たちは、あの可愛いげのない姫、と呼んでいた。母とは縁遠い大人たちは、女子であるのがもったいない、と惜しんでいた。けれど実際はどんな娘なのか、彼にはまったく見当がつかなかった。

 その少女が、今、すぐ近くにいる。

 大人は誰も出てこない。

「おい」

 彼は、少女に向かって呼びかけてみた。少女がびくりと肩を上げ、ゆっくりと振り返った。

「ないているのか」

 頭巾の下からのぞく少女の眼は、小顔には不均衡なほど大きかった。それが真っ赤に腫れているのが、灯火の乏しい明かりにも見て取れた。すると彼の胸の内に、珍しい感情が起こった。この少女と、話を交わしたくてしかたがなくなったのだ。

「かなしいのか?」

 彼は、思いつくままに言葉を連ねた。

「おまえのかあさま、しんだのだろう。それがかなしいのか?」

 自分の投げかけた問いが、いかに非情なものであるか、彼は知らない。

「それとも、でなくなるのが、かなしいのか。わたしのかあさまは、おまえのかあさまがしんだら、いちばんになれるといっていたぞ。そうしたらわたしも、おまえのかわりに、いちばんになるのだって」

「……」

「それがかなしいのか?」

 少女は、涙目のくせに無表情だった。口を結んで、じっと少年のほうを見返していた。

 本当に大きな眼だ、と思った。だが、意外に可愛いかもしれない、とも思った。少なくとも、可愛いげがないと言っていた侍女たちより、よほど好ましい。

 やがて法衣の裾が床板を擦る音がして、少女が静かに歩きだした。まっすぐに、彼に近づいてくる。

 虫の死骸が散らばっているあたりの少し手前で、足が止まる。行灯の光が届いて、両頬にある涙の跡が照り輝いていた。手を伸ばせば届きそうなほどの近さに。

 何だかくすぐったいような気分になって、彼は手の甲で自分の顔をこすった。虫の体液が指から頬に移ったが、気にならなかった。ただ胸を高鳴らせながら、少女の桜桃色の唇が動きだすのを待った。

「そなたには、なれぬ」

 しかし彼女の発した声音はあまりに冷たく、少年の期待はあえなくしぼんでしまう。

「そなたは、だれのいちばんにも、なれぬ」

 言葉の意味よりもその声に、彼は失望した。可愛いげのない姫。まったくそのとおりだと思った。

 立ち上がって、少女を睨みつける。だが相手は動じることなく、幼子とは思えない鋭い眼差しを返してきた。

 姫さま、マツバさま、と、廊下の先から大人の呼び声が聞こえた。法衣の裾が翻り、彼女は声のするほうへ、何も言わずに立ち去ってしまった。

 少年と行灯と、大量の虫の死骸だけが残る。目の前にまた一匹、黒い甲虫が跳ねて出た。うちばきを履いた足で踏みつぶそうとしたが、虫は素早く飛んで逃げていった。

 代わりに、行灯を蹴飛ばした。紙と木枠が燃えだしたが、誰もやってこない。床板に燃え移ることもなく、存外簡単に、火は潰えた。

 彼は不意に、母親に会いに行こうと思い立つ。

 少年の母親はここしばらく、奥御殿の離れに寝起きして、外へ出ることはなかった。出産のためだ。数日前に、彼の弟にあたる赤子を難産の末に産み落とし、それを口実に、亡くなった王妃の葬祭にも出席せずにいた。

 縁側からそのまま地面に下りて、敷きつめられた玉石を踏み、少年は祭殿を去った。

 離れの戸口までやってくると、母の老侍女に呼び止められた。今は母君にお会いにならないほうがよい、と言う。喪中は産屋に立ち入るなと言われていたので、そのためかと思ったが、どうやら理由は他にもあるようだった。

