7-3

 海が見える。

 はるか南の方角を注意深く見つめると、広大な美浜みはまの国土の向こうに、うっすらと青く、空を切ったように平らかな線がある。ぐるりを山岳に囲まれた国内にあってはついぞ見ることのない、あれが水平線というものだろう。

 見晴らしのよい塔の上で、男は大きく伸びをした。支給された外套が大柄な体には窮屈で、どこかで糸の切れる音がする。

 かまわずに腕をぐるぐると回して、ちらりと後ろを振り返る。背後にいるもう一人の兵士は、水筒の中身をほとんど飲み終えて、最後の一滴を舌の上に振り落としているところだった。

 四関しのせき物見塔ものみのとうには、常時、二人の見張り兵が配置されている。一人は東南すなわち隣国との境を監視し、一人は西北すなわち盆地の内側を向いて立つ。北東と南西の両翼には、峻険な峰がそびえていて、見るべきものはない。

 とは言え、物見の兵が、本当にているかどうか。塔の頂に、上官の目は届かない。水筒に酒を入れて見張りに立つのは、もはやこの砦城では常識となっているようだった。

「まだ、交代までには間があるぜ」

 男は後ろに声をかけてやった。折しも強い風が吹き抜けて、相手の耳には届かなかったらしい。返答はなかった。

 外套の下から瓢箪を取り出して、相手の背中に軽く当ててやる。

「よう、兄弟」

 後ろの兵士はようやく気がついて、差し出された瓢箪を手に取った。中にはまだ、半分ほどの濁酒が残っている。

「へえ、新入りの割には、用意がいいな。飲んでいいのか」

「飲んで体を温めでもしなけりゃ、やってられねえじゃねえか」

「恩に着る」

 兵士はごくりと喉仏を動かして、酒を飲んだ。ふうっと気持ちよさそうに息を吐いて、瓢箪を返して寄越しながら、名前は、と尋ねてきた。

「近ごろは、バンと呼ばれてる」

 そう答えて、自分も一口、喉に流しこむ。それから外套をまくり上げ、すっかり中身の少なくなった瓢箪を腰にくくりつけた。その様子を見て、相手の兵士が笑う。

「バン、さすがにその瓢箪はないぞ。あんまり見え見えじゃ、入って早々クビになる。せいぜい水筒にしておくといい」

「そうかい。誰にも止められなかったがな」

「まあ、昨日今日は、上のほうもてんやわんやだからな。館さまが城中の兵を連れていっちまったせいで、人集めに大忙しだ」

「そのおかげで、俺はこうして仕事にありつけたってわけだな」

 男は外套の袖をかき集めるようにして、腕を組んだ。今朝がたに降った雪がまだ解けずに残っているというのに、中に着ているのは自前の粗末な筒袖と薄っぺらな袴だけだ。吹きさらしの塔の上では、今しも凍えそうだった。

 こんな仕事、いくら給金を弾まれてもごめんだな、と、バンは内心に思う。

 もっとも、この四関の風紀の緩さときたら、公の城館とは思えないほどである。彼のような奔放な男が勤めるには、そう悪い環境でもなかった。これがまともな城なら、そう、あの男勝りの姫が治めている西陵せいりょうあたりだったら、勤務中に飲酒など見逃されるべくもない。