「母上さまはお具合が振るいませぬで、たいそうおかんむりでございまする。今宵はご遠慮なされませ」

 だがその会話を当の母親が聞きつけたらしく、

「かまわぬ、入れ申せ」

 と、屋内から許しが出た。ひどくけだるそうな声だった。

 部屋の中は、散々たるありさまだった。壁にはいくつもの傷があり、その下には割れた椀の破片やら丸まった木綿布やらが散っていた。天蓋から幾重にも垂れ下がった紗布は、所々が引き破られ、ボロボロになっていた。部屋の隅で床を拭いている侍女たちは、いずれも怯えたような、疲れたような顔をしていた。

 帳をくぐって内側に入ると、母親が寝台に腰かけていた。傍らに、白い大きな枕のようなものが置かれている。それは布にくるまれた赤子であったが、彼にとっては興味を引くものではなかった。

 それよりも、母親だ。髪は乱れ、夜着も着崩れて、化粧の落ちかけた顔に、どこかいびつな笑顔を浮かべていた。美しい、と思った。落ち着き払って御殿をしずしずと歩み進む姿よりも、よほど強い愛着を少年は覚えた。

「かあさま」

 彼は真っ黒のままの手で、母の着衣にしがみついた。宙に視線をさ迷わせていた母親は、それでようやく息子に目を落とし、ゆっくりと首を傾げた。虫の体液がこびりついた少年の頬を眺め回したが、それを拭ってはくれなかった。ただ、熱のこもらない声で、「また、よからぬ遊びをしておられたか」と言った。

「かように汚れた手を。その手で、弟君に触れてはなりませぬぞえ」

「かあさま、かあさま」

 もとより彼は、弟など眼中にない。

「もう、いちばんになりましたか」

「いちばん?」

 母親が鸚鵡返しに聞き返す。少年は咳きこむように、急いで尋ねた。

「おきさきさまがしんだから、かあさまがもう、いちばんになったんでしょう。それで、わたしも、いちばんになったんでしょう」

 見る見るうちに、母親の頬に赤みが差した。

 その後何が起こったのか、しばらくは判然としなかった。気がつけば、少年の体は床板の上に仰向けになっており、馬乗りになった母親が鬼のような顔をして、腕を振り上げていた。侍女たちが集まってきて止めようとしたが、母は一心不乱に息子の頬を打ち続けるのだった。

「そうじゃ、いちばんじゃ。いちばんでなくば何じゃ。わらわはここに生きておるではないか。男子おのこを、お世継ぎを、こうして二人も産んだではないか。何ゆえに陛下は、わらわをないがしろにする。なぜじゃ」

 少年の汚れた頬に、母の血走った目から涙のしずくが落ちる。

 その目は、彼を見てはいなかった。だがその手は、一切の容赦なく彼を打ちのめした。どうかお気を確かに、若さまのお命が危のうございますと、老侍女が金切り声をあげた。

 母の手が止まったのは、そのためではなかった。別の誰かの声が、彼女の狂気をあっさりと鎮めたのだ。

 あああ。

 声は寝台の上から聞こえてきた。気の抜けたような、無意味な雑音。しかし母親は敏感に反応した。

 あああ。

 母親は立ち上がり、夢遊病者のような足取りで寝台へ歩み寄った。白いおくるみの中の赤子を見つめ、その小さな体を、壊れ物に触れるかのように優しく抱き上げる。

 床に倒れた少年の目に、弟の姿は映らなかった。自分には見せたことのないような表情で、腕に抱いたものに頬ずりする母親の様子だけが、淡い光に包まれていた。やがてそれもぼんやりとにじんで、すべての輪郭が曖昧になった。

 泣いているのだろうか。顔中が熱を持って痺れていて、自分でもわからない。仮に泣いているとするなら、一体、何の涙だろう。

 悲しいのか。──どこかで聞いたような問いだ。

 混沌とした視界に、不意にくっきりと、少女の顔が浮かび上がった。紺の法衣を身にまとった、同い年の義姉。その大きすぎる眼は、自分を睨んでいるのではなかった。

 彼女の瞳は、たとえようもなく深い哀れみの色をたたえていたのだった。

「みていろ」

 彼は幻に向かって言う。四歳の幼子の声ではない。声変わりを経た、若い男の声音だった。

「いちばんに、なってみせる」

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