 やはり、宮仕えなんかするもんじゃない。ひと仕事終えて恩賞をもらったら、さっさとまたその日暮らしの生活に戻ろう。彼はそんなことを考えている。

「この辺の出なのか?」

 後ろの兵士が尋ねてきた。強面の割には存外愛想のいい新入りに、少し興味を持ったらしい。

 いや、窪沼くぼぬまだ、と、バンは答えた。

「窪沼?」

「知らねえだろうな。襲堰かさねぜきの向こうだ」

「そこで、野良仕事でもしていたのか」

「いや。ちょいと前までは、橋場はしばで人足をしてた」

「橋場? 何だ、都から来たのか?」

 どうしてまた、と、訝る顔を向けられて、男は無精髭をこすりながら笑った。

「いられなくなったのよ」

 男の体には、たくさんの傷跡がある。手の甲にも、頬にも。それで何となく事情を察したのか、相手はそれ以上は追及してこなかった。

 それから半刻ばかり風に吹かれた後、男は塔を下りた。交代の時間が来たのだ。入れ替わりに持ち場についたのは、彼と同年代で、体格も似た巨漢だった。

「上は寒いぜ」

「おう」

 すれ違いざまに交わした挨拶の気安さからして、二人が知己であるのは一目瞭然だ。彼らはいずれも、昨日から登用されたばかりの新参者だった。

 国王危篤の報が四関に伝えられたのが、四日前の未明。

 長官であるシュトクは、すぐには動こうとしなかった。しかし母親である王妃・テイネの御方おんかたから催促の信書が届くと、ようやく重い腰を上げて見舞いに旅立った。

 ……にしては、どうにも奇妙なところがあった。彼は国境警備のために配置されている将兵のほとんどを召集し、自身も具足を身につけ、一軍を成して出立したのだ。

 普段、シュトクに代わって四関の采配を取り仕切っている補佐官は、仰天した。砦がもぬけの殻になってしまうと必死に諫めたが、聞き入れてはもらえなかった。

──おまえの主君は私ではなかろう。兵がなくて困るなら、母上に泣きついてみるがいい。

 テイネの御方が選んで息子に付けたその補佐官は、それなりに有能ではあった。が、空の城ではさすがに美浜との国境を守ることなどできない。事の次第を都に知らせると同時に、近隣地域に触れを出して補充人員を募った。

 つまりこの緊急事態のせいで、どことなく柄の悪いあぶれ者たちを、一時的とは言え大量に召し抱えざるを得なくなったのだ。

 もっとも四関が混乱しているのには、他にもわけがある。シュトクの出立とほぼ同時に届いた、国王崩御の報。さらに追い討ちをかけるように、別の急使がやってきた。その携えていたものは──先ごろ都に到着した美浜の使者から本国へと宛てた、直披じきひの書簡。中をあらためずに関を通過させるようにと、王宮からの添え状には指示されていた。

 西の姫の成婚祝いの使者が四関を通過しようとした時、シュトクは顔すら見せなかった。代わって念入りな検問を行ったのは、やはり補佐官だ。積み荷にも、使者や従者や人足たちの身体にも、危険を予期させるものはなかった。

 しかしながら、直被である。中身に実際、何が書かれているか、わかったものではない。王が亡くなったばかりのこの国に、軍を差し向けるように指示していないとも限らないではないか。そうなれば、今の四関ではとても防ぎきれまい。

 もちろんこうした情報は、公にされているわけではない。しかし、だからこそ、噂は尾ひれを広げていく。残された警備兵たちの中からも、不安に駆られて逃げ出す者が現れた。

 そういう状況での人員補充であるから、やってくるのは大抵、行き場がないかよほどの命知らずか、あるいはその両方というわけだ。バンもまた、その類には相違ない。

 もっとも彼は、橋場からまっすぐにこの砦にやってきたわけではない。大風水を舟で下って東原とうげんにたどり着くまではあっという間だったが、途中からは川沿いの小さな町村に、幾度となく足を止めた。

 特に何をするというわけでもなく、ただ集落の真ん中をふらっと歩く。それだけでも、一人二人の旧知がやってくる。古い借金の取り立てに来る者もあったが、「しばらく見なかったなあ、今は何をしてるんだ」とれた様子で声をかけてくる者も多かった。顔ぶれは、どれも同じような浮浪者ふうの男たちである。要するに、何かうまい話はないか、と情報を拾いに来るわけだ。

 男は彼らに、「暇か?」と訊き返す。これで勧誘は終わりだ。東国の町村から、度胸だけで生きているような男たちが、ぞろぞろと後ろについてきた。中には面識のない者もいたが、一目で同類だとわかるような顔をしていた。

 今、四関の衛士詰め所に胡坐をかいている兵の、三割近くがそういった連中だ。バンは詰め所に戻ると、生暖かく淀んだ空気にむせながら、外套を脱いだ。仲間たちが振り返った。

「ご苦労だったな」

「おまえら、そろそろ当番じゃねえのか」

「あんたが戻るのを待ってたんじゃねえか」

 中の一人が声を潜める。

「いつ、やる?」

 同じ部屋の、少し離れたところで車座になっている正規兵の一団を、横目で見た。休憩中も酒を飲んでいる。都では今ごろ大葬の三日目、全国民が喪に服していることになっている。役人を毛嫌いしている彼ですら、関所の守りがここまで堕落しているものとは思っていなかった。

 美浜国が本気で攻める気になれば、すぐにもこの城は落ちるのではないか。四関が落ちれば、敵はもう玄関を破ったようなものだ。学はなくとも、それくらいは想像がつく。

 物見塔に上って、隣国の領土の広大さを、初めて目の当たりにした。自分たちが住む山峡やまかいが、どんなに小さな鳥籠であるかを思い知らされた。国を守りたいなどという大志は、彼の胸にはない。しかし、ただ自分と、寒村に置き去りにした家族の生命を守るために、この仕事は果たさなければならないと、今は思っている。

 責任を感じたことなど、これまでの人生にはなかったことだが。ましてや、成功するかどうかもわからない作戦に命を賭けるなどとは。

「へっ、博打なら十八番おはこだぜ」

 バンはつぶやいた。

 仲間たちには聞こえなかったらしい。なかなか質問に答えない彼に向かい、少し声を大きくして、返事を促した。

「おい、バン」

「今夜だ」

 低く、短く、バンは答えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る